笹のいえ

笹のいえ

子どもと遊ぶ

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone

続き

 

僕はどちらかと言うと、子どもたちが遊んでいるのを見守ることが多い。一緒に遊ぶより、全体を俯瞰的に観察して、安全面や流れを観察している。だから特に長女と長男は、僕のことを「遊びの外側にいる人」として認識してるようにみえる。誘われることもあまりないし、「子どもたちだけでどうぞ」と断ることもある。やるべき仕事や予定があって時間が取れないことが言い訳リストの第一位だけれど、一緒に遊んだら遊んだで、やれ、それは危ないとか、それはルールと違うとか、「正しい」大人目線で場を仕切ってしまい、途端につまらなくなってしまう。だから僕が中途半端に参加するより、彼らで自由に楽しむのが一番だと考えてる。

しかしこの日のように、彼らの世界に全身で飛び込んでみると、僕は「仲間」として歓迎されることになった。ともに走り、飛び跳ね、疲れて動けなくなるまで遊ぶ。もうすっかり忘れてしまったピュアな感覚や遊びの外からでは分からない風景がそこにあった。子どもたちのエネルギーが溢れ、笑顔が輝かしい。きっと僕もめちゃ笑ってたと思う。そこには帰らなきゃいけない時間やこの後の予定なんて存在すらしていないように思える。毎回は無理っぽいけど、また仲間に入れてもらおうかな。

翌日から数日、僕は筋肉痛に悩まされることになったけれど。

 

写真:例えば、このシャボン玉遊び。部屋が汚れるから外でやりなさい、こぼれるから容器をちゃんと持ちなさい、もったいないから大事に使いなさい、終わったら手を洗いなさい、風邪を引くから服を着なさい、足が汚れるから靴を履きなさい、等々。前後の予定(ご飯やお風呂の時間など)を合わせればこの倍くらいの小言を言いたくなるので、ま、楽しそうだからいっか、とシャッターを押すだけにした。

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
笹のいえ

抜かせない長男

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone

連日しっかり寒くて、なかなか外で遊ぶ気になれなれず、子どもたちとストーブの前から離れられないでいる。しかしある日、意を決して公園に行こうと提案すると、やっぱり退屈していたのであろう彼らは、二つ返事で「OK!」と言った。

近くの公園に到着するとすぐに走り出す子どもたちは、とても楽しそう。誘ってよかった。

ブランコや滑り台で遊んでいる四人を見ながら、自分が最近運動らしい運動をしていないことに気がついて、僕はちょっと走ってみようと言う気になった。

足元は長靴だけど、まあとりあえず、敷地内をぐるっと5周くらいしてみようかと軽く走りはじめた。間も無く運動大好き長男が「オレも」と併走してくれた。普段走ることなど皆無な僕はゆっくりとではあるけれど、地面を蹴り、風を切る感覚を楽しんでいた。

最後の一周になって、息子を追い抜いてやろうと考えた。「父ちゃんもまだまだやるのだ」というところを見せてやろうと。相手は育ち盛りとはいえ、ただの小学二年生。よもや負けることはあるまい。

少しスピードを上げると、彼も同じ速度で付いて来る。しかも僕の少し前を走り、負けないぞ感を醸し出している。僕はさらにペースを上げる。が、彼も加速し、僕は彼を抜かすことができない。ちらちらと僕を振り返る余裕すらある息子。親の威厳に掛けて、力を振り絞る僕。48歳の父ちゃんと8歳の長男は、いつの間にか全速力でデットヒートを繰り広げることになっていた。

ゴールの途端、ふたりでしゃがみ込み、あがった息を整えた。

天を仰ぎながらショックを感じていた。僕の体力はすでに小二以下だったのだ。

「いやでもほら、長靴だったし」「そういえば、左膝が痛い気がする」

という言い訳が一瞬頭を巡ったが、それらを差し引いても、自分の体力の衰えと彼の成長を認めるしかなかった。

日々成長していく子どもたちに対して、老いていくしかない僕。

それはもう変わりようのないの現実だが、ちょっと悲しい。

 

それにしても、この爽快感は久しぶりだ。ともに汗を書き、力を出し切る。長男との体験の共有は記憶に残るであろう貴重な時だった。

興奮した気持ちのまま、しばらく童心に戻って、子どもたちと一緒に遊ぶことにした。

そして、いつもと違う彼らの反応に気がついた。

 

続く

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
笹のいえ

じゃーばーぶ!

