小学生時代の、川や山での楽しい思い出とは別にただ1回、戦争を実感する恐ろしさに触れたことが忘れられない。このことは同級生たちと長い間、思い出話の種になっていた。
石原小学校の6年生だった昭和19年(1944)、太平洋戦争終戦の前年だった。
ある日、校長が教室にやってきて、次のように言った。
「兵隊が明日、運動場で機関銃の実弾射撃訓練をするという連絡があった。向かいの山へ向けて射つから、そのあたりへ行かんようにと、家の人に言うちょいてや。生徒みんなは運動場で見学じゃ」
機関銃の射撃は、読んだり聞いたり、映画で見たりしてはいたが、実際に見るのはみんな初めてであった。それだけに、貴重なものを見ることができるという楽しみも湧いた。
それは、当時の子供たちは「無敵帝国陸軍」とか「無敵連合艦隊」などの言葉や、「敵は幾万ありとても…」の歌などで、徹底した軍事思想教育を受けていたので、軍に関心を持つことが多かったからであろう。
いまは町営住宅があるが、当時は運動場だった。そこで射撃訓練が行われた。
当日、全校生徒が運動場に集合した。大人も何人か見に来ていた。
兵隊は10人ほどだった。機関銃を地面に据え付ける兵隊を見て、当時の軍国少年たちは、
「カッコええねや」
とささやいたりしていた。機関銃は2丁だった。
生徒たちは射手の背後に、遠く離れて集合させられた。
射撃は、向かいの新道(しんみち)と呼ばれる地域の山に向かって行われた。
「射てえっ」
指揮官の鋭い号令と共に、2丁の機関銃が火を吹いた。
銃声が強烈であった。連射する音は耳をつんざくだけではなく、腹にもひびくようだった。山峡にこだまがこだまを呼んだ。多くの生徒が耳を手で覆っていた。射撃は2分ほどで終った。
射撃が始まるまでは、
「おらも大人になったら、機関銃射ちになる」
と言っていた軍国少年たちだったが、銃声がやんだあとは、
「あんな大きい、こわい音がする銃はよう射たん」
と、びびってしまって、うなずき合っていた。
翌20年(1945) 春に小学校を卒業し、旧制海南中学校(現小津高校)に入学した。ここでは郡部出身の同級生から、同じような射撃訓練の話をよく聞いた。
7月4日に高知市は大空襲を受け、焼け野が原となった。「高知県史」によると、死傷、行方不明者が計1112人。家屋の全半焼と全半壊が計1万2237戸という大きな被害が出た。
私たちは7月末に高岡郡能津村(現日高村)に学級疎開をし、そこで8月15日の終戦を迎え、高知市に帰った。
秋になると、進駐してきたアメリカ兵の姿を多く見るようになった。日本は負けたという実感に包まれたが、一方でもう戦争はないという安心感が、大人たちの言動にはっきりとあらわれはじめたことが、子供心にも読みとれた。
その年末、高知市へやってきた祖父から、
「どんな目的か知らんが、アメリカ兵の一部隊が石原へやってきて、すぐにどこかへ行った。その時、郷の峰の道路からジープが1台こけたが、兵隊は助かったそうじゃ」
ということを聞いて、嶺北の村までアメリカ兵が行くのか、と驚いたことだった。