鳥山百合子

 

 

山の人、町の人。先祖代々住む人、都会から越してきた人。猟師さん、農家さん、森の人、職人さん、商店さん、公務員…。

人口4,000人弱の土佐町にはいろいろな人がいて、いろいろな人生があります。

土佐町のいろいろな人々はどんな本を読んでいるのでしょうか?もしくは読んできたのでしょうか?

みなさんの好きな本、大切な本、誰かにおすすめしたい本を、かわりばんこに紹介してもらいます!

(敬称略・だいたい平日毎日お昼ごろ更新)

私の一冊

鳥山百合子

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「しきぶとんさん かけぶとんさん まくらさん」 高野文子作,絵 福音館書店

青空の広がる日、外に干した布団の気持ちよさといったらありません。その布団に飛び込んで、ぐっすり眠る。これは、かなりの幸せ。

人が布団で過ごす時間は意外と長く、1日の3分の1〜4分の1を四角いスペースの上で過ごしています。

たかが布団、されど布団。この本を読めば、ついワンセットに扱われがちな「しきぶとんさん」「かけぶとんさん」「まくらさん」は、それぞれ重要な役割を担っていることに気付きます。

寝る人がしきぶとんさんに頼みます。

「あさまでひとつおたのみします。どうぞ わたしのおしっこが よなかにでたがりませんように」

しきぶとんさんは答えます。

「おれにまかせろ もしもおまえのおしっこが よなかにさわぎそうになったらば まてよまてよ あさまでまてよと おれがなだめておいてやる」

しきぶとんさんが、朝まで見守ってくれていたとは!

そんな視点で布団を見たことがありませんでした。

かけぶとんさんは「ひるまころんで ちのでたひざも なめてさすってあっためて」直してくれ、まくらさんは、おっかない夢を鼻息で吹き飛ばしてくれる。

だから、人は安心して眠れるのです。

最後は「しきぶとんさん かけぶとんさん まくらさん いつも いろいろ ありがとう」でこのお話は終わります。

本当に、ありがとう。

今日も気持ちよく眠れるよう、寝床を整えたいと思います。

 

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土佐町の人々

木を植える人 その5

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種子さんのアルバム

ここ数年、種子さんは体調を崩しがちになり、定期的に病院へ通う生活を送っている。以前は週に3回は稲叢山周辺へ行き、木々の手入れをしていたが、今は山へ足を運ぶことが少なくなっている。

私が種子さんのお話を聞きたいと連絡したのは4月の中頃だったが、そのとき、種子さんはまだ今年の桜を見ていなかった。

種子さんは車を運転することができない。一緒に車に乗って山へ行き、一緒に木を植え続けてきた友人も歳月とともに年を取り、話をしてもわからない状態になっているという。この数十年の間に亡くなった人もいる。自分の山の土を分けてくれた和田さんも亡くなった。

時とともに木は育つ。その一方で、人は歳をとり、衰えていく。

 

2011年(平成23)3月、原石山での植樹。中央左が、種子さん(写真提供 谷種子)

種子さんは、アルバムを見せてくれた。植樹した年ごとにまとめられた数十冊のアルバムには、花や木々、共に木を植えた人たちの姿が丁寧に納められていた。

「楽しかったからできた」

その言葉には、種子さんが注いできた全てが込められている。

 

 

種子さんの願い

稲村ダムへ向かう道沿いに、一つの記念碑が立っている。
それは「ふるさとの森を育む会」の設立15年目に建てられた碑で、種子さんをはじめ、会が行ってきた植樹について書かれている。

この記念碑にある一文を指差して、
「私の願いはこれなんです」と種子さんは言った。

 

 

その一文はこうだ。

「次世代への伝承を祈念し、この碑を建立します」

木を植えるということは、今日・明日という単位のものさしではなく、もっと長く、もっと深いものさしで見据えた未来を描くことなのだと思う。自分がもう生きていないだろう未来を信じ、木を植える。それは、他の人に簡単に頼めることではないし、簡単に手を挙げられる話でもない。だからこそ「跡を継ぐ人がいなくて…」と種子さんは話す。

