2023年1月

みんなのアルバム

雪の日の街なか

  • 日時1970年代(昭和40年代後半~昭和50年代前半頃)

  • 場所土佐町田井地区

  • 撮影者西森五明

  • 投稿者

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これは、土佐町田井地区にある西森理髪店の西森五明さんが見せてくれた写真です。

ときは昭和40年代後半から昭和50年代初めの頃。

土佐町のメインストリート、国道439号線の歩道が隠れるくらい雪が積もっていますね。信号機の形も今と違いますし、今はもうないお店の看板も見えます。

南国高知とはいうものの、土佐町は四国の真ん中に位置し、周囲は山に囲まれています。毎年冬には雪が降り、よく「南国詐欺」と言われます笑。けれども、雪が降っても街中の雪はすぐに溶け、山の日陰にはしばらく残る…というほどです。

町の人から「昔はよう降ったけどなあ」という声をよく聞きます。

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Photography, Writing, Exploration!

The Craft of Filmmaking – A Fresh Perspective Part 1

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Set a timer for 3 to 4 minutes. Close your eyes and visualize yourself in the world of your favorite story…

How was the experience? Hopefully it was a pleasant one.

Where did your mind wander off to? What role did you play in your daydream? Was it adventurous or filled with suspense? Did you interact with any characters… heroes or villains?

How were you first introduced to the story you chose to wander off into and how has this story impacted your life?

During the mid to late 1970’s, the Video Home System (VHS) became commercially available for people to purchase in the United States. I was born in 1997 and by then VHS cassettes were still fairly popular as DVD sales were on the rise.

When I was a kid, my family owned three large suitcases that were filled with VHS tape cassettes. The suitcases were kept in the basement. Each month, my siblings and I had permission from our parents to retrieve at least three to five VHS cassettes we wanted to watch. Occasionally, we avoided the basement for fear of encountering bugs or other critters. Most of the time, this fear was overcome by a desire to watch and immerse ourselves in a stunning or comedic visual story…

 

3~4分、タイマーをセットして目を閉じ、あなたの好きな想像の世界にいることを思い浮かべてほしい。

それはどんな経験でしたか?心地良いものであれば良いのだけれど。

あなたの心はどこを歩いたでしょうか?白日夢の中でどんな役割を演じたでしょう?冒険?それともサスペンス?

何かのキャラクターだったでしょうか?ヒーロー?悪者?

あなたが入り込んだ物語であなたはどうでしたか?そしてそれはあなたの人生にどう影響しましたか?

1970年代中盤から後半、アメリカではVHSが普及した。私は1997年生まれで、DVDが人気を集め始めていたが、それでもVHSもまだまだ人気があった。

子供のとき、家族はスーツケース3つ分のVHSテープを所有していた。

スーツケースは地下室にあった。毎月、親戚と私は両親から許可を得て、少なくとも3本から5本のカセットを選んだ。私たちは地下室を、虫とか他のものに出会う恐怖のために避けていたのだが、その恐怖は映画を観れるという興奮の前には克服された。

続く‥

 

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私の一冊

石川拓也

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ノーマン・ロックウェル カバー画集 『「サタデー・イブニング・ポスト」誌の時代』 玄光社

ドラゴンボールの祖先・ノーマン・ロックウェル

アメリカの「ふつうの人々」を、明るく躍動感のあるタッチで描き続けたノーマンロックウェル(Norman Rockwell、1894年2月3日 – 1978年11月8日)の画集です。

ロックウェル先生。僕の中では勝手に先生と呼んでいる画家が2人いて、そのひとりがこのロックウェル先生。もうひとりはアンリ・トゥルーズ・ロートレック先生です。2人、画風は全然違いますが、「ふつうの人々」を描き続けたという点で共通しています。

いきなり話は逸れましたが、ロックウェル先生の絵が特徴的なのはこの躍動感。人物が激しい動きをしている一瞬を、写真で撮影したかのようなピンポイントで切り取っています。これはロックウェル先生が育つ過程で写真というメディアが普及したことともちろん関係があり、当時のオールド・メディアである絵画が、台頭著しいニュー・メディアである写真を逆輸入した一例でもあります。

この画風は、(確証があるわけではないのですが)後に鳥山明に多大な影響を与え、「Dr.スランプ」「ドラゴンボール」などの作画は、元を辿ればロックウェル先生である、という説もあります。

