この日は朝から雨が降っていた。
石原地区の近藤國一さんの家へ向かう。
土佐町社会福祉協議会の筒井由美さん、上田大さんは「國一さんはたまらない笑顔の人だ」と言っていた。
会ってみると本当にその通り。とても素敵な笑顔の人だった。
國一さんはあかうしを育て、お米を作っている。「農家は一年中忙しい。畜産飼いよったらね、休む暇がない。」体は小柄だけど手はとても大きい。
この日はテレビの取材が入ったこともあって、いつもはおしゃべりだという國一さんがとても静かだった。
土佐町教育委員会の町田さんが合いの手を入れると笑顔になるけれど、すぐに緊張した顔に戻ってしまう。
描き終わると「ふ〜」とため息をついてほっとした顔になった。
「どうかな?」とスケッチブックを見せる下田さん。
「大丈夫です!初めてじゃけ緊張した。絵描きさんじゃなあと思いました。すごい!よかったと思う。恥ずかしいけ言えんけど、歳がいったなあと思った。」
下田さんは言った。
「かっこよかったです。かなわないです…。」
絵には、國一さんその人そのものがにじみ出ていた。
次は窪内久代さんの家へ。
久代さんは長い間、石原地区の食に携わった方で保存食の名人。家に到着すると早速、自分で作ったりゅうきゅうの塩漬け、にんにくの酢づけ、らっきょう漬け、ハブ茶を次々と見せてくれた。
「もうこの頃は“めくらへびにおじず”でねえ。」と久代さんは笑って言った。
“めくらへびにおじず”は『怖いもの知らず、物怖じしない』という意味で、久代さんが小さい頃から使ってきた言葉だそうだ。
下田さんは「めくらへびにおじず、…初めて聞いた!」と言って忘れないようにスケッチブックに書いていた。
「百姓も一人前にやったで。お父さんに負けんばあ。」と久代さんが言うと「あんなにいっぱい色々作ってたら大忙しでしょう。」と下田さん。
「忙しいですけど、私、仕事してても楽しい。友達と話してても楽しい。いやなことはいつのまにか忘れてしまう。ワイワイいうてニコニコしもって、笑って笑いぬくんやね。」久代さんはそう言って笑った。
土佐町には季節の手仕事がたくさんある。
その季節にしか収穫できないものを1年中食べられるように、塩漬けにしたり茹でて干したり、さまざまな方法で保存する。
「イタドリは春に700㎏くらい収穫する。忙しい時は夜、毎日残業しますろ。しんどうない?って言われるけど楽しい。秋の今の時期は白ぶき。通り名はりゅうきゅう、くわずイモともいうね。塩漬けしたり漬けものにしたり。」
この地で暮らしてきた人たちがずっと昔から引き継いできた仕事は、この地の素晴らしい文化のひとつ。私もその技を身に付け、次の世代にバトンタッチしていきたいと思う。
絵を描き終わった後、久代さんが作ってくれたおはぎと、石原地区のお母さんたちが作ってくれた山菜寿司を一緒に食べた。
「田舎寿司、美味しいよね。田舎の人は『こんな田舎のもの…』と言って恥ずかしがるけどそんなことない。都会の人は絶対喜ぶし、東京で食べられたら嬉しい。」と下田さんは言った。
久代さんの台所には薪ストーブがあって、部屋はぽかぽかじんわりと暖かかった。
ストーブの上の小窓からしとしとと降る雨が見える。
コンクリートでできた水場や、大きな鍋がいくつも置かれた棚…。この台所で久代さんはどれだけの時間を過ごしてきたのだろう。
久代さんのおはぎは絶品だった。柔らかくてもちっとしていて、お世辞ではなくこんなに美味しいおはぎは初めてだった。
「体が動くうちは頑張る。」
久代さんのおはぎ、保存食…。また作り方を教えてもらいたいなと思いながら久代さんの家をあとにした。
次は平石地区の西村尚さんの家へ向かった。
この日は雨だったので、もしかしたら家にいるかもしれないと電話をかけてみると快く「いいですよ、来てください。」と言ってくれた。
尚さんが作った作業小屋に入った。尚さんはハウスでピーマンを育てている。お米の蔵に続くように屋根を作り、雨の日でも作業ができるようにしたそうだ。
