鳥山百合子

土佐町ストーリーズ

レモンとさくらんぼとびわ

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「宅急便ですー。」

職場に小包が届いた。今まで職場に届いたことがなかったから、誰からやろう?と思いながら受け取った。
先日愛媛県に引越しをした友人からだった。

開けてみると、箱いっぱいのレモン!大きいのも小さいのもごろごろとたくさん。

わあ!これで何を作ろうか?
まずレモンピール。塩レモン。レモンチーズケーキもレモンのマフィンもいいな。
その場にいた友人たちにおすそ分けした。

 

しばらくすると、土佐町の友人から電話がかかってきた。「川田ストアにさくらんぼが届いているはずだから、寄って分けてもらってね。」
そのさくらんぼは、この前土佐町に来た山形県出身の人から送られてきたのだという。

今度はさくらんぼ!

 

川田ストアに行くとお母さんが、冷蔵庫からさくらんぼの箱を出してくれて分けてくれた。お礼にレモンをいくつかおすそ分け。

お母さんが言った。

「レモン!ちょうど買いに行こうかと思ってたところ。びわがたくさんあるから、ジャムを作ろうと思ってたの。」

びわのジャム!
私の家にも近所のおじいちゃんからいただいたびわがたくさんある。私もジャムを作ろう。

お母さんに作り方を聞いた。
「皮をむいて、中の種をとって、小さく切って、砂糖とレモンを入れる。」

 

夕ごはんの片付けの合間にジャムを作った。
レモンを半分に切って絞ると、本当にいい香り。

何度もくんくん鼻を近づけたら鼻にくっついちゃって、それからしばらくずっとレモンの香りが近くにあって何だかうれしかった。

 

ホーローの鍋にびわと砂糖とレモン汁を入れコトコト煮始めると甘ずっぱい香りでいっぱいに。

子どもたちが「いい匂いやね〜。ちょっと食べさせて」と味見。

ビンに4つ分できた。

近所のおじいちゃんにおすそ分けしよう。お友達にもあげよう。

 

なんだか全部つながっている。
めぐりめぐるおもしろさ。どの出来事も愛おしい。

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冬のある日、干し芋をつくるために房子さんと畑にある芋つぼへさつまいもを取りに行った。

後ろに組んだ手にかごをさげながら、少し背中を曲げて山道を登っていく房子さんの後ろをついていく。
坂を登りきった畑の横に芋つぼはある。大人の背丈くらいの高さのトタンの屋根の下にはかがんでやっと入れるくらいの入口があって、そこから這うように地面に潜るように芋つぼの中へと降りる。籾殻がいっぱい入っていて、動くとさくっ、さくっと音をたて、中はほんのりと暖かい。かがまないと歩けないからしゃがんで周りを見渡すと、石垣で小さく囲まれているのがわかる。まるで籾殻の詰まった秘密基地に入っているよう。この芋つぼは房子さんがお嫁にきた時からあったのだそうだ。

籾殻の中にはさつまいもが埋められていて、お芋は籾殻と土に守られ、冬の寒さでもしびずに(腐らずに)春になるまで食べられるのだ。

籾殻を手でかき分けて「ああ、あったあった。」とさつまいもを探し出し、ついている籾殻を丁寧に払いながらかごに入れていく房子さんを見ていたら、じわっと涙が出てきた。

 

こうやって、いつだって、お願いしたことを引き受けてくれる。
「あんたがやりたいようにやったらえいよ」と言って。いつだって「そうかそうか」と話を聞いてくれる。
いつだって損得関係なしに自分たちで作ったものをわけ与えてくれる。自分が身につけた知恵を伝えてくれる。

覚さんと房子さんの存在に、今までどんなに助けられ支えられてきただろう。
おふたりの、そこにその人がいるからそうするのだ、というさりげなさ。その佇まいを、いつか私も身につけることができるだろうか。私には何ができるだろうか。

 

息子が4歳頃のことだった。
日が暮れかかった頃、窓の外を見ながら、息子は、「おじいちゃんとおばあちゃんちにあかりがついたね。もう夜ごはん、食べたかなあ。」としみじみと言った。そんな風に感じていることがとてもうれしく、覚さんと房子さんにそのことを話した。すると、おふたりが言った。
「わたしらあも、同じこと思いゆう。鳥山さんちにあかりがついたなあ、って」。

同じ気持ちで、お互いの家のあかりを見つめていた。そんなこと、知らなかった。

この町に来たばかりの頃は、知っている人が誰もいなかった。そうだったはずなのに、でも今は、この地で出会った人とこんな風にお互いの家のあかりを大切に思い合えるようになれるのか。