「説もあります」という言い方にこの場は留めておきますが、鳥山明の特に一枚絵(表紙やトビラ絵など)に注目してみると、非常に納得のいく指摘であると感じています。

そういう意味でロックウェル先生は「ドラゴンボールの遠い祖先」である。らしい。かもしれない。のです。

 

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二羽の鶏を描いた「共に」

ドキュメンタリー映画「天から見れば」

正文さんは10歳の時、実家が営む製材所の機械に巻き込まれて両腕を失い、生死を彷徨いました。一命を取り止めましたが、今まで当たり前のように出来たことが自分でできなくなり、周囲からからかわれ、指をさされ、もう生きていてもしょうがないと自ら喉を突こうとしたこともあったそうです。

家に引きこもっていた中学校2年生の時、京都山科にある仏光院の尼僧である大石順教尼の元を訪れた正文さん。大石順教尼は義父に両腕を切り落とされるという壮絶な経験を乗り越え、その生涯を障がい者支援に捧げました。順教尼は口で筆を加え、絵を描く人でもありました。

「自分は何もできない」と想いを順教尼に話すと、返ってきた言葉は「弟子になりなさい」。でも、弟子になるためには条件がありました。

 

弟子になる条件

一つ目の条件は、正文さんの自宅のある大阪・堺から一人で仏光院へ通うこと。当時は順教尼のいる京都の仏光院まで片道約3時間、電車やバスを5回も乗り換える必要があったそうです。その度誰かに切符を買ってもらわなければならない。思い切って声をかけると両腕のない正文さんを見て逃げる人、罵声を浴びせる人、からかう人もいたといいます。でも、その人たちを「自分の先生だと思いなさい」と話した順教尼。社会には色々な人がいて、親切な人もいればそうでない人もいる。でも皆が社会を教えてくれる先生なんだ、と。この教えは、後述する正文さんが生涯大切にした言葉「禍福一如」につながっていきます。

もう一つの条件は「絵を描きなさい」。この時から正文さんは口に筆をくわえ、絵を描き始めます。口で筆を咥えていると苦しく、口も歯も痛くて、ポタポタと唾液がこぼれていく。一枚の絵がやっと完成した時、自分にもできることがあるんだと思えたといいます。

「何もできない」から「何でもやってみよう」、正文さんの思考が変わった瞬間でした。考え方が変わると生き方が変わる。絵を描くことを糸口に、正文さんは何でも挑戦するようになっていきます。

 

出来ないとしないはちがう

映画では、正文さんの日常も描かれています。正文さんは絵の具のチューブの蓋を足で開け、パレットに絞り出します。キャンバスを顎の下で挟み、勢いをつけて机の上にのせていました。自作の道具を使ってシャツのボタンをはめ、ベルトをし、自転車に乗っていました。

正文さんの奥さまの弥生さんによると、正文さんは字を書くのもとても上手で、お礼状を書くのはいつも正文さんの役割だったそうです。巻物のような紙に書いてくるくるっと丸め、最後に小さなかわいい絵を描いていたといいます。雑巾も上手に絞っていたとか。

出来ないとしないはちがう」。正文さんはよくそう言っていたそうです。「やってみたけど、できない」のと「最初から無理だと諦めて、しない」のはまるで意味が違う。「正文さんに言われたら説得力がまるで違う。本当にその通りだ、って思っていました」と弥生さんは話してくれました。

 

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2022年11月5日〜13日、土佐町郷土学習センターで「南正文展覧会」が開催されました。南正文さんは少年時代に事故で両手を失い、絶望の淵に迷いながら、口で絵筆を咥え、描くことを見つけた日本画家です。2012年に亡くなるまで、約900点の作品を残しました。

なぜ、南正文さんの展覧会を土佐町で開催することになったのか?