そして、以前はボランティアで関わってくれる人も大勢いたが、「今はボランティアでお願いするのが難しい時代になった」と種子さんはいう。人口が減ったことで一人が担う仕事が増え、ボランティアで関わる余裕がなくなっている、と。
時の流れとともに、変わらずにそこにあるものと、変わっていくものとがある。

 

 

引き継ぐ人を探して

今年の5月、種子さんが植えた木々の間を歩いた。その日は朝から雨が降っていて、急に雨足が強くなってきた。雨宿りをしようとケヤキの木の下に入ると思いのほかまぶしくて、頭上を見上げた。
細く枝分かれしたところから、小さな雨の雫が枝を伝い、滑るように流れていく。そして枝先で一粒となり、順番にひとつ、またひとつと、土の上に落ちていくのだった。

ここは、ふるさとの森。
23年間、種子さんが植え続けた木々は森となり、この山に水を蓄える。

 

今、種子さんは、自分に代わってふるさとの森を引き継いでくれる人を探している。

 

今年の春、種子さんと一緒に原石山に咲く桜を見に行った。

「春は桜が咲いてきれいでしょう?秋もきれいですよ。山は真っ赤に紅葉しますから。夏も来てみてください。緑がいっぱいです」

2021年、今年は植樹が始まってから24年目になる。
谷種子さん、88歳。
種子さんは、今年も木を植える。

 

 

現在の「ふるさとの森を育む会」の皆さんと嶺北森林管理署の職員さんと共に。種子さんは前列、左から4番目。(写真提供 谷種子)

 

 

 

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私の一冊

鳥山百合子

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「どうぶつサーカスはじまるよ」 西村敏雄作 福音館書店

「母さん、このプツプツ、なんだろう?」

長女が4歳だった時、手のひらを広げて、私に見せに来ました。手のひらには赤い発疹がいくつか。「あれ?なんだろうね?」そう言っている間に発疹はどんどん増え、顔やお腹、足に広がっていきました。次第にその点同士が繋がって、全身は紅色のまだらの斑点で覆われました。熱もどんどん高くなる。呼吸も乱れ、ぐったりとしている娘。

その症状を見て、思いました。まさかと思うが、間違いない。多分、麻疹だ…。

熱の塊になっていた娘をおんぶして病院へ。お医者さんは「あれ?はしかかな?でも背中に発疹がないのがおかしいね…」と言います。多分予防接種をしていたから、背中は斑点が出なかったのではとのこと。結局、血液検査で麻疹だとわかりました。

麻疹は感染力が強いため、治るまで外に出られません。治るまでどうやって過ごそう…。

先が見えず途方に暮れていた時、本屋を営む知人の顔が浮かびました。

「思いっきり元気になれる、楽しい気持ちになれる本を送って!」

その注文に応えて、送ってくれたのがこの本でした。

パンパカパーン、パンパンパン、パンパカパーン!で始まるどうぶつサーカス。馬のダンスやワニの組体操。ライオンの火の輪くぐりでは、ライオンの毛が燃えていました(笑)。空中ブランコでは、怪我をして出られなくなった猿の代わりにお客さんのぶたが宙を舞う。いい意味でのんきで楽しい動物たちに、どんなに励まされたか!

一緒に笑うことで不安やしんどさを吹き飛ばし、麻疹の日々を何とかやりくりしていました。今となっては、たまらなく懐かしい思い出です。

 

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土佐町の人々

木を植える人 その4

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種子さん、土を運ぶ

植樹を開始してから数年間は、ホームセンターで買った土を運び、木を植えていたという。その現状を聞いた知人の和田富次さんが、土佐町溜井地区にある自分の山の土を分けてくれることになった。

トラック何台分もの土を運んだ(写真提供 谷種子)

富次さんは自分の山をユンボで掘り、約1時間半かかる稲村ダム周辺まで、トラック何台分にもなる土を運んでくれた。

現地で土を土嚢袋に詰め替え、斜面も進むことができるキャタピラで運び、木を植えた。

 

キャタピラを使い、植樹する場所へ土を運ぶ(写真提供 谷種子)

土を運ぶ。木を植える。
土を運ぶ。木を植える。
それを繰り返した。

 

 

 