覚さんと房子さんのその言葉を聞いて、泣いた。

世の中には本当に色々な暮らしがあって、色々な出来事も、色々な感情も、混ざり合い絡み合いながらその場所にあるのだろう。
もしできるのなら、今よりもほんの少しでもいいから、隣にいるあの人、近くにいるあの人、大切なあの人、これから出会うだろう誰かの存在を心の中でそっと思い合えたら。その人の家のあかりを大切に思い合えたら、と思う。

もし、世界中のひとりひとりの心の片隅にその思いを持てるなら、世の中というところは、きっと、やっぱりよきところなんだと信じ合えるかな。
今日も夜になったら、おじいちゃんとおばあちゃんの家にあかりが灯る。

ぽつり

ぽつり

ぽつり

 

あの人の家にも、あの人の家にも。
家々にあかりが灯っていくように、人の心にも、あたたかな、たしかなあかりが灯っていきますように。

 

上田のおじいちゃんとおばあちゃんに出会えて、私はとても幸運だった。
これからも一緒に「今」という時間を積み重ねていけたらと願っている。
出会えた奇跡に、心から感謝を。                          

                                      (終わり)

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読んでほしい

佐々井秀嶺さんのこと

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もしかしたら夢だったのかもしれないと思う時がある。

あの日の時間は、どこかふわふわとそのあたりを行ったりきたりしている。

でも、講演会が開催されたあの会場も、佐々井さんたちが宿泊されたあの家も、朝ごはんを食べたお店も、訪れた保育園も目の前にちゃんとある。

確かに感じたものが心の奥底にある。

 

夢じゃない。
確かに私はあの日、佐々井さんと同じ時間を過ごしていた。

 

2017年6月21日。

佐々井秀嶺さん講演会当日。
天気予報では、この日は何日も前から大きな雨マークがついていた。前夜は土砂降りの雨。明日も雨だろう、と頭の中で色々と段取りを考えながら眠った。

当日の朝を迎え窓を開けると、何と雲の切れ間から太陽の光が見えていた。もしかしたら天気も味方してくれたのかな、と青空をのぞかせ始めた空を見上げた。
うん、大丈夫。きっとよき日になる。
そう思った。
そしてその思いは、やっぱり現実になった。

 

2017年6月21日、16時半。

土佐町農村環境改善センターの駐車場に白いバンがとまった。
まず佐々井さんのお付きの方たちが車から降り挨拶している間に、佐々井さんがゆっくりと車から降りて来た。

 

佐々井秀嶺さん。

紫と茶色が合わさったような色の袈裟を着ている。
佐々井さんは想像していたよりもやせていた。
長旅でお疲れだったことだろう。
杖をつきながら、けれどもしっかりとした足取りで土佐町の地に立たれた。

本物だ。

本物の佐々井秀嶺さんが、土佐町に来てくれた。

 

 

佐々井さんが土佐町に到着した頃はまだ日差しが強く、佐々井さんは少しまぶしそうに目を細めていた。改善センターの周りに置かれている人の形をしたいくつかの像に気づいて「あれはなんの像ですか?」と私に聞いた。私が知っていたのは誰かの作品ということぐらいで「あれは……飾りです…。」としか答えられず恥ずかしかった。

多分インドでは「像」は大抵何かの神様だったり、人が手を合わせ祈るものであるだろうから、きっと佐々井さんは改善センターの像もそういったものだと思ったのかもしれない。

 

土佐町に来る途中は大雨だったこと、山の上から見下ろすように雲が広がっていてとても美しいと思ったこと、関東地方は大雨で避難した人もいるということを佐々井さんは話した。

この時、まだ私は緊張の中にいてわからなかったけれど、後から振り返ると、こういった会話の中にもしっかりと佐々井さんの人柄や生きてきた道のりが現れているのだということに驚かされる。

さりげない会話の中でみせるはっとするような視線。向き合う人を見つめる時の慈しみが込められたまなざし。ふと笑った時に刻まれる深いしわ。一歩一歩をゆっくりと踏みしめるように歩く音。
その瞬間のその人がつくりだす空気の感じは、多分その人が思っているよりも、人の心の奥底に語りかけてくるようなものを持っている。

それは佐々井さんだったから、なのだろうか。

 

 

佐々井さんは「少し横になりたい」と言った。
お布団を用意していなかったので、慌てて畳の部屋に座布団を6枚ひいて即席の布団を作った。佐々井さんは気持ち良さそうに横になっていた。

講演会のお話の中でも「先ほど畳の上で寝て、子どもの頃のことや故郷を思い出して涙が出ました」と言っていた。きっと本当に気持ちがよいと感じてくれたのだと思う。

 

そっと襖を閉める。
本当に遠いところから、よくぞ来てくださったなあ…という思いで胸がいっぱいだった。

 

