土佐町ストーリーズ

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本当にあった怖い話

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南越(みなごし)トンネルは、土佐町役場方面から、早明浦ダム湖周辺に向けて抜けているトンネルです。

トンネルといえば、怖いイメージがつきものですが、南越トンネルも例にもれず「あのトンネルは怖い」という噂があります。

祖母も「私が若い頃は、一人であそこをよう歩かんかった。一人で歩きよったら何かがついてくるんじゃ」と言っていました。

 

そんな南越トンネル付近の怖い話を、最近聞きました。

それは、私の書いた「家の主」という記事を読んだ町長が話してくれたものです。

 

「何年か前ににゃあ、『オンビキ(ヒキガエル)がようけおるき、何とかしてくれんか』ゆうて言われて、南越トンネルの辺に行ったらにゃあ」

 

「オンビキが100匹ばぁ、ゴゾゴゾ這いよってにゃあ」

 

「側溝にもみっしり詰まっちょった」

 

「何とかしてくれと言われても何ともできなぁー、殺すのも気持ち悪いし!!」

 

 

ぎゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

今後、南越トンネル付近を通るたびに、背筋がゾクゾクしそうです。

 

 

 

 

 

・『家の主』の記事はこちら!

家の主

 

 

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千体流し

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みなさんは、千体流しを知っていますか?

8月15日のお盆の日、お寺で法要があり、お地蔵さまの絵像の描かれた千枚の紙をいただきます。

それを川に持って行き、『おんかかかびさんまえいそわか』と唱えながら一枚一枚川に流すのです。

この『おんかかかびさんまえいそわか』というのはお地蔵さまの真言だそうです。

千体流しは、子どもの頃からずっと、お盆の我が家の恒例行事でした。

JA土佐れいほくの前に『フタマタ』という川へ下りる細い道があって、そこから川へ下りて千体流しをします。

私が最後に千体流しをしたのは、もう10年以上も前ですが、千体流しに行くたびに祖母や母が『お盆の日には、地獄の釜の蓋が開くき川で絶対に泳いだらいかん』と言っていたのをよく覚えています。

裸足で川に入って千体流しをしていたので、川の水の冷たさと、地獄の釜の蓋が開いて引きずり込まれるイメージとで背中がゾクゾクしたものです。

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早明浦と言う地名について(早明浦)

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日本歴史の中でも、源氏と平家の勢力争いは、最も有名で深刻なものでありました。

屋島の戦い、壇の浦の決戦などは、皆様のよくご承知のことであります。

それ以来、全国至る所で、両勢力の闘争がくり返されたものでありました。

 

ある平家の残党(生き残った仲間)が、源氏の兵どもに追われて、吉野川をさかのぼりつつ、この地まで落ちのびて来た時の話であります。

源氏の兵どもは、それを追って、鳥越峠(現在のさめうら荘の近く)を越えて逃げて行く平家の残党を、今夜中に、ここで一気に全滅させようと、勇みに勇んで、この峠に立ちましたが、幸か不幸か夜は白々と明け始めていました。

この時、峠に立って、西の方を眺めると、あたりは一面の雲海で海を思わせる風景であったのでしょう。そこで、源氏の大将は峠に立ちはだかり、

「えれ、残念、早や夜が明けたか。」

と地だんだふんで残念がったということであります。

平家の残党は、夜明けを幸い、落ちのびることができました。

こういう伝説が、いつか早や明けの浦となり、早明浦となったということであります。

 

澤田南海男(館報)ー「土佐町の民話」より

 

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りんご

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土佐町に来て驚いたことがある。それは桃園とりんご園があること。

桃といえば岡山。りんごといえば長野や青森。
単純にそう思っていた私には衝撃的であり、嬉しいことの一つだった。
調べてみると、佐川町にもりんご園があるみたい。それもびっくり。

