鳥山百合子

メディアとお手紙

アラスカからの手紙

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富貴子さんから届いたカード。両方ともデナリが描かれている

ある日、編集部にエアメールが届きました。封筒にはAlaska という文字が。どなたからだろうと封を開けると、一枚の美しいカードが入っていました。富貴子ワリスさんという方からでした。

富貴子さんは「とさちょうものがたりZINE09」を手にし、読んだ感想を綴ってくださっていました。

 

とさちょうものがたりの雑誌09号を読ませていただきました。

私の親友で土佐町の立割に住んでいる上田千佳さんが送ってくれたのです。

私の叔父の筒井賀恒さんのお話が出ており、大変懐かしく思いました。

その昔、私は「伊野町清水川窪」というところから、深い植林の山道を歩いて芥川にいき、叔父の家で数日お世話になり、楽しい時をすごしました。

高峯神社にも参拝したことがあります。

そこに生きる人々のお話が思いやりある言葉で綴られて文章となり、心が打たれるものがありました。

いつの世にも人と人との心のつながりは大切なもの。一つ一つの物語は誠実に生きる人々の美しい姿であり、学ぶことも多くありました。

それぞれの物語は私たちの心の糧となります。

これからもとさちょうものがたりの出版が長く続きますよう応援しております。

富貴子 ワリス

 

一冊の「とさちょうものがたりZINE」が海を渡り、遠くアラスカまで届いた不思議を思います。

富貴子さんの元へ届いたのは、富貴子さんのご友人が土佐町にいて、本を封筒に入れ、切手を貼り、郵便局から送ってくださったからです。一冊の本は、私の知らないところでたくさんの人の手を介し、旅をしていました。そのことを思うと胸が震えます。

デナリ国立公園に聳えるデナリ(マッキンリー山)が描かれたカードは、自らの足元は常に広い世界と繋がっていることを思い出させてくれました。

調べてみると、デナリは北アメリカ大陸の最高峰。きっとアラスカの方たちにとって、デナリはいつも自分達を見守ってくれている、原風景のような存在なのかなと感じました。

いつかアラスカを訪れ、富貴子さんとお会いできたらと願っています。

 

富貴子さんにお返事を書き、記事として掲載することの許可をいただいています。

 

とさちょうものがたりZINE09が発刊です!

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読んでほしい

山の良心市

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ゴールデンウィーク中のある日、土佐町から高知市へ向かっていると、山の道先に棒に結ばれたリボンが揺れているのが見えた。

新緑一色だった視界にピンクが加わると、視線はそちらに向かう。

そこには良心市があった。良心市は、手作りの棚に野菜や果物などが売られている無人販売所。販売している人はいないので、代金は置かれている箱や瓶の中に入れる。

台の上にはピンクの傘がさしてあって、「いらっしゃいませ」と呼びかけてくれているかのよう。吸い寄せられるように市の前に立つと、いたどりと茹でたけのこ、クレソンが並べられていた。

茎はまっすぐ、しなやかないたどり。いたどりは収穫した次の日には茎がシナッとしてくるので、これはついさっき収穫されたばかりなのだとわかる。隣には、傷まないよう、発泡スチロールの中に入った柔らかな茹でたけのこ。そして、きれいな水が流れる場所で育つクレソンが小さな花束のように並べられている。

丁寧に束ねられた結び目に心を掴まれ、私はいたどりを買った。娘が瓶のふたをあけ、100円を入れるとチャリンと音がした。いたどりを抱きかかえ、掲げ見せてくれた娘の姿を見ながら、日々の道の途中でこのような買い物ができる楽しさと幸運を忘れないでいてほしいと願った。

数日後、良心市の前を通ると傘の代わりに鯉のぼりが立っていた。5月の今日という日が、ちょっと特別な日に思えた。

 

 

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山の手しごと

桜の塩漬け

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土佐町の青木幹勇記念館に育つ八重桜が、今年も見事な桃色の花を咲かせました。

「何人かの人が、桜の花を塩漬けにしたいからって取りにきたよ」

記念館の田岡三代さんがそう話してくれました。

「桜の塩漬け」と聞いてまず思い浮かぶのは、あんぱんの真ん中に乗っている桜の塩漬け。なんと、お茶にもできるとのこと。お祝いの時に飲み、「桜湯」と呼ばれているそうです。

これは、ぜひ作ってみたい!