佐々井さんが休んでいる間、佐々井さんのお供をされている佐伯さん、小林さん、亀井さんと打ち合わせをしたり、資料をクリアファイルに入れたり準備をした。
会場作り、音響チェック、看板を立てる、食器の準備、会場確認、マイクの確認、原稿の確認、お花を活ける、カメラやビデオのチェック、受付作り、電話対応…。とにかく当日やることも、この日を迎えるまでにやってきたことも山のようにあった。

 

今回の滞在で佐々井さんが何よりも喜んでくださったのは、このお食事だった。
土佐町の仙田聡美さんが作ってくれた夕ごはん。

【メニュー】
・鮎の塩焼き
鮎は土佐町の澤田しのぶさんが、佐々井さんに食べていただきたいと届けてくれた。
大皿の上に扇を描くように並べられた鮎の塩焼きの下には、びわの葉が3枚、美しく扇状に並べられていた
・ナスのたたき
素揚げした米なすに大根をおろし、新玉ねぎと紫の紫蘇をのせ、
かつおぶしと聡美さんの友人の醤油屋さんのポン酢をかけたもの
ポテトサラダ
私が和田農園さんからおすそ分けしてもらったじゃがいもを、さらに聡美さんにおすそ分け。
インゲンは聡美さんの連れ合いさんが仕事先のお客さまに分けてもらったもの
・きゅうりの梅和え
たたいたきゅうりに聡美さんが作った自家製梅干しとごま油を和えたもの
・ごはん
もちろん土佐町のお米
・お味噌汁
聡美さんのお子さんのお友達のおばあちゃんが作ったレタス、しめじ、えのきを具に、
お味噌は聡美さんの隣の家の友人が作ったものをおすそ分けしてもらったもの
・びわ
聡美さんの連れ合いさんが仕事先のお客さまから分けてもらったもの
・お茶
こちらも土佐町産。土佐町老人クラブのみなさんが土佐町南川でお茶摘みをして作ったもの

 

佐々井さんはひとつひとつの料理を「これは何ですか?」と聞き、その答えに頷きながら「真心のこもったお食事をいただいて心から感謝します」と言った。

聡美さんの作ったお食事は、自分で作った野菜や保存食、近所の人やお友達のお家のおばあちゃん、仕事場のお客さまからのおすそ分けがたくさん使われていた。

ナスを素揚げしたり、庭の紫蘇を摘んで刻んだり、そういった一見小さなひと手間を大切にする聡美さんだったからこそ、食材を分けてくれた人の思いも生かされた。

多分、土佐町の家々の毎日の食卓には必ずと言っていいほど、誰かからのおすそ分けやいただきものが登場するのではないだろうか。この町で暮らしていると、知らず知らずのうちに誰かとどこかでつながっていく。このお食事にもたくさんの人の存在があった。そのことを佐々井さんはしっかりと感じ取っていたのだと思う。

 

講演中に客席に向かって「鮎をくれた方はこの中にいますか?(お食事を)心を込めて作ってくれたんですよ。こんなところはありませんよ。土佐町というところはあたたかい。生涯において忘れ得ぬところとなりました。本当にありがたいと思っています。」とその思いを伝えてくれた。
(食卓にお箸を並べた時、お付きの亀井さんが「素敵な箸置きですね」と気づいてくれたこともとても嬉しかった。四つ葉のクローバー、うさぎ、そら豆、小さな魚の形をした箸置き。割り箸よりも木の塗り箸がいいと思った。お家で過ごすみたいに。)

佐々井さんは食べる前に目を閉じ、手を合わせ、祈りの言葉を唱えた。
そして「仏飯(ぶっぱん)をいただきます」と言い、食事を始めた。
取り皿に鮎をのせ、子どもの頃、鮎は贅沢な魚であったこと、故郷の川で遊んだことを懐かしそうに教えてくれた。

 

食べることは、生きること。

心のこもった食事は人に力を与える。
子ども時代の思い出を語る佐々井さんの表情はとてもやさしく穏やかだった。

食べることは、人と人を近づける。

「インド仏教徒1億人の指導者」は、美味しい美味しいと鮎を頭から食べ、作ってくれた人への深い感謝の気持ちを伝える「佐々井秀嶺さん」だった。

 

気持ちを込めたら、その人にちゃんと届く。その人の心の奥深いところにある何かにきっと、届く。
この夕ごはんを喜んでくれている佐々井さんの姿を見ていたら、今までぼんやりと感じていたそのことは、確かな気持ちとなった。

 

 

こつ、こつ、こつ。

 

壇上への階段を登る、杖の音が響く。

 

こつ、こつ、こつ。

 

佐々井さんは壇上へ立ち、ゆっくりと正面を向いた。
お腹のそこから響くような声。

 

「みなさま、こんばんは」

 