りんごといえば、初めてのひとり旅に私は長野県を選んだ。
京都の短大を卒業した後、同じ短大の専攻科に進級した1年生の秋に
大阪梅田のバスターミナルから長野行きのバスに乗って、上高地へ行った。
なんで長野県だったのか理由は忘れたけどその旅は学校を辞めようか悩んでいた、いわば傷心(?)の旅だった。

上高地へ向かう私鉄の車窓から目に飛び込んで来たのは、真っ赤なりんごがたくさんなった木。
その電車はりんご畑の中を通っている電車だった。
(はっきりは覚えてないので本当かどうかは今になっては不明・・・)

「りんごが木になっちゅう!!」

当たり前だけど、お店でしかりんごの姿を見たことがなく、
木に果物がなるといえば高知では柑橘類、あとは道々にある柿やびわくらいしか見たことなかったので、
それはそれは嬉しかった。りんごの良心市があるのも驚いた。

 

土佐町に来た時、りんご園があると知って、私は真っ先にその学生時代の悩んだ時期のこと、
りんごが木になっているのをみて嬉しかったことを思い出した。
りんごのように甘酸っぱい思い出。

 


りんごの季節になると、土佐町のりんご園のりんごが近くの道の駅や産直市に並ぶ。
その光景も高知では珍しく、薄赤いりんごが並ぶのはほんの一瞬の土佐町の味。
爽やかな秋風と同じように、土佐町のりんごは爽やかな酸味と甘味。
生ではシャキシャキとした食感が気持ちいいけれど、少しの水と一緒に似て煮りんごも甘みが増して美味しい。

 

うちの3歳の子は離乳食時期、生のりんごは食べなかったけど煮りんごはよく食べた。
じっくり火を通して、焼きりんごもいいな。
同じ時期に採れるサツマイモやジャガイモと合わせてポテトサラダにも。
ホクホクとシャキシャキを一緒に楽しめるおかずの一品にもなります。


ジャガイモとりんごのサラダ
材料:
りんご・ジャガイモ・(あれば)パセリ・塩・こしょう
オリーブオイルまたはマヨネーズ

作り方:
茹でたジャガイモを塊が残るくらい軽くつぶし、いちょう切りにしたりんご、みじん切りにしたパセリと合わせる。
塩こしょうと少しのオリーブオイルで味を整える。マヨネーズの場合はマヨネーズの味が出過ぎないように少なめに。
そうするとりんごとジャガイモの美味しさが際立ちます!

 

胃腸の虚弱を強くしてくれるジャガイモとりんごの組み合わせ。
夏に冷たいものを取りすぎたりして胃腸を弱くしている人にはオススメです。
特にこれからは乾燥も気になる季節。
今が旬の梨もそうですが、りんごも体の渇きを潤してくれます。
ぜひ普段のポテトサラダに、旬のりんごを入れてみてください。

りんごは体を温めも冷やしもしない「平」という性質。
冷蔵庫で冷やしたりせず常温で食べるのがポイントです。

胃腸の不調を整えたり、消化吸収が良いので便秘を改善。
下痢や吐き下しに良いとされています。
子供の時、熱が出たらりんごを食べさせてもらったりしませんでした?
「一日一個のりんごで医者いらず」よく言ったものでした。
特に皮には胃腸の働きを良くしたり、コレステロール値を下げるペクチンが豊富に含まれているので、
皮も食べると効果的!
イライラした時リラックスしたい時に食べたり、甘酸っぱい香りを楽しむだけでも心を落ち着かせてくれます。

りんご園のりんごを見た時、学生の頃を思い出して心がほっこりした気分になったのも、
りんごの持つ薬効だったのかもしれないですね。

 

 

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家の主

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彼女は大抵、雨上がりにひょっこり現れる。

去年亡くなった姑が、生前よく彼女についてこう言っていた。

「私がここへお嫁に来た頃からずーっとおるがやき」

「草を引きよったら、じーっと横で見よったがね」

「この家の主よ」

 

