土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。
叱られて
目の前にいるときは「オトッチャン」で、いない時は「オトウ」と呼んでいた。物心ついた頃から「オトウのおこり」というようになっていました。
学校から帰って父が家にいると、嫌な感じでした。
予習、復習を済ませて弟の子守り。昭和10年頃、電気は通っておらずランプだったので、夜更かしはせず、布団の中へ。だがその日は夕飯が済むと
「キヨ、よみかたの本を持って来い」(ソラ来た)
自信はあったがビクビク、漢字の書き取り習ったところはスラスラと書いて、やれやれと思った時「次いくぞ」と言って、まだ習っていない欄外の字を言ったがそこまでは無理。
「書いたか」
「まだ習ってない」
と言い終わらないうちに、いきなり筆箱が飛んできた。その筆箱は父が作ったもの。白い桐の板で、頭に当たって中のものが飛び散った。こうなると逃げるが勝ちと、薄暗い外に飛び出て、上の郡道へと走ったが、追いかけてこないことはわかっていたので母が迎えに来るのを待っていた。
しばらくして「キヨ、もうもんて来や」待っていた母の声。帰って黙って布団に潜り込んだ。
そんな父も妻や子に先立たれ、不幸な一生でした。
この記事を書いた人
大正15年9月27日、土佐郡森村相川麦山生まれ。3歳上の兄、3歳下の妹、赤ん坊の弟がいた。父の生家は米作りの農家だったが、どういう訳か分家して「石屋さん」をしていた。お米のご飯は食べられず、年中麦ご飯で育ち、小学4年の時、高知市に移住。10年後、あの空襲で被災。不治の病で入院中の母共家族7人、着の身着のまま故郷土佐町の山奥の生活。故郷の皆さまの温かいお情けに助けられ、幼い妹の母代わり、病母の看病。3年後、気がついたら母と妹は天国へ。悲しみの中でも生まれ育った故郷に住んでいることが何よりもの心の支えになり95歳。天国の肉親との思い出に涙することも供養になろうかと、まだまだ元気でガンバローと思っています。
絵を描いた人
土佐町生まれの土佐町育ち
2009年に国際デザインビューティカレッジのグラフィックデザイン科を卒業
30代の現在は二児の母で兼業主婦。
家事や育児の合間をみて、息抜きがてらに好きな絵を描いています。