「① 民具資料館という個性」の続き
ところで、この部屋の中で真っ先に目に止まったのは、甲冑ではなく、その脇に展示されている2挺の古式銃だった。1挺(銃身のみ)は一目で「摂津」で製造された古式銃と分ったが、もう1挺はよく分からなかった。早速、展示ケースに入らしてもらい、手にとってみた。重さ、長さともに実に扱いやすそうで、持った瞬間、これは戦さ用ではないと直感した。
学芸員をしていた時、ネタに困って「土佐の砲術史」という苦し紛れの展示会をしたことがある。今思えば経験不足の生煮え企画だったが、古式銃を見る知識だけは多少付いたので、ピンときたのかもしれない。
江戸時代の侍が「砲術稽古」で使用する銃は「士筒」(さむらいづつ)という。流派にもよるが、比較的口径が大きく、ずっしりと重く派手なのが特徴だ。それとは明らかに異なるこの素朴な銃は、城下に住む武士が扱うものではない。それによく見ると機関部のディテールも何かおかしい。
早速、委員会の資料台帳を見せてもらった。するとこの銃は「種子島銃」(たねがしまじゅう)となっていた。「種子島銃」とは、一般的に火縄式の古式銃のことを指す。でも、この銃には火縄を装着するための「火縄ばさみ」がない。改造されているのだ。
そもそも土佐町には火縄銃はあったのだろうか?根本的な疑問が沸いてきた。学芸員気質はこの歳になってもなかなか消えない。ムズムズしてきたのでちょっと調べてみた。
寛保3年(1743)の『郷村帳』という藩の記録によれば、現在の土佐町を構成する村々には、多くの火縄銃があったらしい。その数、何と216挺!これには驚いた。
土佐では、戦国末期頃より盛んに鉄砲が造られるようになった。そして、文禄(1592~1595)の頃には、領内すべての地域に標準装備されていた。長宗我部元親は「我が家中では鉄砲を撃つことは特別なことではない。家老から足軽まで誰でも撃てるからだ」と豪語したという。長宗我部氏の改易後、新国主・山内氏が入国してきたが、早々に隣の本山郷で一揆が起きた。当然嶺北地域には厳しい目が向けられ、武器もすべて没収されたはずだ。なのになぜ200挺を越える銃があったのだろう?
③へ続く