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone

今春に三歳になる次女はおしゃべりが上手になって、コミュニケーション力も付いてきた。道端ですれ違った見知らぬ方々に「こんにちわー」と大きな声で挨拶して、相手をビックリさせる得意技も身につけてしまったけれど、この年齢限定と思えば微笑ましい(親は「驚かせてすみません」と頭を下げて回ってますが)。

自分で出来る(と思っている)ことも増えた。

トイレでパンツを脱ぎ着すること、靴を履くこと、スプーンでご飯を食べること 等等

でも、どれもまだたどたどしくて、横で見ている僕は、つい助け舟を出してしまう。そんなとき彼女が言う言葉が、

「じゃーばーぶ!」

最初に聞いたとき意味が全然わからなくて、何度も聞き直してしまったけれど、どうやら、

「だいじょうぶ!」

と言いたいのだ、ということが判明した。

幼児が言い間違えやすい言葉はいくつもあって、検索してみると、

とうろもこし(トウモロコシ)

ぽっくぽーん(ポップコーン)

かににさされた(蚊に刺された)

など。どれも「あるある」と思い出して笑ってしまう。が、その中に「じゃーばーぶ」は見当たらなかったから、もしかしたら、彼女のオリジナルなのかもしれない。我が娘ながら、なんとも素敵なセンスではないか、と親バカ丸出しで思ったりする。

僕は日頃、言い間違えを含めた「〜でちゅ」や「まんま」などのいわゆる赤ちゃん言葉で、幼児と会話することはほとんどない。

幼少期の言語を覚える過程で、

①赤ちゃん言葉で会話する

②幼児はそれを正しい言葉として認識し、使い続ける

③ある年齢で正しい言葉を覚え直す

という順序を踏むが、周りが正しい言葉を使えば、彼らはより早い段階で他人との違いを理解訂正し話すことができるからだ。なんてエラそーに書いたけど、これはある本からの受け売り。しかも逆の研究結果もあるようで、効果のほどはよく分からない。まあ、赤ちゃん言葉を使っている自分に恥ずかしさを覚えると言うめんどくさい性分が理由というのも多分にある。

けれど、「じゃーばーぶ」は、音が楽しいこともあって、僕も彼女を真似て「父ちゃんも、じゃーばーぶ!」と言っている。さあ、皆さんもご一緒に!

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
笹のいえ

あけましておめでとうございます

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone

新年あけましておめでとうございます。

日頃のあれやこれやを綴る雑文も足掛け四年。相変わらずの拙い文章ですが、ゴトゴトやっていきますので、今年もお付き合いいただけたら嬉しいです。

昨年12月に新しい命を迎えて、ついに七人家族になりました(別の機会でご紹介できたらと思います)。まだ小さな身体だけど、大きな存在感。彼女が加わって、僕ら家族の形が整った感があります。この先、絆が一層強くなり、一人ひとりの役割がより明確となり、次の未来に続いていくのだろうと考えると、とても楽しみです。五人兄弟たち、記事にもちょこちょこ登場する予定ですので、これからもこのエッセイと渡貫家をどうぞよろしくお願いします。

 

 

さて。

 