次の日の天気予報は雨、今日取らないと散ってしまうのは確実です。ということで、急遽、桜の花の収穫をしました。

 

目の前の花は満開!本当は五〜七分咲きの時に塩漬けにすると良いそうですが、これで作ってみましょう。木に登って摘んでいたら、記念館のお客さまが一緒に摘んでくれました。

 

桜の塩漬けの作り方

桜の塩漬けの材料は、桜、塩、酢の3つです。

摘んだ桜は、なるべく花びらが散らないよう、そっと水洗いして水を切ります。(手で絞らないように)

 

水切りした桜に、桜の量の半分くらいの塩をまぶします。ボウルをそっと揺らして、全体に塩が行き渡るようにします。30分程すると水が出てくるので、その水を捨て、また塩をまぶします。

 

しばらくすると、また水が出てくるので水を捨てます。

今度は、桜と同じ分量の塩をまぶし、酢を50mlほど加えます。(すみません、かなり適当です…)

バットを揺らして全体に行き渡るようにします。

 

密封できる袋に入れて、涼しいところへ置きます。時々ひっくり返したり、出てきた水分が全体にいくよう馴染ませます。

 

こちらは、塩漬けしてから1週間経ったもの。ピンク色が鮮やか!塩漬けすることで、香り高い桜へ変化します。

 

気持ちの良い風が吹く天気の良い日に干します。一つずつ広げながら干すのは少し大変ですが、とにかく香りが素晴らしいので頑張れます。

 

干した後ふと思いついて、袋の底に残った水分をビンへ、水分を吸ってどろりとした塩はバットへと分けました。

ビンに入れた水分は、勝手に「桜水」と呼ぶことにします。緑茶に少し加えてみたら、何とも上品なお茶になりました。

 

バットに広げた塩は、1日干したら水分が抜け、桜色の塩に。まるで満開の桜の色のよう。こちらは「桜塩」と名付けました。この塩を少し手に広げ、塩むすびならぬ「桜塩むすび」を握ってみたら、ほんのり桜の香りが。お花見をしているような気持ちになれます。

 

干した桜は、瓶などに入れて保存します。

友人は塩抜きした桜を刻み、イタドリも加えて混ぜご飯にするとのこと。こちらもぜひ試してみたいです。

 

春の桜を一年中楽しめる、桜の塩漬け。塩漬けすることでできる副産物の「桜水」と「桜塩」もうれしい。

おにぎり、お茶、混ぜご飯、パンやお菓子…。これから、色々と活躍してくれそうです。

毎日をちょこっと楽しくしてくれるものが、またひとつ増えました。

 

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読んでほしい

苗床づくり

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土佐町のあちこちで「苗床」の準備が始まった。

「苗床」は「なえどこ」ではなく、「のうどこ」と皆は言う。
この時期に顔を合わせると、大抵の人は「のうどこもやらんといかんし、山菜も取らんといかん。忙しい忙しい!」。そう言って足早に自分の仕事へと向かう。

「苗床」は苗の床、すなわち苗の赤ちゃんを育てるベットのこと。そのベッドに種籾をまいたトレーを並べ、保温のためシートをかける。お米を作っている友人によると、大体4〜5日後にシートを少しめくり、芽が1センチ位に生え揃っていたらシートを剥がすそうだ。そして、そのまま田植えにふさわしい大きさの苗になるまで育てる。

長年の経験と知識が問われるこの作業は、その年のお米の出来を左右すると言われるほど重要な仕事だ。

 

4月22日、午前9時。空気はまだひんやりとしているが、雲の間から差し込む光が今日は暑くなると教えてくれている。

麦わら帽子を被った人が、苗床の準備をしていた。整えられた土の床には肥料が撒かれ、周りは水で囲まれている。その人は、柄の先にローラーのついた道具を水にじゃぶんと浸し、勢いそのまま床の上をコロコロと動かしていた。

ジャブン、ジャブン。

土と水が重なり合い、床は水をたっぷり含んでいく。

「こうやって土に水分がいくようにするのよ」

その人は手を休め、教えてくれた。

あたりは土と水が混じった、むんとしたにおいで満ちている。あちこちでカエルの鳴き声が響き、空にはトンビがくるくると舞っていた。

ジャブン、ジャブン。

その人はまた田と向き合い、床を整え始めた。

毎年繰り返されてきたこの営みが、この土地を支えている。

 