佐々井さんは合掌し、頭を下げた。
拍手が起こった。

会場は満席、立っている人もいた。

遠く愛知県や兵庫県、高知県内でも宿毛市や土佐清水市から来てくれた人、もちろん土佐町をはじめ嶺北の人たちもたくさん来てくれた。
佐々井さんを迎える拍手はとてもあたたかく、心にしみた。

 

「戦争が終わる頃は、日本が一番大変なときだった。日本中が焼け野原になった時に、食べ物がない、貧富に耐え、悩み、悶え、生き抜いてきた人生でした。インドに渡っても貧しい貧しいインドの民衆の姿を見て、同じ人間として、同じ心を持つものとして、一緒に共に、悩み、苦しみ、悶え、泣きながらインドで生きる道を選びました。」

佐々井さんの声や姿から伝わってくるものを一体どんな言葉で表したらよいのだろう。
悩み、苦しみ、悶え、泣きながら、佐々井さんが選んで来た道のり。その道は今までも、これからも、ずっと続いていくだろう。命がある限り。

佐々井さんが選んだ道。
ひとりひとりが選択する道。
私は、どんな道を選ぶのか。

 

佐々井さんはマイクを手に取り客席に向かって「質問をお願いします!」と大きな声で言った。直接話をしたいという気持ちがひしひしと伝わってきた。

質問の中にこういったものがあった。「佐々井さんの心の軸、心の真ん中にあるものはどんなものですか?」

佐々井さんはこう答えた。
「同体大悲(どうたいだいひ)。みなさんと私の体はひとつである。苦しみも悲しみも、みなひとつである。インド仏教徒は貧しい人ばかりです。日本の比ではありません。虐げられたり、辱められたり、そういう人たちと共に在りたい。これが大乗仏教の極点です。」

そして、最後の一言はこういう言葉だった。

「みなさま、本日は本当にうれしいと思います。土佐町に来ることができて非常に嬉しく思いました。畳の上に寝かせてもらったこと、小さい時のお父さんとお母さんの愛情に恵まれて生きた時代を思い出しました。ごはんを作った人のお名前も、鮎をくださった人のお名前も聞きました。私は涙が出るほどうれしくなったんです。
土佐町のみなさま、本当にありがとうございます。南天笠の沙門、秀嶺、謹んで本当に心より、厚く厚く御礼申し上げます。どうかみなさま、お体を大切に。
そして、平和という目標に向かって、自己を飾らずに、人のために、世のために生きようではありませんか。みなさまと共にお話できたことを、私は一生の最大の喜びとさせていただきます。ありがとうございました。」

あたたかい大きな拍手で会場が包まれた。

佐々井さんは、人と向き合うことをとにかく大切にする人だった。高いところから人を見下ろすなんていうことは、一度もなかった。

いつも、いつも、隣に。
いつも、いつも、同じ土の上に。
インド仏教徒1億人の指導者である佐々井秀嶺さんは、そういう人だった。

 

 

 

宿泊先では果物を用意していた。

やまもも、小夏、すもも。
そして、土佐町溜井地区にある和田農園さんのミニトマト。

佐々井さんは果物が大好きだとのことで、とても喜んでくれた。

次の日の朝お迎えに行くと「果物もトマトもとても美味しかった。車の中で食べるからいただいてもいいですか」と残ったものも袋に入れて持って帰ってくれた。

そんな佐々井さんの姿がとてもうれしかった。

 

土佐町の「カフェかのん」で朝ごはんをいただいている時、夕ごはんを作ってくれた聡美さんが仕事へ行く前に駆けつけてくれた。
佐々井さんは「本当にうれしかったですよ。感激しました」と手を合わせ頭を下げた。聡美さんも佐々井さんも本当に嬉しそうだった。
直接会って話をすることはかけがえのないことだ、とふたりの姿を見てしみじみと思った。

 

急に思い立って立ち寄ったみつば保育園では、佐々井さんはすぐに子どもたちに取り囲まれた。
「どっから来たが?」
素朴な質問を投げかける子どもたちを、にこにこと愛情あるまなざしで見つめていた。

背中に風呂敷マントをつけている子、作ったブロックの剣を佐々井さんに見せている子。興味津々で近くに走り寄ってくる子、お部屋の中からちょっと遠慮気味に見つめている子…。本当に色々な子がいる。
いろんな人がいて、いろんな考えがあって、いろんな生き方がある。
この時のみつば保育園の廊下で、「世の中」という縮図と、人が出会う喜びのエネルギーを目の前で見せてもらった。

佐々井さんは子どもたちとの出会いを心から楽しみ、喜んでいた。

 

さよなら。

さよなら。

子どもたちひとりひとりの頭にそっと手を当てながら語りかける佐々井さんの姿を見ていたら、胸がいっぱいになった。

インドという地から、よくぞ来てくださった。

世界の片隅の土佐町という場所で、81歳の佐々井さんの人生と、土佐町の人たちの人生が重なった。重なったから、出会えた。
今まで全くお互いの存在を知らずに生きてきたのに、その瞬間に人生が重なる不思議と尊さを思った。

