今はどの田舎も水道水が来ているが、かつては自然水を引くのが普通だった。特に山村では殆どの家が谷川の水や湧き水を使っていた。その水を家まで引くのは、主に懸樋であった。
戦後は各種パイプ、ホースが次第に使われ始めたが、それまでは孟宗竹や、木をくり抜いた懸樋が主で、どの家でも見られたものだった。
私の実家でも懸樋で水を引いていた。源泉は湧き水で、その水の湧き口から家までは約100メートルの距離があった。
その間を孟宗竹を二つに割った樋や、木材に溝を切り込んだ樋などでつないだ。
地面が低くなったところでは、つっかい棒で支えて懸樋の水平を保ち、水の流れを止めないようにしていた。
我家への水はまず隣家で分水し、そのあと我家まで届いていた。
その水を目的に応じて、大小二つの桶に溜めた。
小さい方の桶は縦50センチ、横60センチ、深さ60センチの長方形のコンクリート製で、懸樋の水を受けていた。その水を常時溜めておき、炊事全般に使った。
大きい桶は縦1.5メートル、横2メートル、深さ60センチの長方形の木製であった。防火用水としての目的が主で、時には三椏(みつまた)や楮の皮をさらしたり、色んなものを汚れ落としに浸したりしていた。釣ってきた川魚を飼ったりもした。
色々思い出も多い。
小学校の3年生か4年生の頃から、家族が山仕事などに出た日は、風呂を沸かすのは私の役目であった。かまどの風呂だった。まず浴槽を洗い、それから水を溜める。水は木桶で運ぶのだが、風呂場までは少し距離がある。
水を入れた木桶は重い。運ぶ回数を減らそうとして、どうしても欲張って水を多く入れるので余計に重い。浴槽をいっぱいにするには10回は運ぶ必要があったので、結構苦労した。
石にけつまずいて転び、木桶の水を全部撒いてしまったことも何度かあった。
当然のことながら、火の用心については、家族皆から厳しく言われていた。家族だけではなく、村の大人たちからも、耳にたこが出来るほど言われた。
山火事などを見て、火の怖さは子供心にもしみ込んでいたので、風呂を沸かすには大変気を使った。湯が沸いて、火が落ちてしまうまで、焚き口から離れなかった。用心のため、かたわらには水を入れた木桶を置いていた。
最近は谷川の水や湧き水とピロリ菌との関係がよく言われる。当時からこの菌があの懸樋の水に居たとすれば、毎日ピロリ菌を飲んでいたことになる。
そうではあっても、思い出の中の懸樋の水は、生活を支える温かい水であった。