2024年8月

笹のいえ

かあちゃん讃美

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奥さん、妻、嫁、家内、パートナー、、、
女性配偶者の呼び方はいろいろあるが、僕は彼女の本名の「シネマ」と呼び、子どもたちは「かあちゃん」と呼ぶことも多い。
今回は、そんな彼女の話。

うちではできるひと総動員で家事をする。理由は明快で、そうしないと暮らしが回らないからだ。掃除洗濯食事つくりに後片付け。その家事の大部分を担ってくれるのが、シネマだ。名もなき家事の数々もこなしている。

暮らしの大黒柱と言おうか、生活における縁の下の力持ちと言おうか、ともかく、家族が健康に過ごせるよう、毎日献身的に動いてくれている。

特に日々の食事は彼女が賄う。

毎日三食作るだけでも大変なことだが、うちは釜戸や七輪を使い、火を熾すところからスタートだから当然時間が掛かる。
薪の火加減によって調理方法も変わってくるし、他の家事や用事と併せて、時間との戦いでもある。それこそ一日中台所に立ち、美味しい料理をあれこれ作ってくれていることもある。段取りから片付けまでテキパキとこなす彼女の姿に見惚れる。

約十年前この町に引っ越してくる前、移住先を探していた僕たちは、高知県はおろか、四国に縁もゆかりもなかった。土佐町にはひとりの知り合いもいなかった。しかし、自然の豊かさや空気の清々しさに魅了され、なにより地域の人たちのたくさんのサポートがあってこの地に根を下ろすことを決めた。

三歳の長女と乳児の長男を連れた僕ら夫婦は、右も左もわからないまま、町営アパートを借り、新しい暮らしをスタートさせた。

千葉の住み慣れた実家を離れ、慣れない環境での生活。幼子ふたりと誰もいない公園で遊ぶ日々は、彼女にとって寂しさの連続だったに違いない。子どもを保育に行かせる前で、どこにも所属していない不安もあったそうだ。それでも文句ひとつ言わず、家族の暮らしを支え続けてくれた。

そのときの罪滅ぼしとしてはいまさらながらで、大変恥ずかしいことなのだけど、最近(本当にここ最近)僕は彼女の負担を減らそうと、意識的に家事や子育てのフォローをするようにしてる。いままで自分の作業や仕事にほとんどの時間を費やしていたことへの償いもある。

そうすることで思わぬ効果があった。

僕自身の家族との時間が増え、より親密になったと感じる。自分の仕事は進まないが、得られる充足感はこれまでより大きい。

シネマ自身も地域活動に積極的に参加したり、出かけたりするようになり、子供会やPTAの役員を引き受け、コミュニティに溶け込んでいる。下の子にかつてほど手がかからなくなってきたことも要因だが、子どもたちの成長と共に、僕ら家族が新たな段階に入ったことを実感する。

母として、また妻として彼女の姿を見るにつけ、感謝し愛おしく感じる。照れくさくて、なかなか口に出せなかったけれど、言葉や行動にして伝えることが大切だと今更ながらに気づいた。

言葉で伝えると共に、ハグをしたり手を繋いだり、より彼女を身近に感じる表現をしている。これまでの隙間を埋めていくように、ふたりの時間も増やしている。

シネマとの出会いは僕の人生最大の幸運だ。

健康的で美味しい食生活、五人の子どもたちとの暮らし、やりがいのある生き方。全ては彼女と一緒にいるおかげで実現している。これからも一緒に歩んでいきたい、そう強く願う。

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土佐町ストーリーズ

95年間のキヨ婆さんの思い出 31

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土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。
(2024年5月27日追記:潔さんは現在98歳。この連載を開始したのが95歳の時だったので、題名はそのままとしています。)

 

錦を飾るはずの故郷へ             

 

土佐郡森村へ帰ったのでした。10年前、土佐町の相川を出てからの哀れな帰郷でした。

病母、赤ちゃんの妹、家族七人、村の避病院でしばらくお世話になりました。

母方の叔父が炭を焼いている和田ケ谷の山小屋へ、病気の母の住む小屋を作り、布団一枚家族の着替え一枚もない中、親戚、友人、大勢の皆様のお情けで、何とか一日一日を過ごせる様になったものの、小学六年生の弟は勉強中止でかわいそうでした。叔父夫婦も通っていましたが、私達一家の収入源にと、炭焼き一年生で始めたのでした。

