お坊さんだけあって、仁海さんは神社仏閣の造りや歴史に関してとても博覧強記です。髙峯神社をとても特別な場所と思っているとさちょうものがたり編集部にとって、仁海さんのその視点からのお話はとても勉強になりました。
仁海さんがお帰りになられたその後、改めて編集部から仁海さんにある依頼をしました。「もう一度取材のために現地を訪れてほしい」「その経験を文章にして町内外に伝えてほしい」‥‥快諾してくれた仁海さんは6月末に土佐町を再訪してくれました。
これは、仁海さん2度に渡る髙峯神社訪問の手記であります。
土佐町の大神様 髙峯神社 後編
文:渡部仁海
前編はこちら
6月末再び土佐町を訪れ、髙峯神社の宮司を務めておられた宮元先生や世話人さん達と共に、車3台を連ねて再び髙峯神社へのガレ道を進んでいきました。
参道までの道すがら車内で宮元先生や世話人さんに髙峯神社の成り立ちや祀られている御祭神などについて色々とお話を伺いました。
まず神社が最初に建立されたのは今より1600年余りも昔のことで、御祭神は山の神である大山祇神(オオヤマツミノカミ)をはじめ、古事記にも記されている食べ物や産業の神様「豊受大御神(とようけのおおみかみ)」や竈の神様など、山で暮らす人々にとっていずれも身近な神様であります。
現代社会のように流通が発達しているわけでもなく、ほんの少しの自然の力によって自分たちの命を支える作物が失われてしまう古い時代に生きた人々にとっては、食や自然を司る神仏に関する畏敬の念は相当なものであったであろうことは想像に難くありません。
道中かつての参道が残っているという場所を走り、現存する町石(ちょういし:参拝者の為に一町ごとに置かれた道標)も見せていただきました。
「是従(是より)三宝山へ〇丁」と刻まれております。
先に述べた扁額の「三寶山(三宝山)」という名前の山が近隣に見当たらないことから、三宝とは竈の神である、三宝荒神のものではないかなと推測しています。
こうした道標も参拝者が少ない寺社には不必要なものであることから、往時は多くの参拝者で賑わっていたことを示す貴重な資料です。
やがて私達一行は神社の参道入り口に辿り着き、豊かな苔の参道を歩いていきました。
当初よそ者扱いされないかと一抹の不安があったものの、有り難いことに「若い人がこの神社に興味を持ってくれている」と皆さん好意的で、参道の途中でみんなで記念撮影となりました。
ささやかですが、自分が興味を持った場所にこうして少しでも足跡が残るというのは嬉しいものです。
『ああ、都市部を中心に信仰が形だけのものになりつつあるけれど、ここには神社を中心とした昔ながらの人の輪が残されているんだなぁ。』と一宗教家として感慨深いものがありました。
さて、参道沿いには数々の石灯籠がありますが、その中に一つ前回訪れた際に気になっていた、これまた他ではまず無い面白いものがあります。
通常神社仏閣の石灯籠は実際に灯すかどうかは別として、参道や境内を照らす明かりとして設置されることが多いのですが、ここの石塔の一つはそうした用途のものではなく、ポーズも凝った大きな鷹の像が飾られています。
初めて見るものでしたから、解説してくれる人が居なかったら何かとんでもなく恐ろしいモノでも封じ込めてるのかと勘違いしそうな程造り込まれたものです。
(実際強い生き物や伝説の人物等をお祀りすることで災いを避けようという意味合いの物を置いてある神社もあります)
宮司の宮元先生のお話によるとこの辺りは雑穀、特に豆類が育ちにくかったらしく、それらを荒らすスズメやネズミを捕食する鷹を神格化したものではないでしょうか。
これだけでも一見の価値ありです。
樹齢が200年は越えているという巨木を眺めながらさらに参道を進み、縁起物の象徴である鶴と蓑亀が彫られた屋根をくぐり、いよいよ前回は入ることができなかった拝殿の中へと進みます。
拝殿の中は至ってシンプルな空間ではありますが、かつて境内で行われていた奉納相撲の様子を描いた古い額や、往時の賑わいを思わせる神輿や古い書物など興味深く拝見しました。
中にひと際大きな額があり、描かれている絵は経年によりだいぶ薄れてはいましたが、中心に姫神様(豊受大御神だと思われる)を中心に恵比寿様や大黒天様など七福神らしい縁起のいい神様達が描かれております。