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とさちょうものづくり

【土佐町の絵本】資料集め④

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ただいま進行中の『「土佐町の絵本(仮)」を作ろう!』というこの企画。

絵を描くために必要なことはいくつもありますが、その内のひとつは「資料を集めること」。

土佐町の絵本には、宮古野地区で行われる行事「虫送り」の場面が出てきます。土佐町の伝統行事の一つで、その絵を描いてもらうためには必要な資料がいくつもあります。

ほら貝や太鼓を持った人たちがつくる行列の並び方、田んぼの畦に立てる「五色の旗」の意味については、前回の記事「資料集め③」でお伝えしました。

今回は、「五色の旗」の元に置かれる「お供え物」についてお伝えします。

虫送りのお供え物

この写真は、ある年の虫送りの日、田んぼの畦に置かれていたお供え物です。

お供え物は、柿の葉の上に置かれたみかんとしば餅。他にも、柿の葉とお菓子、お米を供えている場所もありました。

柿の葉など、各場所に共通して置かれているものもあり、「お供え物のひとつひとつは、一体何を意味しているのだろう?」という疑問が新たに生まれました。

編集部は再び、「五色の旗」についての話を伺った宮元千郷さんの元へ伺いました。宮元さんは、宮古野にある白髪神社・第41代目の宮司さんです。

 

お供え物の意味

宮元さんによると、お供え物はそれぞれの場所や家によって違うのだそうです。「何をお供えしても、それは祈りのかたち。何が正しくて、何が間違いということではない」と話してくれました。

でも、基本となるお供え物の形はあるとのこと。それぞれの意味を教えてくださいました。

柿の葉

上の絵が基本のかたちです。
まずは「五色の旗」の元に立てられている「柿の葉」について。

「田んぼの畦によく柿の木が植えられていますね。それはなぜだかわかりますか?」

宮元さんにそう聞かれ、そういえば宮古野地区に限らず、土佐町のあちこちの田んぼの畦に柿の木があるな…、と思い当たりました。

「柿渋というものがあるでしょう?渋柿を発酵させて作るもので、防虫作用がある。昔から、漆の下塗りや衣服を染めたりと使われてきたものです。田んぼの畦に柿の木があると、田んぼに落ちた柿が柿渋となって土に染み込む。柿渋の染み込んだ土には、畦に穴を開けるオケラが潜らなくなる、そう言われていた。だから皆、田んぼの畦に柿を植えたんです」

オケラは、地中に穴を掘って生活しているバッタの仲間です。畦に穴が開くと水が漏れて米が育たない。畦に穴を開けるオケラは、人間にとって厄介な生き物だったのでしょう。

昔は農薬なんてありません。そのオケラを何とか追い出したい。その一心で考えた策だったのかもしれません。

 

栗の葉

「栗には、あのチクチクしたイガグリがあるでしょう?あのイガグリが田んぼに落ちて、畦に穴を開けるモグラに当たりますように、モグラがいなくなりますように。そんな願いが込められているんです」

と宮元さん。

土の上にちょうど顔を出したモグラに、ちょうどイガグリが落ちて、「イタタタ…」。

…なんて漫画のようですが、お米を作る人の苦労や願いが痛いほど伝わってきます。

田んぼの畦を守ること。それは稲を育てる水を守ることであり、すなわち米の実りを守ることでもあったのです。それがどんなに大切なことだったか。今のように機械も農薬もない、人間の力だけで何とかしないといけなかった時代、藁にも縋る気持ちだったことでしょう。

「なんとかこの一年の実りを得て、皆が食べていけますように。生きられますように」

栗の葉も柿の葉も、その時代の人々の切なる願いそのものです。

 

お盆の上のお供え

その柿と栗の元には、丸いお盆に載せたお米、御神酒、しば餅が置かれています。

なぜ、この3つをお供えするのでしょうか?

 

・お米

現在は白米を供えることが多いそうですが、以前は種籾や黒米を供えていたそうです。

「これはお米の種を意味するものです。どうか良いお米をください、という祈りなんです」

と宮元さんは教えてくれました。

なるほど!