 

大先輩なのだが、彼女が現れるたびに私は挨拶するどころか

悲鳴をあげてしまう。

 

そんな彼女はヒキガエル。

 

デカい。

15cmくらいある。

私は“超デカい!!”と思っているのだが、この辺ではこれくらい普通なのだろうか。

 

その図体の割に動きは素早い。

一瞬目を離すと、遠くへ移動している。

あれがジャンプして飛び掛かってきたら・・・と思うと背筋がゾンゾンする。

なので、いつも刺激しないように気配を殺して通り過ぎる。

 

私と子ども達はこのヒキガエルが現れるたびに

『おばあちゃんの友達が出たー!!』

と大騒ぎする。

 

私がおばあちゃんになってもいるだろうか。

 

 

 

 

 

 

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芥川岡林家

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芥川、黒丸の岡林家は、藩主山内家の一族で、山内家の裏紋の白一黒一が家紋だという。

山内家は武家でおれんようになるので早く山奥に行った方がいい、ゆうて、吾川郡吾北村(現在のいの町)の清水に来て、
それから芥川に居を構えた。

芥川には”芥川の三軒家”ゆうて、筒井姓二つと岡林姓一つがあったが、岡林しげおさんの家が本家じゃった。

今は面影の無うなったその家には,

女人禁制の”武士の間”、万一の切腹の時の”入らずの間”などがあった。

本家の主人の健在なうちは先祖祭りもしていたが、岡林家の名刀一振は神社に納めているという。

土佐町史p883

 

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12モンキーズ (土居)

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十二所権現

 

入蔵にある小祠で、今はその所在を知る者も数少ない。

その昔、十二匹の猿が出没し、人畜喰い尽くしてあと一家を残すのみとなった時、
通りかかった猟師が連れていた十二の猟犬でこれを喰い殺した。

その猿の死体を川に流した。

それは吉野川を流れ、その漂着したところ十二所権現として祀ったというのである。

それよりこの村では猿を見ると忌むのであるが、この十二所権現もその一つである。

現在は十二所神社とよばれており、
古老の中には土居地区の産土神は宮古野の白髪神社であるが、本来の産土神はこの十二所神社であると伝える者もある。

地区の人たちだけでなく、怪我のせぬように守護し給う神様ということで
大工や杣など林業に従事する人々の信仰にも篤いものがあった。

もち米の粉で作った団子十二個と灯明十二本を供え祀るしきたりがある。

 

土佐町史p906(一部略)

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白髪神社

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白髪神社は土佐町宮古野地区にあり、周りが田んぼの中、その場所だけ木に囲まれるようにして静かに建っています。
その白髪神社のお話です。

 