親戚から貰い集めた古い斧、鋸で怪我は絶えず、アンマ膏代りに糊木の皮を張り、体格の良い妹に負けじと頑張り、暦の無い日を送ったのでした。

環境が良かったのか、母も元気で、家族皆のくつろぎでした。

 

一日一日を元気でと願っていた矢先、思いもよらぬことが。

山の地主から「結核菌は三十年は地の中で生きているから、今すぐ出て行け」。

なんということか。

不自由な中でも、一日一日を何とか「ガンバッテ」と思ったのに、目の前に突然黒幕が…。母がどんなに辛いか。

でも、捨てる神あれば、拾う神あり。「山奥で良ければ」と声をかけてくれる人がいて、又々人のお世話になり、今までより遠いけれど、二つ小屋を作り、移ったのでした。

植林雑木で、昼でも暗い様な所でした。下の道路からは今までの倍も遠くて、森の農協から配給米を負って帰るのに妹と苦労しました。途中で休めば日が暮れるので、帰り着くと背中の皮がはげて痛かった。

そうした辛抱が、その後の忍耐へと強くなったと思うのです。

 

*避病院…法定伝染病の患者を隔離・収容していた伝染病院のこと

 

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4001プロジェクト

鍋島セイ子 (田井)

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昭和8年生まれの鍋島セイ子さんは北海道の十勝生まれだそうです。

祖父母、ご両親が共に土佐町から開拓移民として北海道へ移住。

聞けば当時は高知から北海道へそうして移住される方がとても多かったようです。

セイ子さんとご兄弟は全員が北海道生まれ。

やがて祖父母が土佐町に帰ることを決め、それに伴ってご家族も帰高したとのことでした。セイ子さん6歳のこと。

南国市領石の方とご結婚。ご主人は果物や野菜の卸業を営んでいた方。

当時土佐町の各地区にもたくさん存在した小売店やスーパーなどに生鮮食品を卸して回っていたそうです。

 

 

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メディアとお手紙

高知新聞 閑人調 23

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とさちょうものがたり編集部の鳥山が、2023年春より、高知新聞の「閑人調」というコラムに寄稿させていただいています。

このコラムには数人の執筆者がおり、月曜日から土曜日まで毎日掲載。月初めにその月の執筆者の氏名が掲載され、コラム自体には執筆者のペンネームが文章の最後に記されます。

鳥山のペンネームは「風」。月に2回ほど掲載されます。

 

銀の鈴

朝4時ごろだと思う。

日の出前、遠くから小さな鈴のような音が聞こえてくる。うつらうつらしながら、夢かな、と思う。が、遠かったその音は仲間を呼ぶように、響き合って、重なり合って、大きくなっていく。涼しげな高い音の響きは何だか心地よく、懐かしい。この音色を何かに例えるならば、銀の鈴、とぼんやりとした頭で思う。

まだ寝ていたいと思いながら鈴の音を聞いているうち、少しずつ目が覚めていく。

音の主はヒグラシ。鳴き声をよく「カナカナカナ」と表現される。早朝や夕方の涼しい時や曇って薄暗くなった時に鳴くそうだ。

布団でゴロゴロしているうちに、外はだんだん明るくなってくる。鈴の音は徐々に遠くなり、小さくなり、いつの間にか消える。音が消える瞬間に居合わせてみたいと思いながら、起きて朝ごはんを作り始めたりすると忘れてしまう。

うだるような日中は「ミーンミンミンミン」と鳴くミンミンゼミとバトンタッチ。ヒグラシはまた夕方に山の木々の間から、竹やぶから、銀の鈴の音を響かせる。「日を暮れさせるもの」としてその名がついたというヒグラシ。秋の季語である。暑さはしばらく続きそうだが、少しずつ秋に近づきつつある。

(風)

 

2024年8月12日、高知新聞に掲載されたコラム「閑人調」です。

夏の早朝聞こえてくる、ヒグラシの声について書きました。

うつらうつらしながら聞くあの声をどのような言葉にできるのか、長い間考えてきたのですが、今年やっと、しっくりくる言葉を見つけました。

「銀の鈴」。

金じゃありません、「銀」です。

早朝だけではなく、日が暮れる頃にも聞こえてきます。

まだまだ暑い日が続いていますが、その声はいっときの涼しさを運んできてくれます。

 

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くだらな土佐弁辞典

ぞんがい

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ぞんがい

【副詞】思いのほか

 

例:ぞんがい気に入った。

意味:思いのほか気に入った。

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4001プロジェクト

川村聰子 (田井)

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川村聰子さんは昭和8年、朝鮮(当時)で生まれました。実業家のお父様が、米や練炭などを輸入する事業を営んでいたそうです。

12歳(昭和20年)の頃に敗戦を迎え、家族一同命がけで朝鮮から帰国されたそうです。お父様の故郷である土佐町の相川白石まで、戦後の混乱の中、2ヶ月の道のり。

想像しただけで気が遠くなりますが、無事に到着するという一事においてもおぼつかないような状況だったと想像します。子供たちを抱えたご両親の心労はいかばかりか。

昭和20年10月に、お祖母様が住んでいた(お父様の故郷である)土佐町に到着。

その後聰子さんは高知市の洋裁学校(藤波高女)に通い、23歳の時に田井の方と結婚。

お父様は敗戦後も事業意欲の旺盛な方で、醤油や味噌を扱う商売を始めたこともあったそう。

その後は「神奈川木材」という製材工場を営み、お父様が社長、ご主人が専務、聰子さんは事務として従業員30人の会社を引っ張っていたそうです。

 

 

 

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素敵な夏休みをお過ごしください。

 

皆様、お盆のこの時期をいかがお過ごしでしょうか?

とさちょうものがたりは本日8/14-18まで夏休みをいただきます。再開は8/19(月)になります。

毎日暑い日が続きますが、引き続き素敵な日々をお過ごしください。

 

とさちょうものがたり編集部

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とさちょう植物手帖

イワタバコとナツフジ

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イワタバコ

イワタバコ(岩煙草)はイワタバコ科イワタバコ属に分類される多年草の1種です。

日当たりの悪い湿った岩上に生え、根元から数枚の大きな葉っぱを広げます。

葉は、大きなものでは長さが20㎝を超えます。

この葉の形がナス科のタバコの葉に似ていることからイワタバコと命名されたものです。

若葉が食用にできることから別名イワヂシャとも呼ばれます。

 

イワタバコ

夏になると10~30㎝の花茎を伸ばし、その先にインパクトのある花をたくさんつけます。

花冠の直径は2㎝ほど。先は5~6裂して星形になり、花弁は紫色で中心部にオレンジ色の斑紋が入ります。

土佐町大谷にある琴平神社(通称大谷さま)境内の横を流れる小川では、毎年この時期になるとイワタバコの花が群れ咲きます。

今年も水しぶきを浴びながらたくさん垂れています。

渓流に咲く涼しげな花です。

 

 

イワタバコ

 

大谷さまへの道筋にはナツフジ(夏藤)も咲いています。

クリーム色の花であまり目立ちません。「目を凝らして探せば見つかる」という程度の存在感なのかもしれませんが、花の一つ一つは綺麗です。

 

ナツフジ

ナツフジはマメ科ナツフジ属のつる性落葉木本です。

和名の由来は、5月頃に紫色の花を咲かせてよく目立つフジ(藤)やヤマフジ(山藤)に似ているが、夏に花が咲くことによります。

夏の「土用」の頃に咲くことからドヨウフジという別名があります。

 

 

 

 

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くだらな土佐弁辞典

かんたろう

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かんたろう

名詞:青い大きなミミズ

 

例:やっぱり、うなぎつりの餌は、かんたろうがえいがよ。

意味:やっぱり、うなぎつりの餌は、かんたろうがいいよ。

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4001プロジェクト

畠山都子 (和田)

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昭和2年の生まれ、畠山都子さんは97歳です。矍鑠(かくしゃく)としています。

和田地区生まれ、和田地区育ち。和田の方とご結婚され、お子さんが生まれるまで和田にお住まいだったそうです。

昭和40年田井へ移り、病院での給食を作る仕事を長らくされていたとのこと。

この年代の方々の共通点ですが、やはりご家族が戦争に出征されています。お父様が中国へ2年間。二人のお兄様も相次いで出征。

お父様は2年後元気な姿で帰ってこられたそうですが、お兄様は二人とも戦死され帰ってこなかったとお話しされていました。「兄は出征するとき泣いていました」とお話しされていたのが印象的でした。

 

 

 

 

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