土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。(2024年5月27日追記:潔さんは現在98歳。この連載を開始したのが95歳の時だったので、題名はそのままとしています。)
語り残す戦争の記憶 〜帰ってきた母の話〜
昭和20年7月4日、高知大空襲。
突然の爆音に飛び起きて、廊下へ出た。他の患者も、「空襲、空襲」と大声で走り回っていた。
南の筆山の方は一面に真っ赤。熱気を感じ、見上げた空は真っ黒。ゴーゴーと爆音。シャーシャーと焼夷弾の落ちる音。地響き、真っ赤な火の玉。一瞬、気を失いそうになった。
何とかタオル、綿入れのソータ、筍の皮の草履を履いて道路に出た。その時はまだ、病院は火がついていなかった。
南の鏡川の柳原に出たら防空壕がいっぱいあることは知っていたので、必死で走った。目の前に焼夷弾の火の玉が大きな音と共に飛んできて「しまった」と思った瞬間に、目の前の側溝に飛び込んだ何人かと一緒に、隅っこにピッタリと伏せて、耳を指で潰した。このまま死ぬのではないかと思った。
市といっても、B29何機もで攻められたら短時間で焼け野原になるだろう。
頭の上からは爆音が遠のいたが、起き上がってみるのも危険と、しばらくして周囲の建物の倒れる音、焼ける音を聞き、立ち上がることもできず、このまま終わりかと思った。
やっと時間が過ぎて立ってみると、側溝の深さが自分の身長よりも高くて、足がかりも手掛かりもないことに気が付き、うろうろしていると、山内神社の社務所へ渡る狭いコンクリートの橋が見つかり、やっと参道を横切り、川沿いの防空壕へ。
周囲の変わり果てた様子に身震いした。衣服に火のついた人が叫びながら走っていたり、道路の真ん中に倒れた人が火だるまだったり。川に入っている人、草の上で倒れている人が大勢いた。体に火がついて川に飛び込んだ人、焼死した人たちだったのです。
道の両側の家の形はなく、残り火が燃えていた。その熱気、臭い。
消防団の人に、近くの第六小学校へ収容され、熱いお茶とおにぎりでホッとしたのも束の間、江ノ口の六人の家族の心配。早く確かめたい。もし家と共に焼け死んでいたら探しにも来ないだろう。病人が一人、生き残っても仕方がない。早く安否が知りたい。何とかして帰ろうと決心。
夕方、残り火のまだ熱い中を、道路の中央の整理されたところを一歩一歩と昭和町の我が家へ。愛宕町らしいところも焼け野原。
木造の江ノ口小学校もあるはずもなく、赤レンガの堀に沿って見渡す限り、真っ黒白。人影もない。もう少しで堀が終わろうとした時、突然「お母ちゃん」。6年生の次男が飛びついてきた途端に「フニャフニャ」とその場に座り込んだ。
家族皆が取り囲んで、涙の合唱。しばらくして「よう生きちょったネー」と父が一言。二度も探しに行ったが見付からなかったのでした。
何にも知らない赤ちゃんの妹は、姉の背中でスヤスヤと。
昭和20年7月4日、高知大空襲の思い出です。