 

 

佐々井さんが夕ごはんを食べている時、部屋のカーテンをふっと優しく揺らすような風が入ってきた。
佐々井さんは、この風のことを「農村の風」と言った。

農村の風。

この言葉は、私の体の中にしみわたっていった。
土佐町という地に、農村の風が吹いている。

新緑の季節に木漏れ日を揺らす風。
水の入った田んぼに植えられたばかりの小さな稲を優しくなびかせる風。
きらきらと光を揺らしながら。
美しいと思ってきた光景には、「農村の風」が吹いていたのだ。

佐々井さんはこの風に吹かれたことを、とてもうれしかったですよ、と言った。
故郷を思い出した、と。

 

佐々井さんと過ごした時間を私はずっと忘れないだろう。
あと何十年かしておばあちゃんになっても、きっと忘れない。
きっと100年経っても、私の心のこの場所に置かれている。これから生きていく道のりの途中で、これから何度も私の背中をそっと押してくれるだろう。

気持ちが届く喜びをあたらめて知った。そのことを何よりしあわせに感じる自分自身の心に気づいた。佐々井さんと過ごした時間は、かけがえのないものだった。

 

最後に佐々井さんからいただいた言葉を。

「土佐町には、気持ちのよい風が吹いている。人と人がつながっていることを感じる。そんな風に感じた町は、今までそんなになかったですよ。」

 

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房子さんは私の師匠である。そして「ともだち」でもある。
仕事帰りに顔を見に行った時のことだったか、それとも何かの作り方を教えてもらった時のことだったか、私のことを「あんたぁは、私のともだちやきねえ」と肩をばしばしたたいて言ってくれた時は心の底からうれしかった。
今までにいくつもの季節の手仕事を教えてもらった。「教えてください」とお願いすると「いつでもえいよ。あんたぁの好きな時においで」と言ってくれる。
干し大根、干し芋、梅干し、イタドリの保存の仕方、たけのこのゆで方、藁ない(わらない)、お正月のしめ縄作り…。いつもその季節のやるべきことをひとつひとつ積み重ねている房子さんの姿は、いつも大切な何かを、忘れてはいけないだろう何かを思い出させてくれる。

夕方家にいくと、房子さんが今日どんな仕事をしたのかがわかる。
冬には軒下に大根が干されていたり、えびらにきれいに並べられた干し芋が太陽の光をあびていたり…。
春には外のかまどでたけのこをゆでる香りがしてきたり、ぜんまいがむしろの上に干されていたり…。
その風景は季節によってさまざまで本当に美しい。
四季があるということは素晴らしいことだとますます思えるようになったのは、房子さんの暮らしを近くで見て学んだことが大きい。

房子さんの手は魔法のように、わらを役立つ暮らしの道具に変える。
「手に勝る道具なし」という言葉があるが、房子さんの手を見ていたらその言葉の意味がよくわかる。
ある時は大根を干すための縄、干し柿を干すための縄、お正月のしめ縄やわらじ…。
お米を収穫した後のわらがこんな美しいものに生まれかわるなんて、本当にびっくりした。

しゃっ

しゃっ

しゃっ

両方の手のひらでわらをこすり合わせるように、親指の付け根にぐっと力も入れながら、手で包み込むように上へ上へ、と綯って(なって)いく。

しゃっ

しゃっ

しゃっ

房子さんがわらを綯う姿を見ていたら、房子さんがこどもの頃、お母さんの隣に座って同じようにしていただろう姿や、今までずっとこのことをやり続けてきた房子さんの今までの歴史が見えるような気持ちがする。静かでありながら力強い。積み重ねてきたことはきっと、ひとつの強さでもあるのだ。

毎年冬が近づいて来ると一緒に藁ないをする。私は房子さんの足元にも及ばない。でも房子さんはいつも「あんたぁも、なかなか上手になってきたねえ。」とほめてくれる。

 

いつも私は房子さんの手をじっと見る。房子さんの手のこの在りかたを、ずっと忘れないように。
いつでもこれからも、その手の動きが心のなかで描けるように。

 

山で採ってきたたけのこを、かまどで「ごんごん炊く」。その言い方も教えてもらった。たけのこを茹でる時には米ぬかを入れるのだが、米ぬかはさらしで作った小さな袋に入れて茹でたら後で洗う時に楽、ということも教えてもらった。ゆでたたけのこは干したり塩漬けにしたり、一年中食べられるように保存する。そのやり方も教わった。

 

