川村房子

 

 

山の人、町の人。先祖代々住む人、都会から越してきた人。猟師さん、農家さん、森の人、職人さん、商店さん、公務員…。

人口4,000人弱の土佐町にはいろいろな人がいて、いろいろな人生があります。

土佐町のいろいろな人々はどんな本を読んでいるのでしょうか?もしくは読んできたのでしょうか?

みなさんの好きな本、大切な本、誰かにおすすめしたい本を、かわりばんこに紹介してもらいます!

(敬称略・だいたい平日毎日お昼ごろ更新)

私の一冊

川村房子

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone

「美しき愚か者たちのタブロー」 原田マハ 文藝春秋

絵なんぞわからんと云いながら、絵画を集めた松方幸次郎。理由はただ一つ。欧米に負けない美術館を日本に創り、そこに本物の名画を展示して、日本の画家達ひいては青少年の役に立てたいと願った。

「全力で守ります」と部下、日置紅三郎。

「松方さんの夢を叶えたい」と美術史家、田代雄一。

「取り返そうじゃないか、この国に」と首相、吉田茂。

国立西洋美術館誕生に隠された奇跡の物語。モネ、ルノワール、ゴッホも関わっていて、絵画の心得がなくても心豊かにさせてくれる史実に基づいた一冊です。

川村房子

 

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
私の一冊

川村房子

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone

「オリジン 」 ダン・ブラウン KADOKAWA

ハーバード大学教授のラングドンの弟子のカーシュが「我々はどこから来たのか、我々はどこに行くのか」の謎を解き、映像で発表する場に居合わせたが、彼は銃によって絶命。

命を狙われたラングドンはスペイン王太子の婚約者でもあるアンブラと逃亡しながら、人工知能ウイストンの助けを借りて真実を追求していく。

進化論か、神か、科学か、宗教か…。

衝撃の結末を迎える。

作者はダ・ヴィンチコードやインフェルノ等も有名で、ラングドンシリーズも五作目らしい。

次男が一気に読めたとくれた本。

長~いことかかりました。

川村房子

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
ほのぼのと

夏祭り

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone

今年も十七夜祭からはじまって森の野中祭まで、夏祭りの季節がやってきた。

小学生の頃から嫁ぐまで、毎年のように野中祭で踊った。

昔は20~30軒の商店があった森の通りをパレードしたり、たくさんの人で踊りの輪も二重三重となり、出店もいろいろあってとてもにぎやかだった。

中学生の頃の盆踊り当日は、朝からワクワクしていた近所のみんなで順番待ち。誰が待っていたのかは全然思い出せない。

お化粧をしてくれるのは石屋のけいちゃん。

「毎年、なんぼう化粧品がいるもんやら」といいながらも、おしろいを塗り、頬紅をつけて口紅を塗ってくれたけいちゃん。

色気も何もない、真っ黒い顔に化粧をしても全く無意味やったろうけれど、本人はそうじゃない。美人になってちょっと大人になった気がした。

踊った汗ですぐにとれるなんて思いもせず、口紅が落ちないよう細心の注意をはらった。

着物を着せてくれるのは公文のおばさん。タオルを首にまいてぽちゃっとしていたせいもあってか、汗だくだく。

「ゆかたの下がわのすそを折り返しちょいたら、足さばきがようなって着くずれがせんがよ」と教えてくれた。帯をきゅっとしめてもらうと背筋ものびた。

高校生になると「首の襟元をあけすぎると清潔さがのうなるきねえ。まぁ けんど色気も欲しい年頃やきちょっとだけ襟元をくっちょいちゃろうかねえ」

ほんとに色気がでたようでうれしかった。下駄をはいた足も内またになるように気をつけた。

夏祭りの季節になると踊りの練習に通ったこと、夜店を廻った事、輪のなかで踊った事、そのどれよりもおばちゃんがおしゃべりをしながら化粧をしゆかたを着せてくれた事を思い出す。

 

 

 

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
ほのぼのと

お爺やんお婆やん

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone

 

