昭和20年(1945)の春、石原の小学校を出て、旧制の海南中学校に入学した。
高知市の西町に家を借りて、母と2人で住んだ。父は戦地に居り、石原の実家には祖父母が居た。
太平洋戦争が悪化の一途を辿っていることは、食糧や各種物資の不足などから、ひしひしと感じられた。小中学生の疎開も始まっていた。
一番心配なのは空襲であった。各地への空襲のニュースを聞くたびに、「高知市はいつやられるろうねえ」ということが日常的な会話になっていた。
空襲が気になるのか、春の終わり頃に祖父が馬車曳きさんを雇って1人で、防空壕掘りにやってきた。馬が曳く荷車に鍬やスコップ、鋸や手斧、金槌などの道具と、木材、板などを載せ、自分もその上に乗って来た。当時60歳過ぎだった。
家主さんの了解を貰って翌日から、庭で祖父の防空壕掘りが始まった。朝から晩まで、食後の休憩もとらずに続けた。昼食後に母が、
「ひと休みしたら」
と言っても、
「明日にでも、いや今晩にでも空襲があるかもしれんきに」
向う鉢巻で作業に熱中していた。
私も日曜日はもちろん、ほかの日も学校から帰るとすぐ、自分に出来る手伝いをした。
まず胸のあたりまでの深さの、5,6人は入れる長方形の堀が出来た。堀の内側には板で壁を作り、一辺には階段がついて板が敷かれた。
天井になる部分には厚い板をかぶせ、掘り積んでいた土をその上に盛り上げた。こんもりとした壕になった。
1週間ほどで終った。祖父は、
「思うたより早う出来たが、途中で空襲が来やせんかと、気が気じゃなかったぞ」
と、吐息をつくように言っていた。
排水設備などは無いため、雨が降ると水が溜まり、そのつどバケツで汲み捨てた。それでも、防空壕がある安心感は大きかった。
空襲警報が出るたびに、その壕に逃げ込んだ。
そして7月4日未明の、あの高知大空襲。もちろん、その時も壕に入った。
しかし、それまでとは全く様相が違っていた。飛行機の爆音が異常に近く、それがいつまでも続き、それに爆発音がまじってきた。
そのうち、
「空が真っ赤じゃ」
近所の誰かの叫び声でみんなが壕から飛び出し、揃って小高坂山へ逃げた。
山から見る高知市は、空も街も赤く染まり、それがどんどん拡がっていた。
幸い、我家は助かった。
その日の夕方祖父が、石原から歩いて様子を見にやってきた。