昭和11年生まれの高橋千枝さん。生まれは汗見川の上流の七戸という集落だそうです。
24歳の時に南川の方とご結婚され、26歳で田井へ移ったということです。
「ご結婚はいつ頃ですか?」 という質問に、
「24歳の2月14日です」とさらっと答えられたのが印象的でした。
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土佐町の現在の人口です。(2017年6月末時点・土佐町公式サイトによる)
注:土佐町の総人口が3,997人(2017年4月末時点)から4,001人(6月末時点)に増加したことに伴い、当プロジェクト名も「4,001プロジェクト」に変更になりました。
“4,001プロジェクト”は土佐町に住む人々を、全員もれなく、写真家の石川拓也が撮影する計画。
念のため書いておくと、「全員もれなく」…あくまで目標です。
土佐町の人口の増減によって、タイトルもたまに変わります。 (敬称略・撮れたときに不定期更新)
初開催出来たのは、2014年の8月になります。
小学生にとっては夏休みの間になりますので、2泊3日の日程で開催する事が出来ます。
参加してくれた子供達のお父さんやお母さんもスタッフとして三日間手伝っていただいて、無事に開催することが出来ました。
主催者である自分自身も心配事はありますが、初開催のイベントに参加させる保護者の方達も心配だったと思います。
このイベントを始めたいと強い想いをずっと語っていた事を覚えてくれていて、第一回目から現在も協力してくれている大豊町にある、みどりの時計台の野田夫婦には本当に感謝しています。
みどりの時計台は旧川口小学校の校舎を再利用して宿泊施設となっているので、校舎は広く多くの子供たちが宿泊する事が出来ます。旧校舎の隣には体育館が併設しているので、子供達と触れ合うには申し分ない環境となっています。
ここで子供達は顔合わせして、チーム編成からのアイスブレイクとなるレクリエーションも体育館を使って行う事ができます。
体育館がある事で、増水でラフティングが出来なくなった時や雷雨の時は体育館で他に用意しておいたアクティビティを行う事が出来ます。
みどりの時計台の由美さんには初日のラフティングのガイド、2日目午前中のクライミング指導、2日目午後のカヌーの指導、3日目最終日のトレイルランニングの伴走と最強な協力者として三日間フルに協力していただいております。
本当に感謝、感謝です。
さて、 レイホク・ゴロワーズとは…⁉︎
第一回目は、2014年8月に嶺北4町村の自然環境やスポーツ施設を利用して、嶺北4町村の子供達を対象にスタートしました。
レイホク・ゴロワーズと、言われてもどんな大会か⁉︎
中身はどんなモノになっているのか⁉︎
なかなかイメージが湧かないと思いますので、ちょっと詳しく語りたいと思います。
つづく
とさちょうものがたり編集部の鳥山が、2023年春より、高知新聞の「閑人調」というコラムに寄稿させていただいています。
このコラムには数人の執筆者がおり、月曜日から土曜日まで毎日掲載。月初めにその月の執筆者の氏名が掲載され、コラム自体には執筆者のペンネームが文章の最後に記されます。
鳥山のペンネームは「風」。月に2回ほど掲載されます。
今年3月に滞在したブータンでは青、白、赤、緑、黄色の5色の旗をあちこちで見かけた。公用語のゾンカ語で「ルンタ」と呼ばれる旗には経文が書かれており、寺院や山の中で、万国旗のように風に揺れていた。
ルンタは「風の馬」という意味で、経文と共に馬の絵が描かれている。各色には意味があり、青は空、白は雲、赤は火、緑は水、黄は土。これらは生きるために必要な五つの要素で、自分や家族の健康と幸せを願う祈りが込められていると知り、驚いた。土佐町にも5色の旗があるからだ。
毎年6月、土佐町の各地では伝統行事の虫送りが行われる。虫送りは稲に虫がつかないよう豊作を祈る行事で、5色の色紙をつなげて作った「五色の旗(ごしきのはた)」を竹に結びつけ、田のあぜに立てる地域がある。
「赤は太陽、黄は月、青は火、緑は水、黒は大地。この五つが調和し、豊かな実りを得られるようにという願いが込められているのですよ」。宮司さんがそう教えてくれた。
