石原小学校(当時は国民学校)の4年生だった昭和17年(1942)の春、太平洋戦争中だった。
1頭の小馬が家に来た。軍から預かって飼育し、大きくなったら返すというのである。
農耕や運搬に使う牛は飼っていたが、馬は初めてなのでとても嬉しかった。
その日、学校から走って帰ると、2つある牛舎の空いている方に小馬が居た。のぞき込むと近寄ってきて、閂の間から鼻を突き出して私を見詰めた。目が黒々と丸かった。
閂を乗り越えて中に入ると、小馬は私ぐらいの背で、私に驚いて牛舎の中を走り回った。その背中に抱きついて、私も一緒に回った。
「名は“栄神号”というそうじゃ」
見ていた祖父がそう言った。
それからは私のする仕事が出来た。
朝起きるとすぐ、栄神を引いて運動させ、学校から帰るとまた引いた。引きながら、当時のヒット曲「めんこい小馬」を歌った。
ぬれた小馬のたてがみを
なでりゃ両手に朝の露
呼べばこたえてめんこいぞ オーラ
かけて行こかよ丘の道
ハイドハイドウ丘の道
父は戦地に行って、家族は祖父母と母と私の4人だった。その中で接触の多い私に、栄神は一番なついていった。
引いて歩いていると、鼻で私の背中をつついてきた。またある時は、道ばたの草むらに寝ころんでいると、私の顔の上で鼻をぶるぶると震わせ、鼻水が顔に散りかかってくることもあった。
わらの上から育ててよ
いまじゃ毛並みも光ってる
お腹こわすな風邪ひくな オーラ
元気に高くないてみろ
ハイドハイドウないてみろ
栄神はぐんぐん大きくなった。私が6年生になると祖父が、蔵から馬の鞍を出してきて
「乗ってみるか」
と言った。興味は覚えたが、少しびびった。
「こればあ馴れたきに大丈夫。乗ってみ」
と言われて、まず鞍を栄神の背につけることから始まり、祖父についてもらって庭で乗り、半月ほど練習した。
そして家の近くの道に出ると、栄神はほんとにおとなしく歩いてくれた。思い切って馬腹を軽く蹴ると、軽快に走った。
走りながら「めんこい小馬」を歌うと、気のせいか栄神の脚のリズムが軽くなったような気がした。朝霧の中を走るのは、何とも言えず気分がよかった。たてがみを撫でながら走った。
しかし、栄神を軍に返す日が近づいていた。“もっと居て”と思いながら走った。
西のお空は夕やけだ
小馬かえろうおうちには
お前の母さん待っている オーラ
うたってやろかよ山の唄
ハイドハイドウ山の唄
6年生の終わり頃、栄神は軍に帰った。
その日学校から帰って、空の牛舎を見た時のさびしさは、ほんとに長く抜けなかった。
戦時中のヒット曲であったので「めんこい小馬」には、時代を反映させた、次のような歌詞が追加されたりした。
明日は市場かお別れか
泣いちゃいけない泣かないで
軍馬になって行く日には オーラ
みんなでバンザイしてやるぞ
ハイドハイドウしてやるぞ
紅い着物(べべ)より大好きな
お馬にお話してやろか
遠い戦地でお仲間が オーラ
手柄をたてたお話を
ハイドハイドウお話を
内地で、或いは戦地で、生き残ったのか戦死したのか。栄神はどのような生涯を送ったのであろうか。