山で生き返る

2000年(平成12)には山桜やカエデ、クヌギを453本。次の年には桜を94本。毎年広葉樹を植え続け、今までに植えた木の数は、合計6,152本。その本数の木を植えるため、その本数分の土を運ぶ。聞いただけでも気が遠くなるような、果てしない作業量だ。

木を植える穴が掘れないと分かった時、やめようと思わなかったのだろうか?
種子さんに聞いてみた。
「営林署の人に“やります”と言った後に、“やっぱりやめます”とは言いにくかったのでしょう?」

種子さんは、間髪入れずに言った。
「言いにくかったなんて!やめようと思わなかったのよ。“これは大変だ!”とは思ったけど」

そう言いながら、からりと笑った。

そしてもう一度、はっきりと言った。

「やめようとは思いませんでした」

「楽しかったですから!山に来て仕事するのが。気持ちが晴々とするから。いわば、“生き返る”んじゃないです?」

そう言い切ることができる姿に、種子さんの強さを見た。

この話をするときの種子さんの声は弾み、一オクターブ高くなる。
「一筋縄ではいかない」出来事は、時間とともに笑い話になっていた。「一筋縄ではいかなかった」出来事として、今は懐かしく、かけがえのない思い出になっている。

 

 

楽しくなかったら続けられない

「ふるさとの森を育む会」には、木を植えるという目的を共有できる多くの友人たちがいた。種子さんは、同じ志を持った人と仕事をすること自体が楽しかったのだ。一緒に走る人が隣にいれば、たとえどんなに大変なことがあったとしても、いつか振り返ったとき、楽しかったこととして思い返すことができるのだと思う。

 

2011年(平成23)3月、共に植樹した仲間たち。前列左から5人目が種子さん(写真提供 谷種子)

1999年(平成11)に植樹を始めてから2020年(令和2)まで、延べ4,087名もの人が手伝ってくれたという。

ダムまでの道沿いに植樹するときには、同級生である建設会社の社長が、仕事の少ない夏場にユンボを持ち込み、ダンプトラックに踏み固められた土を掘り返してくれた。

「たくさんの人の協力をいただいていたからできた。本当に感謝しています」

せっかく植えた木を猪に掘り返されても、強風で木が倒れても、木を植え続けた。

「大変なこともあったけど、楽しかった。楽しくなかったら続けられないですよ」
種子さんは、そう話す。

 

木を植える人 その5」に続く

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土佐町の人々

木を植える人 その3

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「稲叢山が恋人やき」

種子さんは女性の保護施設に在職中から、退職したら何をしようかと考えていた。社会保険労務士の資格を生かし事務所を立ち上げようかと考えていたが、稲村ダム周辺の風景が頭に浮かんだ。

「退職した後、海外旅行へいく人もいたけれど、私は稲叢山へ広葉樹を植えようと思った。社会保険労務士の資格を持っている人は他にもいるけれど、稲叢山に植樹してくれる人はいないだろう。そう思って、木を植えることにした。“稲叢山が恋人やき”、って言うて」

こうして、本格的に種子さんの山一色の生活が始まった。

2001年(平成13)、種子さんは保護施設を退職。長年暮らした高知市を離れ、33年ぶりに、念願のふるさと・土佐町に帰ってきた。

 

 

 

お金の話

話は少し逸れるが、お金のことを記しておきたい。
県庁の職員だった種子さんは、「ふるさとの森を育む会」を設立するときから補助金はもらわないと決めていたという。自分たちでできる範囲のことをやりたいからと、資金として自費100万円を会に寄付。それを元に活動を始めた。

稲叢山周辺は国有林。種子さんが木を植えてきた稲村ダム周辺は四国電力の所有地、原石山からダムへの道沿いは国有林になる。国有林に植樹するには、営林署の許可が必要だ。種子さんは毎年、許可申請をして木を植えている。国有地に植えるのだから、苗木は植えた瞬間に国有財産となる。

種子さんの活動を見ていた土佐町の町会議員から提案があり、2014年(平成26)より、草刈り機の燃料代など活動の一部を支援するお金が町から出るようになった。それは今も継続されている。

 

 

種子さん、木を植える

「ふるさとの森を育む会」を設立し、地権者である営林署と四国電力からも許可を得た。さあ、これから植樹していこうという時、初めてわかったことがあった。

木を植える穴が掘れない!