五色は、仏教において如来の精神や知恵を表すと聞いたことがある。旗を揺らす風の向こうに、ブータンと日本のつながりを感じた。その土地で生き、祈る人たちの姿が見えるようだった。
(風)
2024年6月5日の高知新聞に掲載されたコラム「閑人調」です。
毎年6月に土佐町で行われる伝統行事、虫送り。今年も町内各地で行われました。
太鼓や鐘の音が響く中、子どもや大人が「サイトウベットウサイノボリ イネノムシャ ニシイケ」と唱えながら地域の中を練り歩きました。
土佐町の宮古野地区では虫送りの際に、田んぼのあぜに「五色の旗」を立てます。五色にはそれぞれ意味があることを、白髪神社の第41代目の宮司である宮元千郷さんが教えてくれました。
その五色の旗ととてもよく似た旗をブータンで目にした時はとても驚きました。
遠く離れたブータンの地と、今自分が暮らす町がつながっている。その感覚はなんとも不思議でありながら、とても心地よいものでした。
前田典子さん、昭和10年宇佐生まれ宇佐育ち。ご両親は宇佐で薬局を営んでいたそうです。薬剤師のお父様は戦争に出征し、その後をお母様が引き継ぎ経営していたそうです。
22才で土佐町石原出身のご主人と高知市で結婚され、長らく市内で製材所を営んでいらっしゃったということです。
その後ご主人の故郷である石原へ移り、以来30年石原にお住まいです。
この年代の方々とお話ししていると、当たり前ですが人生に深く影響している戦争の影を感じます。
大変な時代だった、と笑顔でお話しされる方々が多いのですが、ある日突然「出征しなさい」と自身に、または愛する家族や友人に、命令が届く。
そんな当時の過酷な現実は今ではお話を聞いて想像する以外ないのですが、お話を聞けば聞くほど、少しずつ現実的に捉えられるようになると思います。
十一年前の母屋改修について、今さらながらの思い出話を少し。
もともと台所は土間だったが、長年の使用で土が削れたり凹んでいたりして全体的に痛んでいた。そこで、コンクリートを使った新しい土間に作り替えようということになった。しかし、そんな大掛かりな作業は僕にとって初めてで、どこから手をつければいいのかさっぱりわからなかった。
幸い、別の改修作業を頼んでいた友人の陣さんが力を貸してくれた。彼は香川県で廃材を使って家を建ててしまったツワモノで、「廃材建築」の達人だ。彼の指示とアイデアのおかげで、作業はぐいぐいと進んだ。
まず土の上に砕石を敷き、水平を出す。地域の石屋さんからもらった石や墓石の切れ端を嵩ましとして使い、さらにコンクリートを流し込む。レベラーで水平をチェックしながら、左官鏝(さかんごて)で床面を整える。このようにして、新しい土間が完成した。
台所の床を土間にしたいと希望したのは奥さんだった。その最大の利点は「床が汚れても気にならない」こと。食べ物を床にまけようが、田畑から戻ってきた僕が泥だらけの長靴で歩こうが、土間ならそんなに気にならない(気にならないぶん、掃除の回数が減ってゴミは溜まっていくのだが)。
掃除も外箒でさっと履き出せるし、水で汚れを一気に洗い流すこともできる。ただし、表面が磨かれた墓石は濡れると滑りやすいので、雨の日などには注意が必要だ、ということがのちに判明する。
いろいろと改善点はあるものの、いまでは土間無しの生活は考えられない。靴を脱がずに食事が取れたり、ストーブで暖が取れるこの場所は、毎日のように野良作業や外での仕事がある僕らの暮らしにぴったりだ。ただ、土間に慣れていないゲストが靴下や素足で歩いて足の裏が真っ黒になるので、その度に説明が必要だけど。
日本家屋の素晴らしさにはいつも感心する。日本の気候や地域の環境にぴったりと合った造りは、住めば住むほどその利点がわかってくる。
改修から十一年、あの日土間を作ってよかったなあと、今でもしみじみ感じている。
写真に写っているのは、陣さん。
僕が彼と知り合って以来、いつも影響を受けている。超かっこいい生き方。
YouTubeもやってるので、気になった方は「廃材天国」で検索してみて。
高知県は嶺北地域にある土佐町で、A-TEAMというグループ名で地域おこし活動を仕事の傍ら行なっております。A-TEAMリーダーの谷泰久と申します。
もうかれこれ地域おこし活動を始めて24年ほど経ちました。
