土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。
二宮金次郎を見習って
今から九十年あまり昔。小学校の時間割では、月曜日の一時間目は「修身」といって、親に孝行とか兄弟仲良く、お国の為とか立派な人間になるための勉強の時間でした。現在でいうと「社会」でしょうか。
昔々、二宮金次郎という、貧しい家に生まれて寺小屋(学校)にも行けず、弟妹の子守りや家の手伝いをしながら、立派な大人になって世間のために働いた人がいました。時々、先生の話に出てきました。
江ノ口小学校の正門を入って右に行くと奉安殿があって、その左に、本を読みながら背中に薪を一杯背負った金次郎の銅像が並んでいました。前を通る時は、必ず一礼して通りました。
そして自分も金次郎を見習って、大人になったら両親兄妹のためになる人間になろうと、子供ながらに決心したのでした。「手本は二宮金次郎」という歌もありました。
その後大人になって、戦争空襲で被災、病母や幼い妹の母代り、生きるか死ぬかの時代を乗り越えてきました。
肉親は皆天国へ、人の温かい愛情と、幼い頃の二宮金次郎の訓えを胸の奥に生きてきました。あの世までも持って行きます。
科学の進歩した現代、悲惨な事件の多いことに胸を痛める毎日です。
この記事を書いた人
大正15年9月27日、土佐郡森村相川麦山生まれ。3歳上の兄、3歳下の妹、赤ん坊の弟がいた。父の生家は米作りの農家だったが、どういう訳か分家して「石屋さん」をしていた。お米のご飯は食べられず、年中麦ご飯で育ち、小学4年の時、高知市に移住。10年後、あの空襲で被災。不治の病で入院中の母共家族7人、着の身着のまま故郷土佐町の山奥の生活。故郷の皆さまの温かいお情けに助けられ、幼い妹の母代わり、病母の看病。3年後、気がついたら母と妹は天国へ。悲しみの中でも生まれ育った故郷に住んでいることが何よりもの心の支えになり95歳。天国の肉親との思い出に涙することも供養になろうかと、まだまだ元気でガンバローと思っています。
絵を描いた人
武蔵野美術大学日本画学科卒。
嶺北地域の美しい景色と昔ながらの営みが続く人々の暮らしぶりに魅せられて2012年より土佐町へ夫と娘とともに移り住みました。
絵の中に住んでいるような毎日に幸せを感じて暮らしています。