高知県を舞台に撮影された「はりまや橋」という映画がありました。
監督はアメリカ人のアーロン・ウルフォーク(Aaron Woolfolk)。
彼は高知に長く住み、3本の映画を高知を舞台に作りました。「はりまや橋」は彼の3本目の作品です。
実は私、石川は当時(2008年)、この映画の撮影にスチールカメラマンとして参加していました。スチールカメラマンというのは、映画そのものではなく、ポスターなどの広告宣伝のための撮影をするカメラマンです。
そのアーロン監督、現在でも毎年のように日本そして高知を訪れています。今年も9月に高知に来訪、「はりまや橋」の縁もあって、土佐町の石川を訪ねて来てくれました。
そしてその2ヶ月後。こんなエッセイがアーロン監督から届いたのです。
インプレッションズ・オブ・土佐町
アーロン・ウルフォーク
あたたかな想いに包まれていた。
2017年9月、あるうららかな土曜日、土佐町を巡ったときのこと。美しい風景、心あたたかい人々、田舎のコミュニティ、都市からだいたい1時間。まさしく私の好きなタイプの地域だと感じた。
町の様々な場所 ー中心の商店街、アメガエリの滝、瀬戸渓谷、さめうらダムー を巡りながら思ったこと。この町は、過去25年の大半を過ごしたこの国の、私の好みの部分を集約したような場所だということ。
しかしまたそれは、土佐町それから高知県全体として、解決してほしい問題を私に思い出させる時間でもあった。
私が高知を初めて訪れたのは1992年のこと。
日本政府が企画した英語教育と文化交流プログラムであるジャパン・エクスチェンジとティーチング・プログラム(JET)のためだった。大学時代の後半、このプログラムに申し込んだ時点で私が日本に関して知っていた場所は、わずかに東京と大阪、そして(戦争の記憶として)広島と長崎だけだった。「日本のどこに行きたいか」と質問のある申請用紙に、私は「東京または大阪」と書いた。しかし他のほとんどの申請者たちも、私と似たりよったりな知識しか持ち合わせていなかったはずで、つまり彼らもまた「東京または大阪」と書いていたはずだ。
それはまたつまり、ほとんど全員が希望の場所には赴任できなかったということであり、みな希望外の場所へと送られて行ったのだ。私の場合、それが高知県だった。
私はサンフランシスコのベイエリアで生まれ育ち、大学まで通った。ベイエリアの人口は800万人以上、アメリカでも最も人口の密集している地域のひとつだ。小さなころは、ときおり田舎に住む親戚を訪れたり、たまにキャンプに行ったりしたこともあったが、それまでの人生の大半は都会で過ごしていた。
だから私が初めて高知空港に降り立ち、即座に須崎市に連れてこられた時のカルチャーショックをあなたにも想像してほしいと思う。それはその時点までずっと慣れ親しんできたライフスタイルからの突然の別れであって、順応するにもちょっとした時間が必要だったのだ。
だが結局のところ、私は慣れたのだ。いやそれ以上に、大いに気に入ったのだ。私はこういった小さな町の暖かな暮らしを愛し、特にこの親切な人々を愛した。そして大都市に比べて静かでゆったりとした生活を愛した。それは須崎だけに限った話ではない。私は文科省に任命された英語教育助手だったから、高岡郡全体の、海沿いの寂れた町や山の上の小さな村の中学校も周った。田舎の暮らしを満喫し、それをとても心地よく感じた。
やがてアメリカに戻り、大学院に進み、映画監督になった。
そしてその後も高知には1年に1度のペースで訪れていた。
結果として、3本の映画を高知で撮ることになったのは、私のなかで高知の印象が鮮烈すぎたということだろう。短編の「駅」と「黒い羊」、そして「はりまや橋」。
日本の田舎の美、特に高知の美しさを、世界の観衆に観せることができるということは、これ以上ないくらいエキサイティングなできごとだった。
この9月に、年に一度の日本訪問の準備をしていたとき、友人の石川拓也に連絡し、高知も訪れる予定があることを伝えた。すると彼は私を土佐町に招いた。彼は写真を撮りながら世界を旅した後、東京から土佐町に移り住んでいた。