人生の半分をA-TEAMとして活動してきた事になるんですよね。
あまりの時の流れの早さに怖さを感じます(笑)
今回このような場をお借りして、A-TEAMの活動を発表出来る事を嬉しく思います。
ありがとうございます。
ここでは今まで行ってきたイベントの中で、開催する事が私の夢でもあり目標でもあった、子供を対象としたキッズアドベンチャーレース、「レイホク・ゴロワーズ」について書いていこうと思います。
宜しくお願い致します。
それは私がまだ広島県にあるスポーツ指導者を育成する専門学校に通っていた10代の頃にさかのぼります。
あの時たまたま手にした雑誌の記事で知ったあまり聞き慣れないアドベンチャーレース、という競技
その名を 「レイド・ゴロワーズ」。
雑誌の写真を見るだけでゾクゾク、ワクワクするような写真がたくさん載っていました。
アドベンチャーレース⁉︎という競技は聞き慣れない名前の競技ですので簡単に説明しますね。
スタートとゴールは決まっているんですが、ルートは決まっておらず、決められたチェックポイントを確実に通過していき、チェックポイントに置いてあるスタンプを押したり、パンチで穴を開けてチェックポイントを通過した証拠を残しながら早くゴールを目指すレース競技。
ルートが決まっていないので、地図やコンパスを使ってルートが合っているかを確認しながら最短ルートを探し、安全に走破出来るのか、をチームで話し合いながら進んで行きます。
その中で行う競技はカヤック、トレイルランニング、ラフティング、マウンテンバイク、クライミング、SUPなどを行っていきます。場所によって競技が変わっていくこともアドベンチャーレースの面白いところだと感じました。
またアドベンチャーレースの面白いルールが、チームとして四人一組で離れず共に行動する事、チームには女性が必ず一人以上入る事など大変厳しい状態の中、助け合いながら早くゴールを目指すレースになっている事。
判断力、体力、知力、経験値など人間の持っている感覚をフルに活用しながら協力し助け合わなければゴールすら出来ない事。
そういったところに着目し、
「いつの日か自分の故郷である土佐町に帰って、嶺北の子供達を集めて子供版で開催出来るぞ!大会名はレイド・ゴロワーズからレイホク・ゴロワーズへとユーモアのあるモノに変更して子供達が厳しくも安全に様々な事にチャレンジしながら手を取り合い協力して進んで行けるイベントへ」と
長年心の中で思い描き、頭の中で構想を練って気持を高ぶらせておりました。
そしてイベントに参加して経験する事で
「子供達の心と身体の成長に必ず繋がる」
「嶺北や土佐町としての地域の財産にもなる」と
様々なアクティビティを体験するイベントとなれば、そう簡単に開催できる訳ではありません。
また、参加対象が子供達となると安全面を徹底的に注意しておかなければなりません。そんな責任感の必要なイベントを数日間共に活動をしてくれる頼もしいスタッフや仲間が必要となります。
そんな事も全て頭の中で組み立てていかないと簡単に目標は達成出来ません。 地元に帰ってA-TEAMを結成してからヤンマーディーゼルのように、大きな物から小さな物まで🎵様々なイベントを行なってきましたが、多くのアクティビティを体験するキッズアドベンチャーレースはそれらとは違ってまったくの別物になります。
Uターンしてすぐの頃から友人や知り合った仲間に熱くこの想いを語り、将来的にキッズアドベンチャーレース、
「レイホク・ゴロワーズを開催したいんだ!」
という話をして、理解のある協力者を求めてきました。
つづく
昨年のNHK朝ドラ「らんまん」で一躍有名になった花の一つがマルバマンネングサ(丸葉万年草)でした。
牧野富太郎がロシアの植物学者マキシモヴィッチに標本を送り、新種と認められて、学名がSedum makinoi Maxim(※セダム・マキノイ・マキシム)とつけられました。
牧野は、自分の名前を学名につけてもらって大喜びしたというエピソードが残っています。
1888年(明治21年)のことです。
そのマルバマンネングサが土佐町で咲き始めました。
マンネングサはベンケイソウ科の多肉植物です。
水分の少ない場所でも平気で育ち、厚みのある葉はいかにも堂々としていて万年でも生きていられるような雰囲気の草です。