今回も残念ながら神様がお祀りされている正殿へはカギが無かったため入ることはできませんでしたが、神様や信奉されている方々に僭越なことがあってはなりません。
ここまでなら良し、という御神意だと受け止めることにしました。
拝殿内で宮元先生や総代さん達に伺ったところでは昔は讃岐のこんぴらさんと並ぶほどの参詣者があり、麓には旅館や飲食店までもあったそうです。
「ワシらが子供の頃は夏祭りには今よりもっと夜店が出て、ここらの子は皆遊びに来とった。」
「そうそう、この下で相撲とったりもしよった。」
と思い出話を語り合う総代さん達が実に懐かしそう。
皆さんとの参拝を終え、集会所に残された古い文を読むとそうした賑やかだった頃、神社の参道、つまり山の上まで大勢の男女で重さおよそ13トンにも及ぶ巨石を手洗い石とするために引き上げたとあります。
現在この手洗い石は参道を少し下った辺りに今もあり、その脇には当時の様子が刻まれた「傳永遠(でんえいえん:永遠に伝える)」と書かれた石碑が立っております。
傳永遠
当山鎮座髙峰神社は、古来農作の守護神にして藩主の 信篤く、県内外各地に多数の崇敬者を有する格別由緒深き古社なり。
明治十年三月偶本山東麓石原川畔に好適の手洗石を発見し、これが曳き揚げ奉納の計画をたてたり。
しかるに現位置までは羊腸たる坂路三十町余りにして、しかも数千貫の巨石をただ人力のみに頼りて曳き揚ぐるは容易の業にあらざりしが、これの壮挙を伝え聞きたる遠近の崇敬者等相集まり、毎春農閑の季に熱誠曳石作業を奉仕し、わずかに五ヶ年にしてついに山の九合目までは運び揚げたるも、明治十五年にいたり諸種の故障ありてこの事業を中止せり。
しかり春風秋雨五十余年いたずらにその巨体を路傍に曝すのみにして、まことに大神に対し奉り恐懼に堪えざりき。ここにおいて昭和三年村長西村繁太郎、崇敬者と相謀り、御大典記念事業として奉献曳石完成同盟会を組織し篤志家の献金と崇敬家の協力とを得て、昭和三年十一月曳揚を終わりこの所をよき所と選び定め、据付工事を竣工し、多年の念願を成就したり。
よってその経緯を録し、永く記念せんがため石に刻してこれを建つと伝えんや。
昭和十一年十一月
選文 高知県神職会長 従七位勲八等 竹崎五朗
題書 元地方事務官 正六位勲六等 近森茂樹
勲七等 梶浦憲夫 謹書
近藤壽美 彫
*編集部注:送り仮名・旧漢字の一部を読みやすく改変しています。
羊腸の如く細く曲がりくねった山道を、人力のみで13トンもの巨石を引っ張り上げる・・・私のようなモヤシは想像しただけで気が遠のきそうですが、それほどまでに当時の人々を惹きつけた髙峯神社の御神徳にただただ恐れ入るばかりです。
現在都会にも観光地にも有名で大きく、塗り直されて社殿もきらびやかな神社はたくさんありますが、戦後の高度経済成長期における開発ラッシュや、その他時代の流れと共に鎮守の森のような本来の御神域は消えてしまったところも少なくはなく、そういった意味でも髙峯神社のような存在は貴重であります。
お金さえかければ設備も技術も豊かな現代ですから、いくらでも華やかな物は造れるでしょう。ですが物に限らず、所謂宝というものは宝箱や宝石のような、いかにもな姿であるとは限りません。見る人が見ればわかるものであったり、見る人の心が変わればその姿を現すものであったりします。
人が住めるように切り拓くだけでも大変な山奥にも関わらず、目に見えぬ神仏への敬いを忘れず守り続けてきた人々の心こそが遥かに貴いことです。
一度失われたものを再び元に戻すのは不可能に近いですが、今もなお昔の姿のまま残るこの地域の宝がいつまでもここにあって、いつかまた賑やかな姿を見せて欲しいなと願ってやみません。
地域の方々はもちろん、縁あって神様に呼ばれた方々には是非この御神域の空気を感じ取っていただきたいなと思います。
もしかすると嶺北地域でしばしばお姿を現されていた白髪の神様にお会いできるかもしれません(笑)
最後になりましたが、今回この手記をまとめるにあたってご案内頂きました、宮元先生や氏子総代の皆さん、地域の方々に深く御礼申し上げます。
書いた人 渡部仁海 わたなべじんかい
1974年 愛媛県生まれ。地元公立高校卒業後、高野山大学密教学科へ入学。家はお寺ではないものの、在学中に加行(修行)を受けて僧侶となる。会社員生活を経た後、現在お寺を持たず僧侶として活動している。