最近の夏は酷暑で、水筒を持って出ることが多い。
幾つかの水筒を使っているが、その内2つは特に思い入れの深いものである。
1つは祖父が日露戦争で、1つは父が太平洋戦争で使っていたもので、前者は100年以上、後者は70年以上を経ている。
どちらも濃いカーキ色、いわゆる国防色で塗られている。蓋はねじでなく、コルク栓である。そのため、ちびて傷んだコルクを何度か取り替えて使ってきた。
日露戦争のは細長く、竹筒を2つに割ったような形、太平洋戦争のは楕円形のボールを2つに割ったような形である。容量は太平洋戦争の方は1.1リットル、日露戦争の方は0.7リットルで、太平洋戦争の方が約1倍半入る。
2つを並べてみて、日露戦争の頃は、充分に水分をとらずに戦っていたのだろうか、と思ったりもする。
祖父は山仕事などに出る時、この水筒を必ず肩に掛けていた。思い出話もよく聞いた。
旅順二百三高地での戦いのうち、最激戦地と言われた東鶏冠山の攻撃に参加した。そこで砲弾の破片を膝に受けて負傷し、野戦病院に後送された。連隊の大半は死んだが、負傷したため自分は助かった。
そういう話を何度も聞いた。水筒については、
「戦場でも野戦病院でも、この水筒は放さざった。日本を一緒に出て、一緒に戻って、こうやって今も使いよる」
そう言いながら、二百三高地に思いをはせているのか、水筒をさすっていた。
平成21年(2009)の12月に松山市の「坂の上の雲ミュージアム」で、これと同じ形の水筒が展示されているのを見た時、はるか以前に祖父から聞いたことのあれやこれやが、次々と脳裡に甦ってきた。
もう1つの父の水筒は、太平洋戦争で、シンガポールまで行ったものである。
父は大豊町出身の山下奉文が率いる兵団の一員として、マレー・シンガポール攻撃戦に従軍した。シンガポールを攻略したあと、他の戦場に移ることなく、終戦を迎えた。そのことで何度も、
「シンガポールからよそへ転戦していたら、おそらく生きて帰ることはなかったろう」
と述懐していた。
祖父と同じく父も、持ち帰った水筒を山仕事や狩猟などの時に、いつも使っていた。
水筒には父の字で「窪内」と刻み込まれており、反対側には「KUBOUCHI」とペンキで書かれている。これについて父は、
「シンガポールに行って、英語を初めて身近に聞いたり、看板で見たりした。ローマ字で名前が書けることが珍しゅうて書いた。これで茶や水を飲んで生き延びてきたきに、大事なお守りよ」
と、祖父と同じようなことを言っていた。
2人とも、新しい水筒を買おうともせず、これを使い続けた。「お守りじゃ」という思いが、ずっと抜けなかったのに違いない。