マルバマンネングサはその名前のように葉に丸みがあります。
翌1889年には、牧野は大久保三郎と連名で日本人として初めて独力でヤマトグサ(大和草)に学名をつけ、これを皮切りに日本人が次々と新種を発表するようになりました。
日本の植物学史上最も画期的な出来事です。
その2年後の1891年には、牧野はコモチマンネングサ(子持ち万年草)にも学名を命名し新種として発表しています。
一見マルバマンネングサに似ていますが、葉の脇に小さなムカゴをつけるところが異なります。ムカゴは地に落ちて発芽し、これが和名の由来となったものです。
「らんまん」効果で新たに出現したマンネングサもあります。
オノマンネングサ(雄の万年草)です。
土佐町地蔵寺の民家の石垣にずい分以前から在ったみたいですが、確認されることのないまま過ぎていました。
昨年6月に放映された「らんまん・マルバマンネングサ」の後、土地の所有者が石垣のマンネングサを思い出しました。
「あれ?」
「マルバマンネングサとはちょっと違う」
「何だろう」
そんな経過から明らかになったのです。
オノマンネングサは比較的珍しい植物で、土佐町でその生育が確認されたのは初めてのことだと思います。
草丈10~30㎝の大形のマンネングサで葉が3個輪生します。
名前は別種のメノマンネングサ(雌の万年草)に対比したものです。
3輪生の葉のマンネングサは他にも1種あります。
ツルマンネングサ(蔓万年草)といって、葉が特徴的な楕円形をしていて披針形の葉のオノマンネングサとの違いはすぐに見分けられます。
花をつけない茎は蔓のようになって地を這います。
東アジア原産の外来種です。
原産地不明の外来種も咲いています。
オカタイトゴメ(陸大唐米)という名前のマンネングサの仲間です。
「マンネングサ」というよりも「セダム」と言った方が似合いそうで、持ち帰って鉢植えにしたいような雰囲気の草です。
葉は長さがわずか3㎜ほどしかなく、米粒のような形をしています。
「オカ」は海浜地域に多い別種のタイトゴメに対する内陸を意味しており、「タイトゴメ」は米粒のような葉を外米(長粒米)に見立てたものだそうです。
因みに数あるマンネングサの仲間の中で一番早くに咲いて、何処にでもあって、賑やかな黄色で誰の目にも留まるメキシコマンネングサは、今はもう花の時期を終えています。
※セダム・マキノイ・マキシム
マキシモヴィッチが牧野富太郎に敬意を表して学名にその名を織り込んだもの
属名:セダム(セダム属=マンネングサ属
種名:マキノイ(牧野富太郎を表す
命名者名:マキシム(マキシモヴィッチのこと
歴史の授業で、生徒に好きな時代を挙げさせると、必ず出てくるのが幕末だ。坂本龍馬や中浜万次郎の名はみんなが知っている。だが、私の授業では、超有名人の彼らの話はそこそこに、自分の先祖の話を取り入れるのが常だった。
幕末の土佐藩は公武合体派(1)だったが、土壇場で倒幕に舵を切った。そして、それを軍事的に可能にしたのが板垣退助だった。板垣は、土佐藩の誇る西洋式歩兵大隊を編成し、戊辰戦争では迅衝隊(じんしょうたい)の司令として部隊を率いた。
実は私の縁戚に当たる人物が板垣の部下だったらしく、その名を野本平吉直繁(のもとへいきちなおしげ)という。二番小隊の小隊長で、「従軍日記」を遺していた。この「日記」によれば、慶応4年(1868)、鳥羽・伏見の戦いでの会津藩兵と新選組は滅法強く、味方に多くの死傷者が出たことが記されていたらしい。必ずしも新政府軍の圧勝ではなかったのだ。(2)
同年2月14日、再編成を終えた迅衝隊は、江戸を目指して京都を立った。しかし、そのなかに平吉の姿は無かった。部隊の出発前、平吉は無断で宿舎を抜け出し、商家において金子(きんす)を借用しようとした。偶然居合わせた同僚に不正を見咎められ、逃走した挙げ句、市中で逮捕されてしまう。取り調べの結果、軍規違反の罪で斬首を命じられた。命じたのは板垣だった。(3)
板垣は軍規に厳しかった。しかし、だからこそ、戊辰戦争における土佐藩兵の規律は「薩摩・長州よりいい」と言われていた。時は流れ、自由民権運動が盛り上がっていた頃、板垣の演説会が北関東や東北地方などで盛況だったのは、案外こうしたことも背景にあったのかも?…などという話をすると、生徒たちは、私の先祖の話から板垣の人柄に思いを馳せ、歴史嫌いの生徒たちも、少しだけこの時代を身近に感じるのだった。