すえ娘が生まれる前、私は大きなお腹をかかえて房子さんのところへよく遊びに行き、たわいのないおしゃべりをしながらその時の季節の仕事を教えてもらった。

もうすぐ生まれるという頃、帰り際に房子さんが「無事にうまれるように、毎日こうやって祈りよります。」とちょっとおどけて言った時はふたりで笑い、そんな風に笑い合えることが本当にうれしかった。

 

房子さんにもお子さんがいる。
お子さんがまだ赤ちゃんだった頃、家に赤ちゃんをひとり置いて山へ仕事に行かなければならなかったことがとても辛かったのだそうだ。
「お昼に家に帰ってくると、寝かせていたはずの赤ちゃんは泣いて泣いて布団から出てしまっていて、足が冷たくなっていて…近所の人が布団をかけ直したりしてくれていた」と何度も何度も繰り返して房子さんは話した。房子さんがそのことを話すたびに涙ぐんでいる姿は、胸がつまった。

「あんた、きっと毎日忙しくて大変だと思うけんど、でもね、今がいちばんいいときよ」房子さんが話してくれた時があった。
それは、すえ娘が生まれて少したった頃だったと思う。
私は娘が生まれる直前まで仕事をしていて、仕事がとても好きだった。
家でゆっくり過ごすことは憧れでもあって、したいことでもあったけれど、でも実際はなんだか取り残されてしまったような気持ちもして、毎日こどもだけと向き合う日々はなかなかしんどいものがあった。
そう房子さんに言われた時、本当かな…と思った。わかるような気もした。
でも、やっぱりため息をつきたくなる時も、どうしていいかわからなくなる時もあって、そんな時は房子さんが言ってくれた言葉を思い出す。

「今がいちばんいいときよ」。

もっと時間がたって「今」を振り返る時が来たら、こどもが幼い時はほんの一時だったのだ、という真実をしみじみと感じるのだろう。それは想像できるし本当にそうなんだと思う。
房子さんがこどもたちの名前を呼ぶ声やこどもたちを見つめる眼差しは、いつも私を初心に帰らせてくれる。

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土佐町で初めての冬を迎えていたある日、家に向かって一台の軽トラックが走ってきた。
誰かな?と思いながら迎えると、覚さんだった。軽トラックの荷台にどっさりくぬぎの木が積まれていた。
覚さんは軽トラから降りると言った。「これでしいたけの駒打ちをしなさいよ」。

しいたけを育ててみたいと思ってはいたけれど、原木の用意ができなかったし、育てるということへ向かう気持ちがまだ持てていなかった。
毎日を過ごすことに精一杯で、とにかく何に対しても余裕がなかった時だった。今思えばもしかしたらおふたりは、そのことさえもわかっていたのかもしれない。

そのおかげでその年のしいたけの駒打ちをすることができ、あれから5年たった今でも、その時期になるとしいたけが生えてくる。この季節にはこの仕事をするのだよ、とあの時さりげなく伝えてくれていたんだと後から気づいた時、何とも言えない気持ちで胸がいっぱいになった。

覚さんが軽トラックで原木を運んできてくれた時の風景が、今も私の心の奥底に静かにちゃんとあって、そっと背中を支えてもらっているようなそんな気持ちになる。

覚さんはたけのこ採りの名人だ。毎年春になると「たけのこを採りに来や」といつも声をかけてくれる。
覚さんは、たけのこを掘るための鍬を持っている。鍬を肩にかつぎ、地下足袋でざくっ、ざくっ、と山を歩く覚さんは山師だっただけあって、しっかりした足取りで揺るぎがない。

地面からたけのこが頭の先を出しているかどうか、土を踏みしめた感触を一歩一歩、確かめながら歩く。足の裏で「たけのこの感触」を見つけたら、たけのこの根元に斜めから鍬をぐっ、ぐっ、と2回ほど入れ、自分の手前に倒す。ばきばきばきという気持ちのいい音がして、たけのこが収穫できる。

覚さんに「ゆう、やってみるかえ」と鍬を渡され何度かやっていくうちに、息子は一人前にたけのこを取れるようになった。覚さんは、息子が鍬を入れる姿をそばで見守ってくれていた。一度体で覚えたことは忘れないのか、次の年も覚さんとたけのこを採りに行った時、息子は当たり前のようにその鍬を使っていた。そしてその時も覚さんはそばでにこにこと見ていてくれた。

息子はこれからもずっと、たけのこをどうやってとるのか、どの鍬を使ったらいいのかちゃんとわかる。生きていく知恵にはきっとこういうことも含まれる。自分の体で知っているか知らないかの差は、大げさかもしれないが、もしかしたら世の中の見え方や、自分自身の生き方をも変えてしまうようなことかもしれないと私は思う。

 

