土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。
忘れられない野いちごの味
長年生きてきて、毎年その季節になると、自然に感じる懐かしい故郷の思い出。
㐂怒哀楽、色々ある中で、私は幼い頃の田舎での思い出が好きです。
嶺北の山の中の貧しい家の長女に生まれ、三才上の兄がいた腹式校の二年生の春。学校でハシカが流行して、少ない生徒殆どが発病。病院もなく、医者もいない田舎、高熱発疹に耐えて、布団をかぶって寝るだけ。食事もそこそこ、厄抜けとはいえ、前回までの一週間は重病人でした。
寝込んで三日位たった日の昼過ぎ、母、妹、赤ちゃんの弟、誰もいなくなって静かになり、ウトウトしていると、妹が「ネエヤン、これ食べヤ」と言って走り込んで来た。
手には大人の弁当箱「モッソー」に、真っ赤なイチゴがいっぱい。思わず飛び起きて、一ツ、二ツ。あとはガブガブと呑み込んだ。手も口の回りも真っ赤。生き返ったような感じがした。
そして最後に、潰れたイチゴの真っ赤な汁を飲んだ時の美味しかったこと。母の優しい愛情の籠もった、世界一の味でした。
現在は植林ばかりで、イチゴのある雑草の山道はありません。85年前の幼い頃の忘れられない思い出です。
若くして、病死した母の愛情と共に。
この記事を書いた人
大正15年9月27日、土佐郡森村相川麦山生まれ。3歳上の兄、3歳下の妹、赤ん坊の弟がいた。父の生家は米作りの農家だったが、どういう訳か分家して「石屋さん」をしていた。お米のご飯は食べられず、年中麦ご飯で育ち、小学4年の時、高知市に移住。10年後、あの空襲で被災。不治の病で入院中の母共家族7人、着の身着のまま故郷土佐町の山奥の生活。故郷の皆さまの温かいお情けに助けられ、幼い妹の母代わり、病母の看病。3年後、気がついたら母と妹は天国へ。悲しみの中でも生まれ育った故郷に住んでいることが何よりもの心の支えになり95歳。天国の肉親との思い出に涙することも供養になろうかと、まだまだ元気でガンバローと思っています。
絵を描いた人
土佐町生まれの土佐町育ち
2009年に国際デザインビューティカレッジのグラフィックデザイン科を卒業
30代の現在は二児の母で兼業主婦。
家事や育児の合間をみて、息抜きがてらに好きな絵を描いています。