そう言えば、先日民具資料館で江戸時代の土地台帳をめくっていたら、土佐町内に領知(土地)を持っていた藩士の名前が見え、あるページで手が止まった。そこには何と「乾退助(板垣退助)」の名があった。
板垣退助の家は、江戸時代には「乾姓」を名乗っていた。乾家の先祖は甲斐国出身で、主人・山内一豊に従って土佐に入国している。江戸初期のことはよく分からないが、四代・正方の時には、御馬廻組頭を勤め、二百石取りの上士だった。興味深いのは、領知の内の十八石が何と現在の土佐町内にあったことだ。
ワクワクしてさらにページをめくると、今度は「野本平左衛門」(本家筋)の名が見えた。何の因果か、土佐町でも私の先祖は板垣退助と関わりがあったのだ。
まさに歴史が身近に感じられる瞬間だった。
註
(1)「公」は朝廷、「武」は江戸幕府のこと。土佐藩主・山内豊信(容堂)が徳川家に恩義を感じていたため、土佐藩は最後まで朝廷と幕府が協力して新政府をつくることを藩論としていた。
(2)迅衝隊が入京したのは、鳥羽・伏見の戦いが終わった後なので、この話は戦闘に加わった先発の藩士から聞いたことを書き留めたものとみられる。
(3)平吉の家は、元文五年(1740)年頃本家から別れた分家である。本人は品行方正、学問優秀で藩から表彰されている。山内容堂の小姓(こしょう)にも抜擢された期待の人材で、板垣の信頼も厚かった。
「歴史嫌い!知らんでも困らんし…」。26年ぶりに教壇に復帰した私に、数人の女子から容赦ないダメ出しが出た。赴任直後は少々ボケ気味だったが、これで一気にヤル気スイッチがオンになった。
言うまでもないが、「歴史嫌い」の生徒に対する特効薬はない。色々思案したが、せっかく博物館にいたのだから、オリジナルのネタを授業に取り入れることにした。指導書どおりにやってもマンネリになるだけだし、何より教えている自分が面白くない…。
「同じ武士なのに源平合戦の平氏って何でこんなに弱いが?」「源頼朝(みなもとのよりとも)には、「の」を付けるのに、織田信長には何で「の」を付けて読まんが?」「金閣寺という寺はないのに何でみんなそう呼ぶが?」「徳川家の将軍の名前に「家」が付く人と付かない人がいるのは何でやろ?」「何で?」「何で?」のシャワーを毎時間浴びせてみる。
できる限り小道具も使う。例えば、漫画「サムライ先生」や「ベルサイユのばら」の一場面を拡大して示し、主人公の置かれた状況を発表させたり、火縄銃や頭形兜(ずなりかぶと)の実物を町の民具資料館から借りてきて、各部位の形状にどんな意味があるのかを考えさせる。
班活動では、江戸時代の村絵図(土佐藩内の実物のコピー)を示し、庄屋と百姓の家の大きさを比べさせたり、村内の川に橋がかけられていない理由をまとめさせる。また、土佐藩の「参勤交代絵巻(写真)」に描かれている鷹や、袴を付けている武士といない武士などに注目させ、討論させるetc.。
こうした授業では、歴史の好き、嫌いにかかわらず大概の生徒がノってくる。教科書に答えがないからこそ面白いのだ。普段半分寝ている生徒でも、思いがけない発言をし、その日の主役になる。実は、この手法は学芸員時代の展示解説やワークショップで培ったもの。短い時間でお客の心を掴むには、初発の1分、いや10秒以内に何を投げかけるかで勝負が決まる。面白くなければ誰もいなくなってしまうのだから…。
歴史の授業に自信がなく、マンネリに悩んでいる社会科の先生方には、是非博物館のワークショップなどへの参加をお勧めしたい。すぐ使えそうな授業ネタがゴロゴロ転がっていて、楽しいこと請け合いだ。もちろん、こんな授業は毎時間できないし、やったからといってテストの平均点が上がる訳でもない。だが、確実に変化は起きる。
一年が経ったある日、冒頭で触れた女子の一人が、「せんせー、歴史最近マシになってきたで…」と笑顔で話しかけてきた。案外「歴史嫌い」の生徒ほど「歴史好き」に大化けすることがある。私は、ある意味「歴史嫌い」の生徒に鍛えられ、それが喜びにつながっていたのだとしみじみ今思う。