土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。
カンピンでお酒を買いに
父はお酒が大好きでした。相川にいる時も、近所のお祝い事に呼ばれて行っていました。
始めの内はいい機嫌で、歌を唄っています。だんだん酔ってくると理屈を言い出して、人が理解してくれないと怒り出す癖があるので、時間を見計らって迎えに行ったと母から聞いたことがあります。家にいても、仕事に行った日も、晩酌を楽しんでいました。
一升瓶で買っておけば良いのにお金が高いので、買うときは、二合位入り、湧かすことも出来る「カンピン」ガラスに入れてもらいました。
江ノ口小学校の赤レンガの堀に沿って南へ、日赤通りへ出て、学校の正門前を過ぎ愛宕町迠の中程の左側に井上酒店があって、「玉緑」という看板がありました。
綺麗なおばさんが、大きな樽の栓を抜いて「ダップダップ」と入れてくれました。カンピンは薄いガラスなので、少しでも物にあてると割れるため、帰り道が心配でした。
おいしそうに飲む父の顔を見て、ホッとしたことでした。
小学校五、六年生の頃、八十年余り昔の思い出です。
この記事を書いた人
大正15年9月27日、土佐郡森村相川麦山生まれ。3歳上の兄、3歳下の妹、赤ん坊の弟がいた。父の生家は米作りの農家だったが、どういう訳か分家して「石屋さん」をしていた。お米のご飯は食べられず、年中麦ご飯で育ち、小学4年の時、高知市に移住。10年後、あの空襲で被災。不治の病で入院中の母共家族7人、着の身着のまま故郷土佐町の山奥の生活。故郷の皆さまの温かいお情けに助けられ、幼い妹の母代わり、病母の看病。3年後、気がついたら母と妹は天国へ。悲しみの中でも生まれ育った故郷に住んでいることが何よりもの心の支えになり95歳。天国の肉親との思い出に涙することも供養になろうかと、まだまだ元気でガンバローと思っています。
絵を描いた人
武蔵野美術大学日本画学科卒。
嶺北地域の美しい景色と昔ながらの営みが続く人々の暮らしぶりに魅せられて2012年より土佐町へ夫と娘とともに移り住みました。
絵の中に住んでいるような毎日に幸せを感じて暮らしています。