先日、地元の三宝山地福寺で「八〇〇年の伝承 平家琵琶の無常の美 平家物語を聴こう!」という催しがあった。開催を知った時からずっと、その日を指折り数えて待っていた。
菊央雄司氏による語りに先立ち、越智亮成三宝山地福寺住職による声明が奉納された。焚き染められた香の薫る本殿の重厚で煌びやかな設えと、越智住職の美しい所作、耳に心地よい声明に枕草子の「説教師は、顔よき。つとまもらへたるこそ、説くことのたふとさもおぼゆれ」とはこういうことかしら、と思ったことだった。
静まりかえった本殿に琵琶の音色が響き渡ったとたん、空気の密度高くなった。まずは「祇園精舎」、中休みを挟んで「入道逝去(清盛の最期)」、締めは圧巻の「那須与一」。往時の琵琶法師もかくやと思わす艶やかで力強い菊央氏の語りは素晴らしく、瞬く間に時間が過ぎていた。
「平家物語」や「枕草子」「源氏物語」等々の何百年も昔に書かれた物語を今なお楽しめるとは、考えてみれば何とも不思議なことだ。目の前の読み手を楽しませることを念頭に物語を紡ぐことはあっても、何百年後かの読者を楽しませる物語を目指した者はいただろうか。「古典」になるなどとは露とも思わず、時代の最先端をいく新しい文学を世に送り出した、と作者は自負していたのではないだろうか。
それらの物語が「古典」として今も世にあるのは、作者の技量、作品の素晴らしさもさることながら、”受け手”の力によるところも大きかったに違いない。書物しかり、音楽もまたしかり。どんなに優れた作品も、受け手の存在なしには成立し得ない。時の権力者に愛され庇護されたとしても、受け手の裾野が狭い作品は、いつかは消えていくしかない。厳しくも公平な選択をくぐり抜け、何百年ものあいだ絶えることなく受け手を獲得し続けた作品だけが「古典」として生き残り、私たちを楽しませてくれているのだ。
そうとなれば、私たちに課せられている使命はなかなか重大だ。読者として、あるいは知の拠点である図書館として、連綿と繋いできた歴史の鎖を断ち切ることなく、作品を愛し、庇護し、次の世代に手渡していかねばならない。