それは以前、町内で「Monk」というラーメン屋を営んでいた正文さんの息子、一人さんの「お父さんの絵をたくさんの人に見てもらいたい」という思いがあったからでした。

編集部は一人さんから正文さんの画集「よろこびの種を」を手渡され、絵を描くに至った経緯やお人柄を知り、ぜひ土佐町で展覧会をと企画しました。本来ならば2020年4月に開催予定だったのですがコロナ禍で延期を繰り返し、今回やっと、2年半越しの開催となりました。

 

心の深いところへ

展覧会スタート前日、高知放送「こうちeye」で展覧会会場の様子が生中継されたこともあり、町内はもちろん、遠方からも多くのお客さまが来てくれました。

左は取材してくださった土佐かつおさん。和田守也町長がご挨拶

 

体育館に展示された絵は、桜の花びらを何回も重ねて描いたという『活きる』や、二羽の鶏を描いた『共に』など30点。座ったり、絵の近くに寄ったり、お客さまは思い思いにじっくり絵と向き合っていました。

会期中、毎日2回、正文さんの生き方を描いたドキュメンタリー映画「天から見れば」を上映しました。

「この映画を見る前と後では、絵の見え方が変わりますね」と話すお客さまが何人もいました。特にご年配の方は、正文さんの人生を自分と重ね合わせているようでした。目を赤くしながら映画会場から出てくる方もたくさんいました。

会期後半は、友人の紹介で来たという人が増えていきました。「展覧会に行ってすごくよかったと聞いたので。本当に来てよかったです」と感想を伝えてくれた人も。

中には、自分のご主人が事故で寝たきりになってしまい途方に暮れ「どうやって立ち直ったのか、弥生さんに聞いてみたい」という方も。(弥生さんの許可を得て、弥生さんの連絡先をお伝えしました)

そういったお客さまの姿は、正文さんの人柄や生き方が、その人の内へ深く静かに染み渡っていっていることを伝えてくれました。その人の歩んできた人生にそっと寄り添うような、じんわりと優しく包んでくれるような力が正文さんの絵や姿にはあるのだと思います。

 

 

(「喜びの種を 南正文展覧会 その2」に続く)

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私の一冊

鳥山百合子

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「もりのどうぶつ」 おおたけひでひろ 福音館書店

写真家 大竹英洋さんの写真絵本です。

この本との出会いは今から10年程前。「東京のことり文庫(本屋さん)で、写真家の大竹さんが話をするから一緒に行こう」と友人に誘われて行き、購入しました。この時に大竹さんがどんな話をしたのか実はあまり覚えていないのですが、大竹さんは目がとても綺麗な人だったことはとても心に残りました。

本に出てくる動物はとても可愛らしくて、優しげで、穏やかな優しい気持ちになります。写真は、大竹さんがこの動物たちを見つめる眼差しそのものなのでしょう。

今この瞬間にもこの地球上のどこかで、リスが木の実をかじり、雷鳥が羽を広げ、ヘラジカが水草をむしゃむしゃ食べている。それを知るだけで、周りの風景が少し違って見えました。

それから本屋さんや図書館で「大竹英洋」さんのお名前を見るたび、勝手に懐かしい気持ちになっていました。

昨年12月、高知市の高知こども図書館で大竹さんがお話をすることを知り、行きました。大竹さんは10年前と変わらない真っ直ぐな目をしていました。大竹さんは初の写真集『ノースウッズ 生命を与える大地』で、昨年3月に第40回土門拳賞を受賞したとのこと。それまで写真絵本は数冊出版していたけれど「これが初めての写真集なんです。初めての写真集を出すまでにとても時間がかかってしまいました」と話していました。

「もりのどうぶつ」との出会いから10年、大竹さんが積み重ねてきただろう時間の層を感じ、ただただ拍手しました。

 

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私の一冊

西野内小代

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「大人の女よ!清潔感を纏いなさい」 齋藤薫 集英社

表紙のような女優さんを目指せるはずはないが、心掛けだけでも学びたいとの殊勝な思いで買ってみました。

庭の手入れや畑との格闘、枯れ葉や折れて飛んできた枝の後始末をしている現実生活においては、そこまでは無理だし必要ないと軽く読み進む。

きれいな色を着る、しているかどうかわからないメイクではなく、していると他人が認識できて、尚且つナチュラルメイクを心掛けるべき、背筋を伸ばすことの大切さ、笑顔がアンチエイジングには欠かせない事、など日常でも参考になる指摘も多く、刺激をもらった。

日々をおざなりにすることなかれ。自分への「喝」の為に、このような本もたまには必要かもしれない。

 