息子は覚さんが大好きで、学校から帰ってきたらランドセルを放り投げ、自転車に飛び乗って覚さんのところへ行く。
ある日、覚さんが田んぼの横で薪を作っていた時に、そこへ行って何やらいろいろとおしゃべりをしてきたようで帰ってくるなり、「鷹がいたよ!おじいちゃんは鷹を呼び寄せるために、田んぼに魚を入れてた。とんびは体が茶色いけど、鷹は体の横に白い模様がある!」
こちらが、へえ!と思うようなことを教えてもらってくる。

 

覚さんの軽トラックが畑にとまっているのが見えたら、おじいちゃんはあそこにいるんだということがわかる。だから息子は畑へ行く。小屋の煙突から煙があがっていたら、おじいちゃんは小屋の中でストーブにあたっているんだとわかる。だから息子は小屋へ行く。
息子はいつから「おじいちゃんがいる目印」を自分で見つけるようになったのだろう。

息子が覚さんと一緒にいて何を話しているのか私にはわからない。息子は覚さんの家に行ってテレビで「水戸黄門」を見せてもらっている時もあるし、一緒にストーブにあたっていることもあるし、夕ごはんをいただいてきたこともあった。

春は一緒にたけのこを採る。
梅雨に入る前、おじいちゃんのお家の庭にあるビワを採る。畑のそばにある梅を採る。
夏には、おじいちゃんが家の前にある池にすいかをぷかぷかと浮かべて冷やしてくれて、すいかわり。
秋は山へ栗ひろい。おじいちゃんが、長い竹でいがを叩いて落とすのを下で待ち構える。柚子を採る。
軒下にぶら下がっているおばあちゃんが作った干し柿を取ってくれるのもおじいちゃん。干し柿を下げているわらで綯った(なった)ひもを鎌で切って、それごと渡してくれる。
冬は小屋へ行って、焼き芋をごちそうになったり、しし汁をいたただいたり。
いつもいつもその季節の楽しみを教えてくれる。

息子は自分の体にしみこませるように、覚さんから大切なことを教えてもらっているのだと思う。
大切なこと。
それはきっと、人間として大切なこと。
人と話す楽しさや、人と一緒に過ごす喜び。いつでも迎えてくれて受けとめてくれる揺るがない安心感…。

息子が大きくなった時に小さかった頃の思い出を聞かれたら、きっとおじいちゃんと過ごした日々が心に浮かぶだろう。
「ゆう」とおじいちゃんが名前を呼ぶ声がきこえるだろう。
めぐりめぐっていくゆたかな四季のなかで大好きなおじいちゃんと過ごした時間は、息子の心の原風景をつくり、それはきっとこれからの息子の人生をずっと支え続ける揺るがない土台になるのだと思う。

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薄紅色だった空は刻一刻と色を変えていく。
棚田を目の前に眺めながら友人と話をしているうちに、山の向こうへと太陽が沈んでいった。
墨で色をつけたような山々と、その上にいつのまにかぼんやりと黄金色になっていた空の層を挟み、上空の藍色の空では一番星が輝く。
隣に座っている友人の表情がかろうじてわかる。もうそのくらい、夜を迎えつつある。

向かいの山道を通る車のライトが時々ぴかぴかと光るのが見える。
不思議と目の前に見えている水の張った田んぼは銀色のまま、鏡のように光っている。昼間浴びた光を水の中に蓄えているのだろうか。

山と空が色を変えてゆく夕方と夜の間、人は家にあかりを灯し始める。

ぽつん

ぽつん

ぽつん

山の家にひとつ、またひとつとあかりが灯っていく。
あのあかりのしたに、人の暮らしがある。

私が暮らしている土佐町の相川地区。
私にとって大切なかけがえのない人が住んでいる。

上田覚さん、房子さん。
覚さん82歳。房子さん83歳。私が生きた年月の倍以上を生きている。親しみを込めて上田のおじいちゃん、おばあちゃんと呼んでいる。
おふたりが土佐町のこの場所にいてくれたからこそ、私にとって土佐町での暮らしが真の意味でゆたかでかけがえのないものになっている。

私の家と覚さんと房子さんの家は、直線でいったら200mくらい離れていてちょうど向かい合うように建っている。お互いの家が見えるから、覚さんの軽トラックがとまっているなあ、とか、小屋の軒下に玉ねぎがぶら下がっているからもう収穫が終わったんやなあと毎日何かしら気づくことがある。
多分それはおふたりも一緒で、きっと我が家の方を見ながら、どうしているかなと思ってくれているだろう。

覚さんと房子さんは、田んぼではお米を、畑では季節の野菜を育て、庭にはびわやいちぢく、梅や柚子、栗や梨、柿の木を植えている。
山からはきれいな湧き水が流れてくる。今はもう飲み水としては使っていないそうだが、鯉がいる池にたえまなく流し、収穫した野菜を洗ったりする。房子さん曰く「じびじびと」湧いている水は、冬は湯気が上がるほど温かく、夏は冷たいのだそうだ。「どうしてでしょうね?」と聞いたら「ん?昔からそうよ。」と房子さん。理由なんてきっとないのだろう。自然は全くうまくできている。