前回、風景のことについて書いた。

心身に潤いを与え、エネルギーと恵みを惜しみなく注いでくれる自然の中で暮らしていると、拝みたくなるくらい感動や感謝することがある。その一方では、台風や地震などの災害は遠慮なしに僕たちが積み上げてきたものを台無しする。天候だけでなく、ある種の生物に対しても注意しないといけない。スズメバチやハメ(まむし)は生死に関わるほどの強い毒を持っているし、猪や鹿などのいわゆる害獣は田畑を荒らし経済的な打撃を与える。

天気は地球の摂理だし、獣たちはぞれぞれ生きるため、命を全うするために行動している。災害とか獣害というのは、こちら側の都合であって、人間という立場を離れれば、それはただ「起こっている」だけ。

自然は人のことなどお構いないし、人類への配慮なんて持ち合わせていない。

結局、人に優しくできるのは、人しかいないのだ。

相手を想い、敬い、一緒に前を向いて進む。それは僕たち人間同士しかできないことだ。

でも、現実はどうだろうか。社会は、国は、世界は、そして、自分はどうだろう。

生まれたての三女を抱っこする。うちの猫より軽い。

吹けば飛んで消えてしまいそうな彼女の存在が、僕にそんなことを考えさせるのかもしれなかった。

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
笹のいえ

流れゆく世代

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone

しばらく前、用事があって久しぶりに訪ねた集落のおばあちゃんが杖を付いていた。室内の段差に足を引っ掛けて転び、膝を悪くしてしまったという。そんな話がきっかけで、彼女の体調や地域のことなどを玄関先でとりとめもなくおしゃべりした。

年配の方との会話では、歳をとった、身体のどこが痛い、しんどい、という話題が多くなる。加齢とともに今までできたことができなくなり、若いときと比べてしまうのは、僕も実感するところだ。「昔は良かった」という心持ちになるのは当然。でも、そんな話のあとはどことなく寂しい気持ちになる。

時が経てば皆同じように歳を取る。集団として考えれば、単純にその分だけマンパワーが減少し、できることが限られてくる。実際、地域の草刈りは年を追うごとに、参加者ひとりひとりに掛かる負担が大きくなっている。今年できた行事が来年はできないかもしれない。そんな不安はいつも頭の隅っこにある。

一方で、集落に住みはじめた若者が家庭を持ち、子どもの声が聞こえるようになった。「子どもは地域の宝」という気質のある土地柄だから、新しいいのちが増えると皆自分ごとのように喜んでくれる。こんな環境で育つ子どもたちは、この時代をどんな風に生きていくのだろう。

若い世代が身近にあると、「これから」を考える機会が増える。彼らが活躍する将来のためにいま何ができるのかと考えることは、僕らの生き甲斐となり、地域活性にも繋がるだろう。

止まることのない時間はときに無慈悲だが、だからこそ世代の移り変わりを受け入れ、未来を想像し、今を楽しみたい。

 

写真:うちの四兄弟近影。希望のカタマリ。

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
笹のいえ

風景と僕

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone

自然に囲まれて暮らしてると、はっとするような風景に出会うことがある。

それは、夜中外に出たときふと見上げた空で瞬く満点の星空だったり、朝日や夕日で焼けた雲が刻々と色を変える時間だったり、冷え込んだ朝に大根を収穫しようとしたとき葉についた霜の美しさに気が付いた瞬間だったり。

作業の手を止めて見惚れてしまうほど素敵な場面に立ち会えて、こんな土地に暮らせて本当に幸福だなと改めて感謝する。

と同時に、果たして僕はこの環境とともにしっかりと生きているのか?と自問する。日々の忙しさを理由に、見逃していることがたくさんあるんじゃないか、と思う。

冒頭で「出会う」と言ったが、それはこちらの一方的な想いで、僕が気付こうが気づかなろうが、風景はそこにある。心にも身体にも余裕を持って、ここに居ることを楽しみたい。

 

