ここなあたりをまだ森郷と言うたころ、高峯神社は讃岐の金毘羅さんと並んで四国ではえらい神様であちこちは沢山お詣りにきょった。
神社の下から段々になって平い(ならい)宅地があるが、あこには宿や料理店が並んでいたそうな。
そんな頃の話よね。
三宝山(=稲叢山)の八合目ぐらいの所に土俵の大きさ位の石で、中の窪んで四・五斗ばかりの水が入る石がある。
あれは手洗石よ。
石原から平石に行く途中の、有馬林道入口のあたりの川原にあったそうなが、それをあこまで担いあげたそうな。
沢山の信者が何十人何百人となく縁日には来よったから、その信者たちが毎年毎年少しずつ引き上げて、あんな高い所まで運び上げたというから偉いもんよ。
明治になって神仏混淆はいかん言うて、三宝山も信仰が薄らいで、引き上げる人も無うて、ああやって八合目で止まっているそうな。
それが昭和三年御大典記念として村がとりあげて現在のような位置格好になった。
後編に続く!
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