家から裏の細い山道を、子どもの足で1時間以上かけて登った所に叔父の家があり、そこは家囲いの古い木にかこまれて暗いような茅葺屋根の大きな家だった。
納屋には馬がいた。坂の途中に建てられた一軒家。その傍に隠居を建てて祖父母が住んでいた。

隠居は茶の間と寝間の二間。下半分が板戸で上半分が障子の入り口の戸を開けると小さな土間があり、あがりかまちを上がると、じざい鍵をつるしたいろりがあって、薪をくべていたので部屋はふすぼっていた。じざい鍵には汁物の鍋がかかり、いろりの淵には竹串に刺した里芋が焼かれているという昔話の情景。家というより小屋だった。

祖父を「おじいやん」祖母を「おばあやん」と呼んでいた。
おじいやんはいろりのそばに座っている姿しか思い出せない。片膝たてた足がとても長かった事を覚えている。おばあやんは腰が曲がっていたけれど肌のきれいなひとだった。
残念ながら二人のいいところは爪の先ほどももらってない。

父にくっついて何度かいったことがある程度で、祖父母に甘えた覚えがない。
孫は数えたことはないけれど30人ほどもいたろうから無理もないけれど。

父は女4人男4人の長男だったけれど一番下の弟に跡を頼んで家を出たらしい。義兄弟がたくさんいて、わがままに育った母は、戦争でいない父に代わって祖父母に孝行等ようせんかったと、私が娘になった頃話してくれた(こんなきれいな言葉じゃなかった)

祖父母が亡くなって60年以上過ぎ、跡をとった叔父一家もいなくなり、父の13回忌も終わった。山の中に残った祖父母のお墓に「これからはお墓まいりにもよういかんなるし、山の中に埋もれてしまいそう」と気にした私の兄弟がお寺にお願いして共同墓地に入れてもらった。

その夜は「お爺やんお婆やんは喜んだろうけれど、なによりおやじが喜んでくれたろう」と、昔話にはなをさかせながら遅くまでお酒をくみかわしていた。

 

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
ほのぼのと

想い出の白滝

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone

 

小学生の頃、一人でバスにのって大川村の白滝に行ったことがある。

昔のこと、狭いがたがた道で下には川が流れていて落ちたらどうしようと不安やった。

行けども行けども曲がり道で途中家もない山奥。

ようやっと着いた。

そこは目をみはるような別世界。バス停で降りるとお店。そこから上を見上げると段々に小さな家が並んでいて、庭のあるような家は見当たらず、もちろん田圃や畑もない。

おばの家はお店のすぐ上で、その横にコンクリートでできた谷があり、水が勢いよくゴーゴーと流れ、黄土色やったか粘土色やったか今まで見た水の色とは全く違った。

バス停の下には大きなお風呂があって、煙突からは煙がモクモクと流れ、一日中いつでも入れた。

お風呂に連れていってくれたのは従姉のひなちゃん。結婚したばかりで、子どもがいなかったのでよく面倒みてくれた。姉のいない私はとてもうれしくてつきまわった。

 

おばの家を少し行くと商店街があり、果物屋、散髪屋、電気屋、靴屋等々狭い間にひしめくように建っていた。パチンコ屋もあったという事をあとから聞いた。

映画館もあって、夕方みんなでぞろぞろと歩いて観にいった。定かではないけれど川向いにあった気がする。

 

人もいっぱいおった。おばちゃんだけでなくおんちゃんも、おしゃべりをしたりお茶をのんだり暢気にすごしていた。今なら交代制だとわかるけれど、一日中忙しなく働いていた時代だったので不思議やった。

それより何よりひなちゃんの家に行くと、ごはんが電気で炊けるという炊飯器があり、おくどで薪を使ってごはんを炊いていたわが家とは大違い。トースターもあってパンも焼いてくれた。はじめての連発に只々ビックリ。

いつのまにかミシンでスカートも縫ってくれていてうれしかった。

 

