彼岸花が田のあぜや道端の空き地を、赤いじゅうたんのように彩っているのを見ると、いつも一人の婆さんを思い出す。70年以上も前になるのに、その表情まではっきり覚えている。
西石原の我が家の隣が、婆さんの家であった。私が小学生の頃にはもう70歳以上で、同じぐらいの年齢の爺さんと二人で住んでいた。みんな婆さんを「お勇ばあさん」と呼んでいた。子どもたちも「おゆうばあちゃん」と呼んだ。本名は坂本勇(ゆう)さんである。
そのお勇ばあちゃんが時々、彼岸花の球根で作った団子を持ってきてくれた。
最初に見た時は、白くてうまそうだと思いかぶりついたが、味と言えるものは全くなく実にそっけないものであった。持て余している私を見た祖母が、
「これをつけて食べてみ」
と、しょうゆに砂糖を入れて持ってきてくれたので、それをつけると、なんとか食べられた。
「彼岸花の根は、ふだんは食べん。大事な飢饉食じゃきに」
やっと食べ終えた私に、祖母が言った。私には初めて知ることだった。
彼岸花には毒があって、そのまま食べることはできない。食べるには相当な手間と時間をかけて毒抜きをしなければならないが、難しくて自分には出来ない。このあたりでそれが出来るのは、お勇ばあさんぐらいだろう。
祖母はそういうことを言ったあと、
「昔は飢饉が多かったきに、彼岸花の団子も大切な非常食じゃった。それで、田のあぜとか、畑の岸とか、余った土地にいっぱい植えてあるんよ」
と説明してくれた。
この話に興味が湧いて、私はすぐ隣に行き、祖母から聞いたことをお勇ばあちゃんに話した。
「そうよね。昔は米がとれん時に、これを食べたそうよ」
お勇ばあちゃんは、彼岸花団子をのせた皿を手に持って、若い頃の思い出を話してくれた。
「母親に聞いたんよ」
娘の頃、飢饉食としての彼岸花団子の作り方を教えてくれたという。球根をとって谷川の水にさらし、それをゆでて、またさらし、毒抜きをする。そうしてすり鉢ですって、団子にするというのである。谷川でさらす時間を体得するのに何年もかかったとか。
「今は大きな飢饉もないので、これを作れる人も居らん。けんど万一の時を考えたら、忘れたらいかん。そう思うて、今も時々作ってみるんよ」
あちこちに見える彼岸花に目をやりながら、お勇ばあちゃんは笑みを浮かべていた。
田舎では彼岸花をシレエ(死霊)と呼んでいる。広辞苑によるとカミソリバナ、シビトバナ、トウロウバナ、マンジュシャゲ、捨子花、天蓋花という異名がある。
飢饉の時の非常食であったことが、このいくつかの異名からもうかがえるようだ。