渓流には大きな岩が多い。家ほどの大岩もある。洞穴のあいた岩もあり、それは「岩屋」と呼ばれていた。
子どもの頃から夏には潜って、アメゴを突いた。
山の渓流は冷たいので、しばらく潜ると唇が紫色になる。そうなれば、手足も動かすのがしんどく、漁にならない。そんな時は、大きな岩の上に腹這いになる。いわゆる甲羅干しである。
そうして、夏の日を溜めた岩で腹を温め、背中は陽光に当てる。そして体力と気分が戻ればまた潜る。それを何度もくり返した。
岩の思い出は色々あるが、自分としては雷鳴の時の、恐怖感を伴った思いが消えない。
渓流に入っている時や、その行き帰りに雷に遭うことは珍しくなかった。
大体は余り近くに迫ることなく終るが、必死の思いで岩屋に逃げ込んだことも何度かあった。
まぶたに突き刺さるような稲光りが走り、地響きがするような雷鳴が、いきなり山を震わせることがあった。
狭い山間だから、その音は腹を殴られたような衝撃である。
すぐに近くの岩屋へ走り、金突鉄砲などの金属類を離れた場所に置き、岩屋内へころがり込むように入った。
そして岩屋の奥で身を縮めながら、稲光りと雷鳴が遠ざかるのを待った。
ピカピカ、バリッという稲光りと、腹にドカッと来る雷鳴までの不気味な緊張は、今も身体が覚えている。
ひどい雷鳴の時は振動を伴って、地震に遭ったようだった。
稲光りがした時、岩屋の中から外を見ると、杉や桧、その他の葉が不気味に光っていた。
旧制中学校の同窓会でそのことを話すと、山育ちの友人たちの殆どが、
「俺も岩屋へ逃げ込んだよ。雷はこわかったなあ」
と言う。