その頃、白滝の銅山で働いていた大好きな父に会いに行ったはずなのに、あまりにもビックリの連続に、その時ばかりは父との事をあまり覚えてない。

次の日、父から渡された大事な我家の生活費をひなちゃんがストッキングに入れ、腹巻にしてしっかり結んでくれてバスに乗った。

大人になったら、炊飯器の買える人のお嫁さんに絶対になると決めた。

 

あれから60年近くが過ぎ白滝銅山は廃坑となり、何度かとおってはみたけれど商店街がどこにあったのか、叔母の家はどこだったのか跡形もない。

ただ、道の下にあったお風呂屋の跡はわかった。

私の中の白滝は、住んでいた人たちにとっては全く違うのかも知れない。

 

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
私の一冊

川村房子

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone

「生きるヒント」五木寛之   角川書店

超ミニ版(10cm四方位)。

以前、何気なく読み過ごしたところも再度読むと深い。

「よろこび上手な人がいい」

日々のよろこびのある人は年老いて老人ホームで過ごすことになっても、過去のよろこびを想い出としてたくさんため込んでいる人は幸せですと書かれている。

健康に気をつけてよろこび上手になりたいと思った。

A 歓ぶ 惑う 悲む 買う

B 喋る 飾る 知る 占う

C 働く 歌う 笑う 想う

自分の人生を愛するために3冊に分かれている。

土佐町の青木幹勇館においてますので読んでみて下さい。

川村房子

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
ほのぼのと

おんじゃく

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone

「おんじゃく」はまっ白な石。

その石で地面に書くと白くついてチョークで書いたように見え、ケンケンパーや石けりなどを地面に書くときれいに描けた。

どこにでもあるものではなく、能地の山奥にあると聞いた覚えがある。

おんじゃくの持ってないみんなあ(3にんよればみんなあと言うと母によく言われた)で川に行っていろいろな石を岩にこすりつけながら、色のつくのを捜した。

それを「めんじゃく」とよんでいた。

なんでめんじゃくと言うたろう。おんじゃくが男でめんじゃくが女??

めんじゃくで書くと灰色っぽくおんじゃくの白さにはとうていかなわない。

 

覚えているのは中学校の校庭で小学生の頃。夕方近かったので秋の放課後かなあ??

地面におんじゃくで書いているのは、幹勇館にいる三代さんやった。

その石を割って分けてくれんろうかと、うまをあわせたけれど分けてもらってよろこんだ覚えはない。

それほど貴重で自慢のものやったかも知れん。

後日、友達夫婦に「おんじゃくって覚えちゅう?」と聞いたら、旦那さん(新宮出身)が「新宮から山越えで三島に抜ける峠をおんじゃく峠があってそこにはおんじゃくがあったらしい」と言っていた。

又、又、後日三代さんにおんじゃくの話しをしたら「能地は私の生まれどころやき、おじいちゃんが山へ行ってとってきてくれたろうかねえ」と言い、おまけに「分けちゃるわけがないろう」とにやりと笑うた。

やっぱりそうやったか~。

 

 

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
ほのぼのと

竹馬

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone

 

小学校3~4年の頃だった。男兄弟のなかで育った私。

二つ違いの兄と弟。その連れが庭先に集まって竹馬づくり。

さだかではないけれど、中学生はいなかった様に思う。

それでもナイフや鎌、ナタなど上手に使っていた。

 

何処からか切ってきた竹を、節のないように削り心棒をつくる。

火を焚いて割った竹をあぶり、膝をつかって曲げ、足置き台をつくる。

それを組み合わせて縄やかずらで結びつけてできあがる。

針金はこどもの遊びに使わせてもらえる時代ではなかった。

 

結び目が緩まないように、コツがあっておもいっきり角度をつけてしばり、その後水平にしていく。

「へーーーすごーい」と見ていた。

それでも子どもが作ったものだから、何度も乗るうちに足置き台がゆるんでしまう。

畑帰りのおんちゃんが見かねて、きつく締めなおしてくれた事もあった。

 