「植樹」と聞いたら、誰しもが「土の地面に穴を掘り、そこに木を植える」という工程を思い浮かべることだろう。しかし、その当たり前に思われることができなかったのだ。

とにかく、地面が硬い。木を植えようと思っていたダムまでの道沿いは、ダンプトラックに踏み固められてツル鍬が入らない。原石山は岩石だらけ。「山」なのだから土があり、当然のように木を植えられるだろうと思っていたが、大間違いだった。

お手上げだ…。

普通だったら、そう思って手を引くのではないだろうか。

でも、種子さんは違った。

「穴が掘れないなら、ユンボで掘ればいい。石だらけで土がないなら、土を運んでくればいい」

種子さんはそう考えた。

 

木を植える人 その4」に続く

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土佐町の人々

木を植える人 その2

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谷種子さん

谷種子さん。現在88歳。

1998年(平成10)から23年間、稲村ダム周辺とその道沿い、そして原石山に木を植え続けている。
今までに植えられた木は桜、モミジ、クヌギ、ブナ、ヤマボウシ、ヤマツツジ、イロハモミジなど広葉樹25種類。その本数は6,152本にのぼり、植樹した土地の面積は6ヘクタール(60,000㎡)。いつ、どこに、何を植えたのか、種子さんの頭の中の地図に全て記憶されているという。

4月、稲村ダム周辺と原石山では桃色の桜があちこちに咲き誇る。種子さんが今までに植えた桜の本数は、約2,000本。種類によって少しずつ開花時期がずれるため、4月から5月まで桜が咲き続ける。

この辺りは標高が高いため、町中に咲く桜とは開花時期が1ヶ月ほどずれる。「高知では3回花見が楽しめる。3月末に海岸沿いで、4月に早明浦ダム周辺で、そして5月は稲村ダム周辺で」と言われている。

「これは福禄寿」「こっちは永源寺」「普賢像」「御殿場桜」…。
慈しむように桜を見つめながら、種子さんが教えてくれる桜の名前の数々。桜にはこんなにも種類があるのかと驚かされる。

「木の一本一本が、かわいい」
種子さんは、今年の桜を見ながらそう言っていた。

 

 

 

種子さんという人

土佐町で生まれ育った種子さんは、長年、高知県庁の職員として働いた。

1970年代(昭和50年代)頃、女性が管理職に就くことがまだ珍しかった時代、種子さんは数少ない女性の管理職として仕事をしていた。県庁に電話をかけてきた男性が「責任者を出せ!」と言うので代わると、「女ではいかん!男を出せ!」と怒鳴られたこともあったという。
それでも、「仕事は本当に楽しかった。やりがいがあった」と種子さんは話す。

戦没者の遺族年金受給の手続きも担当した。すでに戦後30年が経過し、受給する人も高齢化。受給するための手続きは複雑で、高齢者にはとても難しいことだった。種子さんは申請者の様子をみて、サポートが必要だと思われる人には申請に必要な資料を集め、手続きを手伝った。そうすることで遺族年金の受給が初めて可能になった人も多かったという。その人たちが「あなたに足を向けて寝られない」と言葉をかけてくれ、喜んでくれた。種子さんは、そのことがとても嬉しかったという。

1992年(平成4)に県庁を退職。その後勤めた女性の保護施設は、家庭内暴力などから逃れてきた女性を保護して話を聞き、その人にとっての自立を導く職場だった。3年間という約束で働き始めたが、施設で保護した女性を探し、暴力団が乗り込んでくるようなこともあるためか、後任がなかなか見つからなかった。最終的に、種子さんはその施設で9年間働いた。

働きながらいつも心に浮かんだのは、山で働く両親の背中だった。田畑を耕し、炭焼き小屋で炭を焼く両親。特に母親は朝から晩まで「田畑の世話、雨が降れば蓑笠で出かけて水路の掃除、食事作り。とにかくいつも働いていた」。
その母親の背中を見ていたから、自分の仕事のしんどさなんてどうってことない。そう思えたという。

種子さんが身をもって味わってきたこれらの経験が、種子さんという人の揺るがない軸をつくったように思えてならない。

 

 

ふるさとの森を育む会、設立

女性の保護施設に在職中、種子さんはたびたび稲村ダムを訪れては「ここに花の山があったら、どんなに素晴らしいだろう」と思っていたそうだ。

稲村ダムは瀬戸川の源流域にあり、瀬戸川は高知市の水源地でもある。瀬戸川の水を毎秒4トン土佐町の平石川へ落とし、そこから高知市の鏡ダムへ毎秒6トンの水を送る。

「土佐町は水源地。自分が生まれ育った土佐町の山を、少しでも保水力のある、豊かな森にしたい」

ずっとそう考えていたという。

1998年(平成10)、種子さんは、評議員を務めていた「テレビ高知花の基金」にその考えを持ちかけた。「テレビ高知花の基金」は、植物学の父・牧野富太郎が名付けた「仙台屋桜」の苗木を配布する活動をしていた。
「テレビ高知花の基金」は種子さんの話を受け、桜の苗木を贈ることを決めた。

地権者である営林署(現在は森林管理署)と四国電力から植樹の許可を得て、種子さんは「ふるさとの森を育む会」を設立。
当初、稲村ダム周辺とダムへ向かう道沿いに木を植える予定だったが、設立の際に営林署から「原石山にも植えてほしい」という依頼があった。そのとき、種子さんは迷うことなく「やりましょう」と答えたそうだ。

迷いないその一言が、後々まで語り継がれる「一筋縄ではいかない」出来事につながっていくのだが、今となっては種子さんにとって「そんなこともあったわね」という笑い話になっている。

 

2001年(平成13)4月、第2回目の植樹。原石山に最も近い瀬戸小学校の子どもたちも手伝った。(瀬戸小学校は平成21年に閉校)(写真提供 谷種子)

1999年(平成11)3月、種子さんは多くの人の協力を得て、稲村ダム周辺と原石山に、仙台屋桜など約500本の桜の植樹を行った。これが、その後続いていく植樹の第一回目である。

 

 

木を植える人 その3」に続く

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土佐町の人々

木を植える人 その1

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桜の木の下に寝転がり、風に揺れる枝葉を眺めていると、どこまでも高く、空に吸い込まれていくような気持ちになる。頭上は四方八方ぐるりと見渡せる青空で、遠くからアカショウビンの鳴き声が響く。
春は桜、初夏はつつじの花が咲き、夏の木々は鮮緑に染まる。秋にはドウダンツツジがその紅色を山に添え、山は一気に紅葉を迎える。

かつてこの場所は、かやとよもぎだけが生える荒涼とした土地だった。地元の人に言わせれば、「あんなところ、何も育たん」と言われてきた場所だという。

今から23年前、荒れた大地に膝をつき、小さな桜の苗木を土におろした人がいた。
その人、谷種子さんはそれから毎年、この場所に木を植え続けている。

木々が少しずつ根を張り、枝葉を伸ばす。荒地に花が咲き、大地に四季の色を添えていく。
年月を重ねるごとに変わっていくその風景は、種子さんを励まし続けたに違いない。

あとで、種子さんからこの場所の名前を聞いた。この場所の名前は、一の谷。通称「原石山」という。

 

 

ロックフィルダム・稲村ダム

土佐町の中心部から瀬戸川渓谷に向かって、車で約1時間20分。標高1,200メートルの場所に「原石山」はある。近くには土佐町の最高峰、標高1,506メートルの稲叢山がそびえ、そのふもとには稲村ダムがある。

稲村ダムは、1982年(昭和57)に完成。四国電力が建設した高さ88メートルのロックフィルダムである。ロックフィルダムとは、岩石や土砂を積み上げて建設するダムのこと。四国電力は、稲村ダムを上池とし、そこから560メートルの落差がある本川発電所に水を落とすことで発電している。

 

原石山の原風景(写真提供 谷種子)

稲村ダムは、ダムから1.6キロ離れた「原石山」から切り出された岩石でできている。原石山6.3ヘクタール(63,000㎡)から300万㎥の岩石が切り出され、ダムの建設に使われた。