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読んでほしい

春は待っている

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寒い寒い、土佐町の冬。足元からの冷気に身震いし、ついつい手を擦って背中を丸め「冷やい冷やい」と呟いてしまう。つい数日前も、朝起きるとうっすら雪が積もっていた。おかしなことに、特に家の中が寒く、吐く息は白い。外に出た方が暖かいのはどういう訳なのだろう。

 

春への準備

こんな冬真っ盛りの土佐町でも、既に春に向けた準備が始まっている。

1月7日、近所の田んぼに堆肥の山ができていた。朝日を浴びて、表面からゆらゆらと湯気が立ち昇っている。堆肥はちっとも臭わず、しっとりとした土の粒はきらきらと光り、とてもきれいだった。そっと手で掘ってみると驚くほど柔らかく、中に入った指先はじんわり暖かくて気持ちがいい。きっとまもなくトラクターで田をたたき、この堆肥をすき込んで、今年の稲を育てる土壌をつくるのだろう。

私がストーブの前から離れない間に、お米を育てる人たちは春に向けての段取りを考えて行動しているのだ。そうと思うと、冷やいなんて言ってばかりいられない、と背筋が伸びた。

この地の循環

田んぼの持ち主の人に聞くと、それは土佐町の堆肥センターで作られたもので、主に牛糞でできているのではないかと話してくれた。

堆肥の中には藁も入っていた。土佐町で育つ牛の糞が集められて堆肥として生まれ変わり、お米を育てる土壌となる。「この辺の人は、この堆肥を使っている人が多いよ」と教えてくれた。もし何か一つでもなかったらこの循環は成立しない。この地のゆたかさをあらためて感じる。

この冬を抜けた先には、ちゃんと春が待っている。そのことがはっきりわかるのは、自然を相手に仕事をしている人たちがこの土地にいるからだ。その人たちの仕事や姿を見聞きするだけでも季節を感じ、時の流れを知る。それは、私にとって欠かせない、ありがたい体感となっている。

 

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とさちょう植物手帖

タラヨウ(多羅葉)

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早明浦ダムの道路周辺には緑花木が沢山植栽されていますが、その中の一つにタラヨウという木があります。点々と生育しておりその多くは樹高10mを超える大木ですが、上吉野川橋の南詰に高さ4~5mでギッシリと赤い実をつけた木があります。今年はこの一本が異彩を放っています。

タラヨウは雌雄異株(※しゆういしゅ)で、雌株には2~3年おきに実がつくようです。

 

タラヨウの葉は長さが20㎝ぐらいあります。裏面に爪楊枝など尖ったもので傷をつけるとその部分だけが黒く変色して長期間残る性質があります。この性質を利用し、かつては紙の代用として僧侶が写経や学問、さらには通信にも利用したとか。
紙が希少であった戦国時代にもタラヨウに文字を書いて情報をやりとりしたという記録が残っているそうです。

またこの葉を火で炙ると黒い模様が浮き上がります。奈良時代には、その模様を占いに用いるため寺社に多く植樹され、特別な樹木として大切にされてきたということです。

タラヨウは古代のインドで手紙や文書を書くのに用いたヤシ科のタラジュ(多羅樹)に因んでつけられた名前だそうで漢字で多羅葉と書きますが、「ハガキノキ」「ジカキシバ」「エカキバ」「モンツキバ」など別名の方が有名です。その意味は、漢字を充ててみればすぐに分かります。

紙の切れっ端などに書く覚書を「端書(はしがき)」と言いますが、これが郵便はがきの語源です。ところが「端書」ではなく「葉書」の字を当てたのはタラヨウの葉に由来するという説があり、1997年には当時の郵政省が緑化を推進するためタラヨウを郵便局のシンボルツリーとして定め、全国各地の郵便局にその植栽を奨励したそうです。

それによってタラヨウは「郵便局の木」という別名を備え持ちましたが、その後の郵政民営化に伴いその意味合いはだいぶ薄れてきている様です。

それでもタラヨウを植えている郵便局は今もあります。

高知東郵便局前のタラヨウ

 

木のそばに立つラベル


 
私が知っているのは高知市介良の高知東郵便局で、ラベルには [郵便局の木「タラヨウ」 Symbolic tree of post offices“TARAJO” 平成12年9月植樹]と記されています。

 

因みにタラヨウに限りませんが葉っぱの郵便は現代でも利用できるということで、物は試しと実際に送ってみました。全5通の内の1通を自分宛にして、間違いなく届くことを確認しました。

