お辨当箱
生れて初めて、他人の家仕事と云うか、子守りに行ったのが小学一年生の時。毎週土曜日の午後、家から少し下の大きな農家の女の子、ミサちゃんが「明日負いに来てと」それだけ云って来るのでした。母は「ハイハイ行くけんネ」。それだけで明日は子守りと決まるのです。
宿題は土曜に済ませ、月曜日の時間割りもしておくのでした。私なりに覚悟したのでした。
お昼のお辨(おわきま)付きの子守に朝早くから夕方迄、大人の食事の時だけ下してお乳を呑ませて、おむつを替えるだけで一番辛かったのは、昔、その当時には現在の様なおむつカバー等、ある筈も無く、おむつも大人の古着等の布だけで、長時間負って居ると、背中が暖かく成ったと思ったら、赤ちゃんのオシッコが背中に沁みて、お腰から足の方へ流れてくるのです。それが一番辛かった思い出として残って居ます。
でもお昼のお辨が楽しみでした。真白いご飯に、おかずは自家製のお味噌にお漬物、梅干し1個、おじゃこ3匹位。家は田が無くて、年中麦飯でした。お米の真白いご飯が食べたくて辛抱したのでした。
お辨当箱は「モッソー」と云って、地元で作った丸い形のご飯とおかず入れがのった物でした。ご飯の温もりがお昼にも残っていて、独特の臭が鼻の奥に残っています。そして、食べ終って最後のお茶を一口飲んだ時、お辨当箱のそこに自分の顔が映るのです。アー可愛い、ニッコリすると、もう一人の自分がニッコリ、お茶を戻してはニッコリ。三回位繰り返して、たったそれだけの事に、午後への意欲が湧いて来たのです。
この事は、母にも誰にも話した事はありません。それから85年過ぎた今の顔は皺だらけです。
(続く)