尚さんは本当にきれいな目をしている。
野菜を入れるカゴを逆さまにし机がわりにして、下田さんは絵を描いた。
この小さな空間に尚さんがいて、下田さんがいる。ああ、こんな風に人は出会ったりするのだなと思う。
あとから下田さんが「面と向かった人がちゃんと受けとめてくれる感じがいいね。温かい。初対面なのにこんなに絵を描かせてもらえるとは思ってなかった。」と話していた。
受けとめること。
それはこの地で暮らしてきた人たちがずっと昔から培ってきたことなのだろうか。
人間にはどうすることもできない自然の力を目の前にし、まず受けとめないとやってこれなかったということもあっただろう。それも関係するのだろうか。
その「受けとめる力」はこの地で感じる人の温かさでもあると思う。
平石小学校で開かれている背みの教室へ行った。
背みのの材料である「スゲ」を収穫したり、作り方を学ぶ場所。土佐町では背みのは現役の道具。
暑い日、田んぼや畑で背みのを背負って仕事をしている人を見た時、これが日常の風景なのかと心底びっくりした。
下田さんはこの教室に来ていた川田絹子さんの絵を描いた。
絹子さんはススキの葉でバッタを作って見せてくれた。
下田さんはそれを見て、昔バリ島に行った時に、葉で鳥を作ったことを思い出し、絹子さんと作り始めた。
ひとつの出会いが昔の記憶を連れてくる。
絹子さんはとても嬉しそうに「また作ってみるね。」と話していた。
この日の宿泊は瀬戸コミュニティーセンター。
今年の7月に行った「パクチーフェス」でお世話になった黒丸地区の方たち、野菜を提供してくれたお母さんたちが来てくれた。
こうやってご縁がつながっていくんだと思えてうれしかった。
下田さんは絵を描き始めた時のことを話してくれた。
「20代の頃、どうやって生きていったらいいかわからなくて色々な仕事をした。デザインの仕事、飲食店やビルの警備員…。どうしていいかわからなくなって働くことから離れようと、自転車にテントを積んで東京を出た。畑の収穫の手伝いをして、泊まって食べさせてもらったり…。その間にお金が貯まってた。生まれて初めての貯金だった。そのお金を持って海外に旅に出た。」
「神戸港から船で上海に行く時、スケッチブックと色鉛筆を持って行った。チベット人が僕の描いた絵をすごく褒めてくれた。彼らがほめてくれるから絵を見せたくてずっと絵を描いていた。2年間旅行しながら絵を描いて日本に帰ってきて、週刊誌で連載をやらせてもらえることになった。」
「嬉しかったけどそれだけじゃ食えないし仕事は探してた。30歳になったら急にアルバイトの求人がなくなった。まだ何をしていいかわからなかった。ちょっとだけ絵の仕事をもらってたから、一回絵でやってみようと思って仕事をやめた。すげえ貧乏だったけど、どうにか今まで続いてきた。もっと若い頃から早くやっとけばよかった、と思って。」
「早くからやってたら、ここに来てないやろう。」と黒丸地区の亮一郎さんは言った。
「絵はずっと好きだったけど続けてても仕事と結びつくとは思ってなかった。僕は偶然やりたい仕事をやらせてもらってるけど、必ずしも正しいことをしているとは思ってない。正しいからいいという訳でもないし…。食べ物を作るとか命に関わる仕事、生きていく上で絶対的に必要な仕事、確実に誰かの役に立っている仕事はやっぱりすごいし憧れる。僕はそういうところからだいぶ外れてると思う。僕の仕事はみんなの感覚に支えられている。自分がやってこれているのはみんなのおかげ。」
下田さんがしてきた選択は、絵を描くことが仕事になるとは思わずに選んできたことだったのかもしれない。
でもこれまでの選択ひとつひとつが今につながっている。
自分の選択が自分の道を作っている。
それは全ての人にとっても同じ。
何につながっていくのか今はまだ見えないけれど、振り返った時「自分で選んできた」と思えるようでありたい。
つづく