・しば餅

しば餅は、サルトリイバラの葉(しばの葉)でお餅を挟んで蒸したものです。この辺りでは、産直市やスーパーでよく売っています。

餅はお米の収穫があって初めてできるもの。逆を言えば、お米の収穫がないとお餅はできない。だから、しば餅は「収穫」の象徴なのです。

「『どうか、今年の収穫を授けてください』。お米を作る人々の願いが込められているんですよ」

と宮元さん。

なるほど、なるほど!

 

・御神酒

お酒もお米があるからできるものです。しば餅と同様、お米がないとお酒もできない。だから御神酒を供えることで、今年の実りを祈る。

御神酒、お米、しば餅。全てはお米があるからこそできるものです。

「全てのものに、その時代の人々の願いや祈りの心がつまっているのです」

宮元さんはそう話してくださいました。

お米があれば。
お米さえあれば。
生きていける。
生きたい。

この地を耕し続けてきた人たちの声がこだまのように響いてきます。

 

宮元さんは何度も「祈り」「願い」という言葉を口にしました。

当時の人々は、何に向かって祈っていたのでしょう?自然に対してでしょうか?それとも、何かの神さまに対してでしょうか?

 

次の記事ではその「祈り」について、宮元さんに伺ったお話をお伝えしたいと思います。

 

宮元千郷 (宮古野)

 

【土佐町の絵本】資料集め③

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読んでほしい

肉と骨

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猟師さんから猪の肉と骨をもらった。鉄砲で撃ち、捌いたもので、受け取った白いビニール袋は血が透け、骨がはみ出していた。

肉は瑞々しく、太い茶色の毛が何本かついていた。毛を指でつまむとゴワッとしている。この肉の塊は、つい先ほどまで山を駆け回っていた猪。その足音が聞こえるような気がした。

 

私は時々、無性に猪の肉を食べたくなる。牛でも豚でも鶏でもない、山で生まれ、山で育った猪の肉である。猪の肉は臭いというイメージをお持ちの方も多いかもしれない。が、そんなことはない。捕えてからいかに素早く、いかに巧みに血抜きをするか。肉の味はそれにかかっているという。

「あの山に猪がいる」

猟師さんはその情報を元に、山で犬を放す。

猪は昼間は寝ている。犬はその嗅覚で寝ている猪を見つけ、吠えて猪を追い立てる。

山にはいくつもの獣道がある。猪は逃げる時、どの道を通るのか?狙いをつけ、2~3人の猟師さんがそれぞれの場所で待ち構える。

猪が来たら、撃つ。

 

猪が死んだら、

「首元から心臓へ向けて、ナイフで刺すがよ」

そうやって血抜きするのだ。

捕えた猪は、猟をした人で分ける。私はそのお裾分けをいただいたのだ。

熱したフライパンにうっすらと油をひき、両面を焼いて塩胡椒で食べた。体温がじわじわと上がっていく。別の生命体が身体に入ってきたのを感じる。命をいただいたのだ、と思う。

 

「骨からは良いだしが出るよ」

そう聞いて、台所にある一番大きな鍋を用意した。が、骨は鍋から飛び出した。向きを変えようがひっくり返そうが、どうしても鍋に収まらず、はみ出してしまう。命には枠も規格もないのだ。

肋骨は滑らかな曲線を描き、紅く透き通っていた。脚は編み込まれた綱のようで、曲げようにもびくともしない。包丁で切り込みを入れて折ろうとしたが歯が立たない。

もうそのまま煮ることにした。水から煮て、アクをすくう。骨についていた肉は、ほろほろと崩れる。次の日、鍋の表面には白い脂の層ができていた。火を入れると脂は溶け、そこへ大根や白菜、里芋やえのきを加え、麦味噌を加えていただいた。冷えた身体に血が通う。その実感を味わいたいがために、私は何杯もおかわりをした。

 

「シシ汁を作って、食べるわね。残ったらうどんやラーメンを入れて食べてみ。一味違うわ」

捕えた命は余すことなくいただく、それがいただく者としての礼儀。

猟師さんの姿が、そう言っていた。

 

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山の手しごと

椎茸取り

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「椎茸取り放題、カゴを持って取りにきいや!」

山の師匠である、土佐町栗木地区の近藤雅伸さんが連絡をくれました。

11月、たくさん雨が降った次の日に次々と椎茸が生えだしたそう。

早速、近藤さんの山へ向かいました。

 