白髪神社信仰は、高知県下でも吉野川上流にのみみられるものである。

土佐町宮古野、大川村大藪、本川村(現在いの町)桑瀬、いの町長沢、いの町越裏門、いの町寺川、本山町沢柿内で
「産土神」として鎮座している。

越裏門、寺川あたりでは「本川女に森男」という俚諺がある。

これは本川郷1)かつて本川村から東隣の大川村を含む一帯を本川郷と呼んだの美女、森郷2)現在の土佐町の美男子という意である。

本川郷にまだ白髪神社を勧請3)神仏の分霊を他の場所に移しまつることしていないころの話である。

土佐町宮古野白髪神社の祭りには、老若男女の氏子たちが本川郷からもはるばる何時間も歩いて出掛けていた。

ところが本川女は祭りの準備やら、籠り人の食事の煮炊きなどばかりさせられ、
森の男たちは上座に威儀を正していい格好で座ってばかりいる。

そこで本川女も「時にはわしらも上座に座らせよ」と言うと、
森男は「そんな伊賀ばき(昔の田舎びた服装)の者を座らせるわけにはいかぬ」という。

さすがの本川美女もこれには腹を立て、
竃(かまど)の石を取って「氏神様もついてごさっしゃれ」と言って越裏門、寺川に帰ってしまった。

その竃の石を祀り始めたのがこのあたりの白髪神社であるという。

ところが持ってきた石に、森の白髪神社の御神霊が本当に憑いてきていて、
森の方では神様がお留守になったと大騒ぎになった。

そこで森男から本川女に詫び状が入って、本川から神霊がお帰りになったという。

森から石を奪ってきた日が戌亥(いぬい)(=乾(いぬい))であったから、越裏門は十一月戌、寺川は亥の日を祭日としたとか、
白髪様の祭りを乾祭りというのだと言い伝えて、戌亥信仰4)戌亥は北西の方位を指す。怨霊や魑魅魍魎などの災いが出入りする方角であるとして忌むべき方角としている。この方位を鎮めると、家運が永久に栄え、子孫が繁昌するとされ、神棚や神社を設けて信仰されていたが見られる。

 

土佐町史839p

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References   [ + ]

1. かつて本川村から東隣の大川村を含む一帯を本川郷と呼んだ
2. 現在の土佐町
3. 神仏の分霊を他の場所に移しまつること
4. 戌亥は北西の方位を指す。怨霊や魑魅魍魎などの災いが出入りする方角であるとして忌むべき方角としている。この方位を鎮めると、家運が永久に栄え、子孫が繁昌するとされ、神棚や神社を設けて信仰されていた
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晴天の霹靂

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私が住んでいる地区では4月と6月と9月に『道つくり』があります。

地区の人達が協力して、草刈りや側溝の掃除をするのです。

 

9月の道つくりの前日、小学校6年生の息子が急に

「明日の道つくり、手伝いたい」

と言ったのです。

 

私が何回も何回もお願いして、やっと重い腰をあげて洗濯物を取り込むあの息子が!

皿洗いを頼むと舌打ちをしながらしぶしぶ皿を洗うあの息子が!

手伝いをしないとゲームさせないよ!!といつも怒られるあの息子(以下略)

 

一時の気の迷いかとも思ったけれど、当日息子は早起きをして父ちゃんと道つくりへ。

草刈り機を扱えるわけでもないので、集会所の草引きをまかされたのだけれど

やり遂げて、地区の人達と一緒に昼ご飯を食べて帰ってきた息子を見て

誇らしい気持ちになりました。

 

少子高齢化で、道つくりの人員がいないという声がチラホラ各所で聞かれる今日この頃。

まだまだ幼いと思っていた息子も、頼れるようになる日が・・・来るのかな?

文:和田亜美 絵:川原将太

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ラバウル

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澤田千恵野さん(昭和2年生まれ。91歳)の話

私は6人兄弟で兄がひとりおって、兄は海軍に志願をして入ったがですよ。

戦争終わっても行方不明でわからんきね、生きているとは思われんとみんなで思ってました。

もう戦死したつもりでおったのがね、

終戦になって2年くらいしてから、兄がぽっかり帰ってきてね。

突然ふらっと帰ってきて、夢のようだった。

もうびっくりして。父と母も喜んで。

まあ、みんなでほんと、うれし泣き。

 

兄はラバウルへ行っていてね。

海軍でしたき、船に乗っておって、やられてね、敵に。

そして一昼夜泳いだいうて。

泳いでラバウルの島へついて、そしてあちこちしてるうちに帰ってきたがですわ。

ラバウルでマラリアになって、こちらに帰ってきた時、うんと熱が高かって、元気に仕事するようにはならんと言ってね。

熱が高いとビクンッ、ビクンッ、って震えるがですよ。それを私や妹で体を抑えてね。

最後は元気になって、女の子が5人生まれて、孫もそれぞれたくさんできてね。

 

戦争が終わって、ラバウルから帰ってくるまでに2年かかったのよ。

つくりごとではない本当にあったこと。

もっといろいろ話しておかんといけないことがあると思うんですけどね。

 

 

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