(2024年5月27日追記:潔さんは現在98歳。この連載を開始したのが95歳の時だったので、題名はそのままとしています。)
錦を飾るはずの故郷へ
土佐郡森村へ帰ったのでした。10年前、土佐町の相川を出てからの哀れな帰郷でした。
病母、赤ちゃんの妹、家族七人、村の避病院でしばらくお世話になりました。
母方の叔父が炭を焼いている和田ケ谷の山小屋へ、病気の母の住む小屋を作り、布団一枚家族の着替え一枚もない中、親戚、友人、大勢の皆様のお情けで、何とか一日一日を過ごせる様になったものの、小学六年生の弟は勉強中止でかわいそうでした。叔父夫婦も通っていましたが、私達一家の収入源にと、炭焼き一年生で始めたのでした。
親戚から貰い集めた古い斧、鋸で怪我は絶えず、アンマ膏代りに糊木の皮を張り、体格の良い妹に負けじと頑張り、暦の無い日を送ったのでした。
環境が良かったのか、母も元気で、家族皆のくつろぎでした。
一日一日を元気でと願っていた矢先、思いもよらぬことが。
山の地主から「結核菌は三十年は地の中で生きているから、今すぐ出て行け」。
なんということか。
不自由な中でも、一日一日を何とか「ガンバッテ」と思ったのに、目の前に突然黒幕が…。母がどんなに辛いか。
でも、捨てる神あれば、拾う神あり。「山奥で良ければ」と声をかけてくれる人がいて、又々人のお世話になり、今までより遠いけれど、二つ小屋を作り、移ったのでした。
植林雑木で、昼でも暗い様な所でした。下の道路からは今までの倍も遠くて、森の農協から配給米を負って帰るのに妹と苦労しました。途中で休めば日が暮れるので、帰り着くと背中の皮がはげて痛かった。
そうした辛抱が、その後の忍耐へと強くなったと思うのです。
*避病院…法定伝染病の患者を隔離・収容していた伝染病院のこと