ひんやりと湿気を帯びた小道をあがり、すぐに見えてくるのはずらりと並んだ椎茸の原木群。原木は、近藤さんの山のナラの木です。原木が並ぶ横には水路があり、山からの水が絶え間なく流れています。

「椎茸は3年仕事」といいます。近藤さんは、一体どのように椎茸を作っているのでしょう?今日に至るまでの作業を聞きました。

・一昨年(2019年)の秋、ナラの木を切り倒す。そのまま山に置いておき、使う大きさに玉切りする

・次の年(2020年)の春、ドリルで原木に穴を開け、椎茸の菌が入ったコマをうえる。夏の間、日陰で寝かす。

・その年( 2020年)の秋、現在の場所に原木を立てる

・それから一年後(2021年)、収穫を迎える

 

まさに3年仕事!長い月日と手間をかけて、椎茸ができるのです。

ナラの木は長持ちするので、3〜4年間ほど、秋から春先まで椎茸が収穫できるとのこと。

 

近藤さんは、椎茸の根本をハサミで一つずつ切ってくれました

土佐町に来る前は、椎茸は「スーパーで袋に入ったものを買う」ものだと思っていました。でも土佐町に来てから「椎茸は育てるもの」なのだと知りました。周りに育てている人がいて、その方法を見せてもらうことで、当たり前に思っていたことは決して当たり前ではなかったことを知りました。それは、ものの見方や価値観をひっくり返されることでもありました。

 

原木が太いほど、肉厚なしいたけができるのだそう。内側のひらひらした部分があるものが新鮮な証拠です。

 

こんなにたくさん取れました!

干し椎茸にする場合は、茶色の傘の部分を上にして干すと良いそうです。椎茸の水分が下に行くので早く乾くとのこと。なるほど!

 

夜に早速、椎茸の肉詰めを作りました。塩胡椒して生姜を加えたひき肉を詰め、こんがりと焼きます。にんにくを漬けた醤油でいただきました!椎茸がジューシーで、一口ごとにぽたぽたと汁が溢れるほど。あ〜、箸が止まらない!

 

いただいた椎茸とえのきで「おかずきのこ」も作りました。昆布、お酒、みりん、醤油で椎茸とエノキを煮て、しょうがのすりおろしも加えました。ごはんのお供です。

 

薄く切って袋に入れ、冷凍しておくと、味噌汁の具や炒め物に使えて便利です。

 

近藤さんは「椎茸が一年中取れたらいいんやけど」と言っていました。でもきっと、ある期間にぎゅっと凝縮してとれるものだからこそ、人間は頭を捻り、一年中保存できる方法や味わい方を考えるのでしょうね。

近藤さん、ありがとうございました!また山の知恵を教えてください!

 

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私の一冊

鳥山百合子

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「高知の空襲」 平和資料館・草の家

「焼夷弾は一面を焼き尽くす」

土佐町に住む現在93歳の筒井重子さんが話していた言葉です。重子さんは16歳の時、志願して広島県呉市の軍需工場へ。港があり、工場が立ち並ぶ呉で何度も空襲に遭い「アメリカ軍が落とした焼夷弾で、あたり一面が焼け野原になっていた」と話してくれました。

この本「高知の空襲」を読んで、昭和20年7月4日、高知市への大空襲でも大量の焼夷弾が使われたことを知りました。

昭和20年7月4日、午前1時52分から1時間に渡って、125機のB29が高知市の中心街を爆撃。アメリカ軍は高知市の大橋通を照準点と定め、中心街のほとんどを焼き尽くしました。このとき使われたのが「M69-6ポンド油脂(ナパーム)焼夷弾」18万発、「500ポンド焼夷爆弾」1251発。

焼夷弾は、攻撃目標を焼き払うため、ガソリンなど燃焼力の強い物質を詰め込んだ爆弾のことをいいます。B29から落とされた1発の親弾が上空300メートル付近で開き、中に入っている38個の「M69焼夷弾」がばら撒かれるような仕組みになっています。

「M69焼夷弾」は、米軍が日本の木造家屋を効率よく焼き払うために開発した爆弾で、屋根を突き破って天井裏で横倒しになり、そこで火を噴くように設計されていた。木と紙でできた日本家屋の構造を徹底的に研究し、「消せない火災」を起こすことを狙った兵器だったといいます。この日の空襲で、木と紙でできていた高知市の街は「真っ赤な火災の大海」に変わり、多くの人が亡くなり、負傷しました。