私専用のをつくってくれるわけではなかったので、兄や弟のをかりて練習。

いつのまにか乗れるようになっていた。

昔は近所に大勢の子どもがいたし、親が子どもの相手をしてくれることもなかったので遊びのすべてを上級生に教えられルールを覚えていった。

 

一昨年、友達夫婦と小豆島に行った時、「24の瞳」で知られる岬小学校に寄った。

校舎の隅に竹馬が立てかけられており、自由に乗ってもいい様だったので挑戦。

 

歩けた歩けたー。

40~50センチはあったと思う。

 

65歳。

昔取った杵柄はすごい。

 

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
ほのぼのと

着せ替え人形

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone

 

友達のふみちゃんが「孫が大きゅうなったけ」と着せ替え人形を譲ってくれた。

ドレスはもとより髪飾りやバッグにブーツまで着せ替えられ、色もカラフルで紙質もいい。

裏にマグネットがついていて、着替えが楽々とできるのもあるのにビックリさせられる。

 

子どもの頃、着せ替え人形は手描きだった。拙い絵だったけれど、下手なりに洋服を何着も描いて楽しんだ。

上級生に描いてもらったりすると、とてもうれしくて大事に大事にした。

首の部分がちぎれやすかったので厚紙を裏に貼った。誰にならったのか子どもなりに工夫していた。

雨の日は隣の寿子ちゃんの家で着せ替え人形ごっこをした。人形の家は石鹸箱やマッチ箱で花柄のお菓子の箱などを持っていたりすると、うらやましかったのを思い出す。

 

今では

「いらっしゃいませ  何にしましょう?」

「それじゃあ ハンバーグとジュースをください」

「わかりました 少々お待ちください」

「ポテトはいかがですか」

「まあ おいしいき 買うちょきや」

3歳と5歳の孫娘相手に紙人形をもってお買いものごっこ。

ファーストフード店の店員さんの言葉と土佐弁を達者に使う。

女はこんまい(幼い)時から違う!!

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
ほのぼのと

いっすん

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone

輪ゴムを二重にして長くつなぎ、両端を二人で持ってそれを飛ぶゴム跳びの事。なんで「いっすん」と言うたろう??

記憶もさだかじゃないけれど、持ったゴムを膝こぞう、腰、胸、肩、頭と上げていく。頭の上にひろげた片手を「いっかち」というのもあったと友達は言う。

最後は腕をまっすぐ伸ばして両端を持ったゴムを飛び越えたら終わり。途中でひっかかると休みとなったのか、ゴム持ちになったのかは忘れた。

飛び方もいろいろ。腰までは飛ぶ時に触ったらアウト。うしろ跳び、よこ跳び、それから助走をつけ足をあげて跳ぶ。逆立ちをして跳ぶ、側転で跳ぶ。

他の跳びかたもあったかもわからんけどねえ。ゴムやき失敗しても痛くないし。

小学生の時はパンツのゴムにスカートをはさんで跳んだ。中学生になっても私らあの学年は男女仲がよかったけ校庭でやった。

制服はスカートやったき・・・、まさか逆立ちはないでねえ。体育の前のブルマやったかも・・・・、上も下もゴムのはいったブルマやった。

テレビゲームも携帯も無い時代で外での遊びがほとんど。いろんな事を思いだす。

遊びの中で結構鍛えられよったと思うねえ。それにしてはリズム感も運動能力もいまいち・・・・、やけど。

 

これでこの話しは終わりの予定やった。ところがその夜、久しぶりの同級生と食事会。なつかしいねえと「いっすん」の話しをした。

「えっ いっすんと違うでー いちだんと言うたでー」

「えっ?えっ?そういえばそんな気がする」

「確か頭が10段」

「そうそう」みんな納得。

それから足首、すね、気をつけ、腰、胸、肩、耳、頭、何と考えても足らん。

「地べたは?」

「そりゃないろう」

「へそもあった?」

「いやー腰とかわらんろう」

なんぼ考えても考えても思い出せん。三人よれば何とかと言うけれど四人よっても無理やった。

布団の中でもずーっと思い出してはみたけど、いつの間にか、ねいっちょった。

 

 

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone