家の中の壁に色々なものが掛かっている。整理していると、金突鉄砲が出てきた。木の台に針金状の銛が付いたもので、魚を突く道具である。ご丁寧に「小学校四年の時の作」と書いた紙片が付いている。それと一緒に、水中眼鏡が結びつけられている。
突いた魚の大きさを計るため、木の台に寸法の目盛りを刻んでいる。それがセンチではなく、寸で刻み、ちょうど1尺(約30センチ)まである。尺貫法の時代を反映している。
手にとって見ていると、これを握りしめて渓流に行った時のさまざまなことが、実に鮮やかに思い浮かんでくる。
金突鉄砲は、山村の子どもたちの夏には欠かすことの出来ない道具であった。夏は渓流でアメゴを突き、春は釣り、秋と冬は山で小鳥をとる。今のような、室内で時間をつぶす方法がなかった時代である。当然、渓流や山が遊び場となる。
そのためには刃物が必要で、金突鉄砲の木の台を作るのも、冬に山へ罠やこぶてを仕掛けるにも、必ず刃物が要った。みんな、ナイフは勿論、鉈や鋸を楽に使いこなしていた。
金突鉄砲を小学校の4年の時に作ることが出来たのも、そんな時代環境のおかげであった。戦時中で、そんなものは売っていなかったので、みんな自分で作った。
針金で作った銛を弾き出して、魚を突く動力となるのはゴムである。このゴムを手に入れるのが一番大変であった。
強い力で銛を弾き出すには、それなりの強い弾力を持ったゴムが要る。しかし物資不足のどん底にあった戦時下では、ゴムなどは売っていなかった。
ちょうど村内に、木材とか供出米などを運ぶ公用トラックを運転する人が居た。子どもたちはその人に頼み込んで、交換済みの古タイヤチューブを分けてもらった。これを切って使えば、ゴムは充分過ぎるほどある。みんなで分けて大事に使った。
当時のアメゴは、今のように養殖放流でなく、天然ものであった。
働き盛りの男性は軍隊にとられて、渓流には若い大人の男性は居なかった。そのためアメゴは結構多く、大きかった。水中で突くと大暴れして、金突鉄砲をぐるんぐるんと振り回した。
いま、その金突鉄砲を握っていると、水中で暴れるアメゴの手応えが手首に甦ってくる。もう70年も前のことであるのに、ぐるりぐるりと翻るアメゴの腹まで、脳裏にはっきりと見えてくるのである。
感触といえば、渕の岩の下でウナギの頭を突いた時、その下半身から尻尾まで、金突鉄砲もろとも右手首にまで、強烈に巻きついてきたことがあった。そのすごい締め付けも、体感として残っている。
小学校4年の時に作り、中学、高校、大学と使い、その後も気が向けば使った。まさに歴戦の友ともいえる金突鉄砲である。