人間はつくづく恐ろしいことを考える生き物です。

今まで、何人もの土佐町の人から高知市の空襲の話を聞きました。「山峡のおぼろ」を書いてくださった窪内隆起さんも「防空壕」という話の中で、高知市の空襲について書かれています。学徒動員で高知市で仕事をしていた時に空襲に遭い、顎の下まで水に浸かりながら橋の下に隠れて助かったという話をしてくれた方もいます。土佐町でB29がまるでトンボの群れのように飛んでいたのを見た方もいます。話してくれたのは皆、80代後半から90代の方たちです。戦争時の体験を自らの言葉で語れる人は、年月とともに少なくなっていきます。

人間は恐ろしいことを考える生き物ですが、言葉で伝え合うことのできる生き物です。言葉を使い、人間ならではの想像力を働かせ、互いの思いと存在を大切にする。膝を突き合わせて話し合う。一見当たり前のようなことですが、それらができなくなる時、争いが起きるのではないでしょうか。

この「高知の空襲」の本は、高知市の図書館「オーテピア」で展示されていました。高知県で暮らしている今、この本に出会えて本当によかったです。この本を作った人たちの心からの叫び、「もう二度と戦争を起こしてはならない」という思いが痛いほど伝わってきました。

 

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私の一冊

鳥山百合子

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「たんたのたんけん」 中川李枝子作, 山脇百合子絵 学習研究社

今にもページが破れ落ちそうなこの本は、「たんたのたんけん」。

「くりのきまちで  いちばんいさましいおとこのこ たんの・たんた」君が、誕生日に「足もとへとびこんできた」地図を手に、探検に出かけるお話です。

たんたは探検の準備をするために、買い物をします。まずは帽子屋さんで帽子を、次にお菓子屋さんでキャンディを、最後におもちゃ屋さんで銀色の望遠鏡を。ヒョウの子「バリバリ・バリヒ」と共に、ライオン岩に飛び乗り、ジャングルを抜け、いよいよ着いたところは…?この先はぜひ本で!こどもが喜ぶこと請け合いです。

私が子どもの頃、惹かれてやまなかったのは、たんたがお菓子屋さんで買ったキャンディの存在です。それは「ザラメのついた、三かくのあかいストロベリィ・キャンディ」で、「口にはいるのがやっとの、大きないちごのあめ」であり、「今すぐなめても、おひるまである」という何とも魅力的なあめなのです。

本を読むたび、そのいちごの味が口の中に広がっていきました。そんな訳ないじゃないかと思うかもしれませんが、子どもの頃は本当にその味がしたんです。きっと、子どもってそういう力があるのです。

挿絵にあるのですが、たんたが行ったお菓子屋さんにはガラスのショーケースがあって、その中にいちごのあめが売られています。このお菓子屋さんに行きたい!と心の底から思っていました。それからもう何十年も経ちましたが、未だこういったお菓子屋さんには出会えておらず。でもまだ諦めた訳じゃありません。いつかどこかで、たんたと同じ本物のストロベリィ・キャンディを味わってみたいです。

 

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読んでほしい

ぶどう

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新聞紙に包まれた四角い包みを受け取った。それは、早明浦ダムを見下ろす眺めのいい土地で新たな生活をスタートさせた友人家族が届けてくれた包みで、カズラのつるで丁寧に蝶々結びがしてあった。

友人は、ぶどうができたので持ってきた、と言った。

友人の住まいには前に住んでいた人が残したぶどう棚があって、もう何年も人の手が入っていなかった。家や畑を少しずつ整えながら草を刈り、ぶどうを狙うスズメバチとも戦いながら、やっと収穫を迎えたぶどうだった。

包みを開けると紫や黄緑、色とりどりのぶどうはみずみずしく、一粒一粒が宝もののように納められている。ぶどうの放つ存在感をしばし味わいながら、友人がこの実りを得るまでにあっただろう苦労や葛藤を思った。でも多分、友人は、持ち合わせていたしなやかさでそれさえも楽しみに変え、道を拓いてきたのだと思う。

笑顔で手を振りながら、友人家族は山に帰っていった。

ぶどうはもったいなくてすぐには食べられなかった。冷蔵庫を開け閉めしては眺め、次の日ようやくいただいたぶどうは、しみじみと甘く、とても美味しかった。

 

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