山育ちで同年配の人と話す時、多く出る思い出は、渓流での楽しみである。
竹の釣り竿や金突鉄砲などを、自分なりに工夫改善して作った苦労話などは、みんなに共通している。
大雨で増水した濁流を恨めしげに眺め、早く水が引いて澄んでほしいと、祈るような気持ちになった時、窮余の策としてとった方法も、
「やった、やった。俺もやった」
と、うなずく者が多い。その方法はー。
大増水すると、魚が濁流の中で浅い所へ散らばっているのではないかと思ったのである。そこで、長い柄を付けたすくい網を持って、渓流へ走った。
日頃はそこを歩いている河原も、濁流に沈んでいる。危なくて入ることは出来ない。
まずは安全な岸を歩いて激流を見ながら、ここと思う所を探す。
激流が河原を覆っているが、岸の近くになると流れが幾分ゆるくなり、地形によっては水がゆっくり回っている。そういう場所を狙った。激流に耐え兼ねた魚が、そこに逃げ込んでくるのでは、と思った。
そして岸に立って、濁り水を網ですくう。所かまわずすくうのである。
空振りをすることが多かったが、時には思わず複数の魚が入ってきた。濁って水中が見えないことが、却って期待感を増した。
とれる魚はさまざまであった。モツゴが一番多く、次いでハエ、イダ、ゴリで、アメゴも案外とれた。時にはウナギが入ることもあり、網の中で暴れ回るのを魚篭に入れるのに難儀した。
最初から意外に効果が上ったので、それからも濁流の時の恒例になった。
魚が多くとれる場所は、その時の濁りぐあいや水量などによって、そのつど違っていた。それを探すのが最初の仕事だが、次つぎと網を入れて回り、大当りした時は、空に向かって叫びたいような気分になった。
当然のことながら何度も行っているうちに、水量と濁りによって魚の集まる場所が、大体判ってくる。そこを自分の秘密の拠点にして、誰にも言わず真っ先にそこに行った。
そこが当る時も外れる時もあったが、当れば嬉しいし、外れても他を探す期待感の方が大きかった。
もちろん、澄んだ渓流での各種の魚とりが楽しいが、濁流から上げた網の中で跳ねる魚の姿も、まだ目に浮かぶ。