写真:笹からほど近い川の春の様子。普段は橋から見下ろしている風景も、別のアングルから見てみると全く違う印象を与えてくれる。

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
笹のいえ

ゴトゴト

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone

「まあゴトゴトやりよってよ」

収穫作業のお手伝いに行ったとき、何度かこんな言葉を掛けられた。

ゴトゴトとは、土佐弁で「ゆっくり、慌てずに」と言う意味だ。

慣れない作業をする僕に、まあ焦らずゆっくりやってよ、と気を遣っていただいたのだ。そのとき、頑張らなくては!と張っていた気が少し緩んだ。

毎日土佐弁に接していて、ひとつの言葉が心を温めてくれることがあるんだなと思うことがある。千葉にいたときも千葉弁があったが、そのころは方言というものをあまり気にしていなかった。高知にも千葉にも、そしてどの場所にもその土地の言葉がある。途絶えることなく世代から世代に繋がり、時代とともに変化して来た地域の歴史だ。

日頃年上の方々と交流する機会があるからか、僕の話す土佐弁には今では珍しい言葉を使うことがあるらしい。ある人との会話で、もうすっかり土佐人やね、その言葉はわたしらもよう言わんきね、と相手に褒められた(?)ことがあった。年齢によって使う言葉が違うが、その塩梅がわからない。

ネイティブの域にはまだまだ程遠い僕の土佐弁。間違いや聞き辛いところがあっても、どうぞご容赦ください。

 

写真:朝の登校前、宿題に勤しむ長男。「なんでもやりたい時期」真っ只中の彼は、毎日のように習い事をしてる。火曜日はスイミング、水曜日はダンス、木曜日は空手、金曜日はダンスとスポーツクラブ、土曜日はカヌー。日に30分と約束している電子ゲームもやる暇がないほどだ。帰りが遅い日は、翌朝普段より早く起きて宿題をすることもある。勉強も遊びもゴトゴトやったらいい。

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
笹のいえ

柚子の収穫

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone

稲刈りの次は、柚子収穫のお手伝い。

数日間、二か所の柚子畑に出掛けて行った。

一か所は所有者さんの自宅裏にあり、集落を見下ろすことができる穏やかな場所。

もう一か所は山の上の斜面にある圃場で、ここから見える周りの景色も良い。ちょうど紅葉がはじまるタイミングで、色づきはじめた山の木々が目を楽しませてくれた。

それぞれ別々の方が所有されていて、柚子の木の管理や収穫方法などが異なっていて勉強になった。

実は摘果ハサミを使って収穫するが、枝に棘があるので注意が必要。刺さるととても痛いし、体質によっては何日も腫れが引かないこともあるという。棘のある枝を踏んでしまうと靴の底を貫き怪我をすることがあるので、一か所にまとめておくことが大切ということも学んだ。

対策として、帽子やヘルメットを被り、手袋は牛革製。服の生地も目の詰まった素材がベター。エプロンや眼鏡をするのも有効だ。

木の高いところに生る柚子にはハシゴを上ったり、高枝バサミを使うと便利。けどずっと上を向いているので、首が痛くなってくる。実はコンテナに集め所定の場所に移動させるが、これが結構重い。なかなか重労働なのだ。

作業は朝から夕方前まで行われるが、嬉しいことに10時と15時の休憩がある。皆が集まってお茶とお菓子やミカンなどをいただく。休憩が多いと思われるかもしれないが、定期的にリフレッシュする時間を挟むことで集中力が保たれ、疲れる前に休むことで体力が持続する。

柚子には二回収穫時期がある。

一回目は実がまだ青いころ。そのまま出荷される。果汁は少ないが、薬味として使われることが多い。柚子胡椒はその代表。うちでも自家製を作ったことがあるが、風味が高くて重宝した。

二回目は色が黄色くなったころ。これは絞って柚子酢(地域では「ゆのす」と呼ばれる)にする。玉の大きいものは農協に出して、小ぶりのは自分たちで絞って自家製ゆのすにする。