外には手作りのかまどがあって、春はたけのこ、秋はさつまいもを茹でる。薪は覚さんが斧で割り、よく乾くようにきれいに積み上げてある。薪は何年分あるだろうと思うくらいたくさんあるけれど、覚さんはいつも秋になると来年の薪を作り始め、その傍で小さな火を炊き木の皮を燃やす。おふたりの田んぼの脇から煙が上がっているのが見えると、覚さんがあそこで仕事をしているんだなとわかる。

家の横にある小屋にはだるまストーブが据え付けてあって、小屋の煙突から煙が上がり始めると「今年もまた冬がやって来たのだ」という実感を運んでくる。そのストーブにあたりにおふたりの友達がやって来て、井戸端会議をしながらしし汁を炊いたりお芋を焼いている。
「食べや」と差し出してくれたお芋を半分にわってみると中は黄金色。ほかほかとあがるゆげまでが美味しそうに見えて、今まで私は一体何本のさつまいもをお腹に収めただろう。

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土佐町ストーリーズ

桜蘂

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5月のある日、今日の夕ごはんのおかずの一品にと近所の産直市で買った切り干し大根を水につけて出かけた。しばらくしてから帰ってくると、切り干し大根はふっくらと水を含んでボウルからはみ出しそうになっていた。

その時、ボウルの中に赤むらさき色をした細い茎のようなものがいくつも一緒に入っていることに気づいた。

何かな?と、切り干し大根を指先でかき分けながらよく見てみると、その細い茎の先には小さな花のようなものがついていた。

 

ああ、そうやったのか。
これは、いつも桜が散った後に落ちてくる。

新緑の季節から桜の季節へと、頭の中が一気に巻き戻された。

 

この大根は冬に作られたものではなく春大根で、春の太陽の下で干されたものやった。
きっとこの大根を干した場所のそばには桜の木があったんや。
春の光のなかで風に吹かれながら桜の花びらがちらちらと散り落ちた場所に、千切りされた大根が干されている情景が目の前に見えるようだった。

 

調べてみると、そのものにはちゃんと名前があった。

「桜蘂(さくらしべ)」。

桜の花が散ったあと、萼(がく)に残った蘂(しべ)が散って落ちることを「桜蘂降る(さくらしべふる)」というのだそうだ。俳句の季語にもなっていた。
桜の花が散ったあとに葉桜の季節が始まると思っていたが、その間にもうひとつ「桜蘂降る」季節があったのだ。

 

この切り干し大根を作った人に会いたい。
もしその人に会えたら、言いたいことがある。

ひとつ目。「あなたが作った切り干し大根はとても美味しかったです。」

ふたつ目。「あなたの家のそばに桜の木はありますか?」

 

 

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土佐町ストーリーズ

ぽん太

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夜、電話がかかってきた。
電話は土佐町黒丸に住む仁井田さんからで「金曜日にパンを焼くけど今回はどうする?」
パンの注文の確認だった。
前回と同じくるみレーズンパンと、楽しみにしていたアップルパイがあると言うからそれもお願いした。

 

その時、私は外のベランダで電話をしていた。
電話口の向こうで仁井田さんが言った。

「犬の声がするね。犬がいるの?」
うちで飼っている犬のぽん太が、何か獣の気配を感じたのだろう、暗闇に向かってわんわん!と吠えていて、その声が電話の向こうまで聞こえたのだ。

「何年くらい前から飼ってるの?」と聞かれ、「4年前かな・・。土佐町に住んでいた氏次さんというお友達の犬に赤ちゃんが生まれた時、分けてもらったんです」と言うと、「え!じゃあ、ぽん太はうちの犬と親戚や!」とびっくりした声が聞こえてきた。

「氏次くんの犬、ゆらは、うちの犬のこどもなんよ。ゆらのお母さんの『じり』は今、僕の足元にいてあっためてくれてるよ。お父さんの『ムッチー』は、去年死んじゃった。じりとムッチーには2匹こどもがいて、そのうちの1匹がゆら、もう1匹がそら」。

 

ゆらは、ぽん太のお母さん。
つまり、仁井田さんのところの「じり」は、ぽん太のおばあちゃんなのだった。

「そらは今、どこにいるんですか?」と聞くと、「そらも、今、僕の足元に寝そべっているよ」と教えてくれた。

「そら」はぽん太のおばさん。
ぽん太のおばあちゃんとおばさんは、同じ土佐町にいたのだ!

仁井田さんと私はある意味、4年前から「親戚関係」だったのだ。
ぽん太の鳴き声が、今まで知ることのなかった家族を見つけた。

 

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