私は土佐町は初めてだったこともあり、彼の招きを快く受け入れた。その日は高知市の友人である久子と3人で土佐町の様々な場所を巡ることとなった。
拓也と初めて会ったのは、彼が映画「はりまや橋」のスチールカメラマンとして仕事していた時のことだ。その後、SNSを通じて、彼が世界を旅し撮影をしている様を私は見てきた。
高知での映画製作を通しての経験が、明らかに彼に深い影響を与えていることを知って、私はうれしく思った。確かに、そういったたくさんの経験を私は映画製作を通じてしてきたのだ。
高知で映画を作るといつだって、東京からのスタッフが高知と恋に落ちてしまう。人生を変えるような衝撃を受けるのだ。高知で出会った人と結婚したスタッフもいる。休暇のたびに高知を訪れるようになったスタッフもいる。そして今、実際にそこに移住したスタッフがいるということだ。
土佐町を一緒に周りながら、私は拓也が移住した理由を深く理解した。この日は、私が日本の魅力だと感じていることをたくさん経験したのだから。
美しい風景、親切な人々、気さくで心地よい感じのコミュニティ。
日本の伝統文化は、田舎の山あいの町と村に最も色濃く残っている。25年前に私が高知県に恋した理由と同じことを、土佐町を周りながらいくつも見つけたのだった。
いつか活用してみたいと感じる、パーフェクトな場所も発見した。瀬戸小学校だ。2001年に閉校して以来、地元の人たちの手によってとてもよく整備された素晴らしい施設だ。現在はコミュニティセンターになっているが、ふだんは空っぽだという。芸術家が引きこもるには最適の場所だ。作家や画家、作曲家がここに来て、しばらく一人静かに時を過ごし、創作に集中できるだろう。周囲の環境には芸術家をインスパイアする美が溢れている。数週間くらい生活しながら仕事するために必要なものは全て整っている。
土佐町は愛すべき町だ。しかし問題がないわけではないことも、町を周りながら思ったりする。近年は町外に出て行く人も多いと聞いて少し残念に思った。運動会の日の土佐町小中学校を訪れた際には、学生の数が往年に比べ減少しているということも聞いた。瀬戸小学校を歩きながら、この建物が16年前に最後の卒業生を見送った時のことを想像した。
ここ数年よく耳にする、地方での人口の減少を気にかけている。日本の全国的な課題だが、高知のような場所にいると実感がある。村や町が近隣の自治体に吸収合併されたという話を聞くこともある。人口流出と出生率低下の結果として子どもが減ったことを受けて学校が閉校されるのも、住民が減っているので地域の伝統が維持しづらくなっていることも耳にしたことがある。
人口流出には様々な複雑な原因があるはずだ。理論武装したたくさんの学術的・政治的分野の専門家がいるだろうから、アウトサイダーの映画監督であり作家である私が言えることはあまり多くない。
だが私にはとても強い想いがある。
それは、小さな農村が、今後生き残っていくだけではなく、成長し繁栄するコミュニティになっていく様を見たいということ。
たとえば農村のコミュニティに企業が投資し、もうこれ以上人々が仕事のために引っ越しを考えないで済むようになる様が見たいということ。
このような地方に暮らすことの魅力を、もっとたくさんの人が理解する様を見たいということ。
土佐町のような場所に、政府がきちんと関わり合いを持って進んでいく様を見たいということ。
9月のあるうららかな土曜日に、私が土佐町で出会ったものは、個人的にも職業的にも、この25年間私を日本に魅了し続けたものと同じもの。
私はこれからも、映画監督として作家として、このような場所を照らすための作品を作り続けるだろう。
私は、こういったコミュニティの素晴らしい魅力を日本のたくさんの人々が(世界中の人々も)再発見し、そして再活性化に取り組む姿を夢に見ている。
アーロン・ウルフォーク監督作品「はりまや橋」は高知を舞台に、高岡早紀、清水美砂、ハリウッドからベン・ギロリ、ダニー・グローヴァーが出演する映画です。
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