高知に住むまで酢と言えば米酢と思っていたが、さすが柚子の産地、こちらでは柚子酢を使うことが多い。

酸っぱいけれど、美味しい。酢飯を作るときに混ぜると香りもとても良い。地元のうどん屋さんでは自家製の柚子酢が薬味として出てくる。うどんに酢?と思ったけど、出汁との相性が抜群だった。

柚子は他の柑橘と比べて育てやすいと言われているが、木の成長が遅く、「桃栗三年柿八年、柚子の大馬鹿十八年」と言われる。なんだか親しみ湧く果物だ。

 

写真:お手伝いに行った柚子畑。作業の動線を考えて植えられているのが分かる。実が収穫されてすっきり。

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
笹のいえ

棚田の稲刈り

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone

稲刈りのお手伝いに行くことになった。

10月も後半になって、国道沿いなど地域の中でも比較的標高が低い場所の田んぼはあらかた収穫が終わっていたが、山の上の方にある棚田は11月に入ってから稲刈りというところもある。僕は軽トラの助手席に乗せてもらって、目当ての田んぼまで名高山をコトコト登って行った。

朝9時過ぎ、周りは白い霧で覆われていて眼下に広がっているはずの景色もほとんど見えなかった。風もなく漂う濃霧の中に立っていると、夢と現実の狭間にいるようなぼんやりとした感覚になる。

数名が集まり、作業開始。まずは機械が刈れない田んぼの端っこや畦周りの稲を手鎌で刈っていく。稲や草に朝露が付き、ヤッケを濡らすが構わずわけ入って行く。ザクザクと刈られていく稲が耳に心地いい。

一時間ほどして日が高くなると、気温が上がり、霧が徐々に晴れてきた。上着を脱いで、向かいの山々を眺める。

手刈りが終わると、今度はコンバインが田んぼに入り、一気に稲を刈っていく。今シーズン新しく導入したというこの機種には脱穀した後、藁をまとめて括り排出するアタッチメントが付いている。「ガチャン!」という大きな音と共に投げ出され、ポンと田面に座る。小さなティピのような形で、たくさん並ぶと田んぼは小人の村のようになった。この後さらに天日に晒し乾燥させて、牛の餌になる。

集まった人たちは、田んぼの持ち主さんの友人や親類。皆さん手際良く動き、あれよあれよとお米が収穫されていった。

休憩中、かつての稲刈りの様子ややり方などを聞いた。機械が無い時代の苦労から楽しみ、山川での遊びなど、歳が進むに連れて、近代化していく暮らしや生活の変化が興味深い。話題が子ども時代に及ぶと、川では何が釣れたとか、どんな遊びをしたとかで盛り上がった。その表情はどれも嬉しそうだ。少しの間少年に戻った彼らから語られるのは、自分たちだけの「とさちょうものがたり」だった。

天気の良さも手伝って、五枚二反半の稲刈りは無事終了した。

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
笹のいえ

冬支度

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone

ある朝、スクールバスがやって来るバス停までの道を、息子と歩く。

落ち葉で縁取られた小道は、すっかり秋の様子だ。

はらはらと落ちてくる葉っぱを見ながら、そろそろ冬支度をしなくてはと考える。

干してある稲の脱穀とハデの片付け、小麦の播種、干柿ゆべし作り、生姜の収穫、農機具などのメンテナンス、細々した改修とDIYなどなど。冬本番前に終わらせておきたい、この時期にしかできない作業が目白押しだ。

落ち葉集めもそのひとつ。

ここ二三年は、この落ち葉を集めて畑に入れてる。畝やその合間を覆うように、堆肥やマルチとして利用するのだ。

白菜やブロッコリーなど冬野菜の苗の間に敷き詰める。そのうち落ち葉が野菜の冬服や布団みたいに見えてきて、幼児を世話するような感覚になって自分でも可笑しいなと思う。

ふと前を歩く息子を見ると、長袖長ズボンを着てる。

ついこの間まで夏服で遊びまわっていた彼もちゃんと冬仕様になっていた。

今日はタンスを衣替えしようかな。

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone