土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。
初めての飯炊き
小学校へ入学してまもない頃、両親は何時もの様に五才の妹、赤ちゃんの弟を連れて、一山越した保乃谷という山の、移動製材の仕事に行っていた。
今から80年余り昔の事。トラックも見たこともなく、道路もない時代、移動製材というのがあって、植林の中へ持って行って、板とか柱をひいて、大八車とかで出していたそんな時代でした。
家は田が無かったので、現金収入でお米を買っていたのです。現場が遠いので、朝早くから夜になって帰る毎日でした。
その日も兄と二人でお腹をすかして待っていたが、兄がおひつの蓋を開けて見たら空っぽ。さあ大変。母が帰って炊くとしたら夜中になる。
そこで二人で炊こうかということになり、重い鉄のお釜に米を入れて、近くの谷の炊事場で洗って、くどまで持ってくるのに、兄が一生懸命でした。
近くの杉のバラや枯木を拾って燃やして、兄妹が並んで腰掛けて。何時も怒鳴っている父が帰ったらきっと叱られるに違いない、と話す内に、すぐ沸き始めたが中々止まらず、兄が蓋を開けて見てもお米は見えず、泡ばかりでお粥になったのです。
その時、父母が帰ってきたのです。「飯を炊いたけんど」と言うと、父はニコニコして「そうか、炊いたんか、そりゃーよかったネヤ」と、怒りどころかニコニコしていた。
「何でもエエ、食べろう」
母が大根のお漬物を出して、フーフーいいながらお腹をはらしたのでした。
固いご飯にならなかったのは、米を餅米と間違えたからだったと後から分かりました。何でもえいわ。父に叱られなかったことが嬉しかった。米櫃には餅米も入っていたのでした。そこまで子供が見分けられなかったのでした。
この思い出と共に、忘れることのできないことがあります。3才年上の優しかった兄のことです。戦争ゆえの徴用で、九州の佐世保で食糧不足、過労で病死。19才でした。高知市内で散髪屋さんでした。天国で床屋さんをしているでしょう。遠い昔の、忘れられない思い出です。
(続く)