散歩がてらにタラヨウの木を探し、はがきを書いてみると楽しいこと請け合いです。

ただしはがき1通の郵便料金は63円ですが、郵便規定では長方形以外は「定形外」扱いとなり、タラヨウの葉っぱの場合の切手代は120円でした。

 

※雌雄異株(しゆういしゅ):雌花(めばな)と雄花(おばな)を別々の株につける植物

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私の一冊

鳥山百合子

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「てぶくろ」 エウゲーニー・M・ラチョフ絵 , うちだりさこ訳 福音館書店

絵本「てぶくろ」が日本で翻訳出版されたのは1965年、58年前から読み継がれている名作です。

表紙を見るたび、母が何度も読んでくれたことが蘇ります。私も3人の子供たちと何度一緒に読んだことか。この絵本とのお付き合いはもう何十年にもなるのに、昨年初めて知ったことがありました。それは、このお話がウクライナの民話であったことでした。

このお話は、森を歩いていたおじいさんが手袋を落としてしまうところから始まります。その手袋に、森の動物たちが次々ともぐり込んでいきます。ねずみ、かえる、うさぎ、きつねが順番に登場し、「入れて」「どうぞ」を繰り返していく。手袋の中は当然狭くなっていくのですが、さらに交わされる動物たちのやりとりが興味深いです。

おおかみが「おれもいれてくれ」とやってきて、既に中にいる動物たちは何と答えるか?これまで同様「どうぞ」と言うかと思いきや、そうじゃありません。出てきた言葉は、「まあ いいでしょう」。本音はきっと「狭いんだけどな…、でもな…、まあいいか…」といったところでしょうか。ちょっとした複雑な心境が伝わってくる場面です。

次に来るのは、きばもちいのしし。同じく「いれてくれ」という彼に、動物たちは「ちょっとむりじゃないですか」。でもいのししは「いや、どうしてもはいってみせる」と入ってくる。すると「それじゃ どうぞ」と中に入れる。

最後にくまがやってきた時には「とんでもない まんいんです」とさすがに断る。でもくまは負けずに「いや、どうしてもはいってみせる」。すると、「しかたがない でも、ほんのはじっこにしてくださいよ」と折れ、くまは中に。結局皆が入って、手袋は「いまにもはじけそう」になる。

 

今まで「てぶくろ」を何十回と読んできましたが、表紙に「ウクライナ民話」と記されていることを全く意識していませんでした。

昨年2月に始まった、ロシアによるウクライナ侵攻。「ロシアとウクライナは兄弟国」とメディアでよく見聞きしますが、なぜ兄は弟の国へ攻め入ったのでしょうか。

1991年のソビエト連邦崩壊に伴って独立したウクライナ。その国の歴史は複雑に絡み合い、私が簡単に言えることではないのですが、ロシアやウクライナに暮らす人たちは、かつて「てぶくろ」の動物たちのように一つの大陸に集い、共に暮らしてきたのではなかったでしょうか。相手を「どうぞ」と受け入れ、「ちょっと無理じゃないですか」という時も、相手の言い分にも耳を傾け、何とか折り合いをつけてやってきた。この民話は、この土地の人たちはそういった営みを繰り返し生きてきたんだよ、と伝えるために作られたのではと想像します。

このお話の結末では、手袋が片方ないことに気づいたおじいさんが戻ってきます。そして、吠えた子犬の声に驚いた動物たちは手袋から這い出して「もりのあちこちへにげていき」、「そこへ おじいさんがやってきて てぶくろを ひろいました」と終わります。

最後におじいさんが手袋を探しに戻ってきたのはなぜか?それはきっと、おじいさんにとって、手袋が大事なものだったからではないでしょうか。森に落ちた手袋が、動物たちにとって新たな居場所となり、おじいさんにとっては変わらず大切なものであったのです。手袋をどう捉えるか?一つのものごとを考える時、ある一面だけでなく、多面的に見る必要もありそうです。

未だウクライナとロシアの戦争は続いています。一刻も早くそれぞれの国の人たちが、あちこちへ逃げないですむ状況になりますように。自分の場所で安心して暮らせるようになりますように。大切なものを大切にできる日常に戻りますように。心からそう願っています。

 

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