稲村ダム建設の際、原石山からダム建設地まで岩石を運ぶため、32トン大型ダンプトラックが使われた。そんな大きなトラックは、稲村ダム周辺へ繋がる細道を通行できない。分解して運ばれ、現地で組み立てて使われていた。

原石山からダム建設地まで、幅10メートルの道がつくられ、多いときは22台ものトラックが行き来した。

 

採石後の原石山(写真提供 谷種子)

1978年(昭和53)から1982年(昭和57)のダム建設の間に、道はダンプトラックに踏み固められ、辺り一帯は荒野となった。ダム完成後、岩石を切り出すために剥がされた上土は一応戻され、杉とヒノキが植えられたという。

 

その頃、完成した稲村ダムを見に行くために、ある人が原石山を訪れた。荒野に杉とヒノキが植えられている風景を見て、思ったという。

「広葉樹を植えたらいいのに」

それが最初の感想だった、と谷種子さんは話してくれた。

種子さんが次に訪れた時、植えられていたヒノキは根付いていなかった。「どうにもならん所にヒノキを植える」と言われるほどヒノキは強い。そのヒノキでさえも、根を張ることができない。原石山はそういう場所だった。

木を植える人 その2」に続く

 

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私の一冊

鳥山百合子

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「おつきさまこんばんは」 林明子 福音館書店

ページのあちこちが折れ、背表紙は今にも剥がれ落ちそう。裏表紙には鉛筆でぐちゃぐちゃっと描いたいたずら描きもある。もうボロボロのこの一冊は、我が家の3人のこどもたちが何度も何度も読んできたお気に入りの一冊です。

「おつきさまこんばんは」を開くと、色々な思い出が蘇ってきます。

夜になり、空が暗くなる。屋根の上がぼんやりと明るくなり、お月さまが顔を覗かせます。

「おつきさま こんばんは」

子どもたちが、ほわっと顔をくずし、にっこり笑うのがとてもかわいかった。

このあと雲が出てきて、お月さまが隠れてしまうのですが、その場面では子どもたちは困り顔に。まさにお月さまと一心同体。

そして雲が去り、またお月さまが顔を出す。

「あー よかった おつきさまがわらってる まんまるおつきさま こんばんは こんばんは」

優しげに、にっこりと笑っているお月さま。最後のこの場面が子どもたちも私も大好きで、みんなで笑顔になります。

ゴロンと横になって顔の上で絵本を広げた私の横で、少しでも近くへと身体を寄せて絵本を覗き込んでいた子どもたち。その子どもたちも大きくなり、もう押し合いへし合いはしません。

けれど先日、中学3年生の長女が、ふと本棚からこの本を取り出して「懐かしいー」と呟いているのを見た時は、ああ、一緒に読んできてよかった、と心から思いました。

きっと、もっと大きくなっても覚えてくれているんじゃないかな。

そんな風に思っています。

 

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読んでほしい

春の玄関先から

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春になると、山で働く人たちからいただく贈り物がある。

それは夕方、帰宅した玄関先にどさりと置いてあることがほとんどで、かなりの不意打ちをくらう。それは保育園の年長さんくらいの子どもの背丈があり、ずしりと重い。

4月27日の夕方にもそれはやってきた。

下を向いて歩きながら、やっと辿り着いた家の玄関先。

わ!

思わず声が出て、足が止まる。さっき採ってきたばかりですよという顔で、2〜3本が並んで玄関前に鎮座しているのはなかなかの風景だ。

誰が置いてくれたかは、いっぺんでわかった。

 

晩ごはんのおかず、決まる

その時、近所に住む知り合いのおばあちゃんが通りかかった。挨拶すると、おばあちゃんは玄関先を見て「今、美味しいわよね〜、タケノコ!」と言った。

「みんなたいてい、糠を入れて炊くけど、私は水で煮ちゃうの。それでも全然大丈夫。このへんのタケノコはあくが少ないから」

「ゆがいたタケノコをすって、メリケン粉を少し足して、スプーンでぽとんと落として、お団子みたいにあげると美味しいわよ〜。カラッとして!」

 

俄然やる気が出てきた。

水で煮ればいいなんて気軽だし、ちょうど冷蔵庫の中は空っぽで、今晩のおかずは何にしようか決めかねていたのだった。

 

タケノコの「解体作業」

そうと決めたら、まずはタケノコの「解体作業」から。

タケノコはとにかく大きく、剥いだ皮は山盛り、大量。そして剥ぐときに粉のようなものが落ちる。だから外でやるのがいい。

土佐町の山の人たちは、たいてい、かまどで大きな鍋にごんごん湯を沸かし、その中にタケノコと糠を入れて茹でる。でも私はそういう環境がないので、台所のガスで炊く。

まずはタケノコに包丁を入れる。見た目は鎧のようだが、気持ちよくざっくりと包丁で切れる。切ったそばから、タケノコの香りが台所中にひろがり、今年も出会えましたねという気持ちになる。

半分に切ってぱかっと開くと、幾重もの皮に包まれていたたまご色のタケノコが姿を現す。皮から剥ぎ取るようにして、筍を鍋に入れていく。一番大きな鍋の蓋が閉まらないほどタケノコを詰めて、煮る。途中、シューシューと煮汁が溢れるので、他の仕事をしていても鍋の音に耳を傾けている。

部活から帰ってきた娘が、玄関を入って開口一番、言った。

「わ!いい匂い!タケノコ?」

 

 

 

おばあちゃんは「タケノコを擦る」と言っていたけど、何だか大変そうだったので、ゆがいたタケノコを小さく刻むことにした。米粉と卵、少し片栗粉と塩も加えて、油にぽとん、ぽとんと落としていく。

揚げているそばから、これは絶対美味しいな!と確信。やはりつまみ食いが止まらず、大皿に盛りつけたそれらは、かなり少なくなっていた。

 

小さなしあわせ

その日、東京に住む友人からメールが届いた。

「小さなしあわせ、嬉しいことが毎日ありますように!」

私のその日の「小さなしあわせ」は、タケノコだった。そのメールで初めて気がついた。

ある人が届けてくれたタケノコ。たまたま通りかかったおばあちゃんが教えてくれた作り方。友人からのメール。

それらの思いがけない出来事が、小さなしあわせを運んできてくれたのだった。

日々はさまざまな出来事で満ちている。その中にある小さなしあわせに気づく時、いつもそこに誰かの存在がある。私のエネルギーの源は「人」なのだとつくづく思う。

春の玄関先が、最近忘れがちだった大切なことを思い出させてくれた。

 

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私の一冊

鳥山百合子

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「はははのはなし」 加古里子 福音館書店

懐かしい!と声を上げる方も多いのではないでしょうか?

加古里子さんの本「はははのはなし」。

「歯は大事!虫歯にならないよう、栄養のあるものをよく食べて、運動をして、歯磨きをして、元気に大きくなろうね!」という子どもたちへのメッセージを、真面目に、ユーモアたっぷりに伝えてくれます。

「ちいさなかすが  はのまわりにのこります。こののこりかすをえさにして  ばいきんがふえます。ばいきんは  かたいはをとかす  さんをつくります。」

よく考えると恐ろしいことを、あっさりとわかりやすい言葉で伝える加古さん。この文章には、白い元気な歯がどんどん溶けて大きな穴があき、最後には半分になってしまう絵が添えられています。かなりリアルで、小さな子どもは震え上がること間違いなしです。

子どもたちにせがまれて何度も読んだこの本の一番の見せ所は、やはり最後のページ。

「こどものはは20ぽん おとなのはは32ほんあるのがふつうです。

だからこどものはは

はははははははははは

はははははははははは

おとなのはは

はははははははははははははははは

はははははははははははははははは

となりますね」

そして最後は

「それではみなさん  さようなら はっはっはっ。」

で終わります。

読んだ後の爽快感といったらありません。

加古さんが世界を見つめるまなざしはいつもあたたかく、子どもたちへの信頼に満ちている。

「おーい!子どもたち。世界は面白いよ!不思議なことでいっぱいだよ!」

そのメッセージを子どもたちはちゃんと受け止めています。子どもたちの顔を見ていたら、そのことがよくわかります。

 

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