( 追憶のビルマ その2)
劣悪な道
野宿しながら山を進み、靴下へ入れて背嚢の中にくくりつけていた米を飯盒で炊いて、少しずつ食べた。「飯を炊く時は煙が出るき。敵の飛行機に見つかるき、飯を炊くのに苦労したぜよ」食糧はどんどんなくなっていった。
「米がない時には現地人が籾をかこんじょるがね、現地人の籾を略奪して。飯盒なんかでついて、黒米にして食べた。籾の中へバナナを隠しよるけんね、よう熟れたのがあったらちょっと失敬してご馳走になったりした」
食糧の補給はほぼ途絶えていたため、現地調達する必要があった。常にお腹が空いて、お腹が空いてたまらなかった。
「ハチクみたいな筍がよう生えちゅうがね。よく採って炊いて食べたがよ。ビルマには高知みたいな竹藪がようあったんじゃ」
マユ半島では、プチドン、モンドウ付近で戦闘が繰り返されていた。
邦美さんの所属する第三中隊は、1944年4月、アレサンヨーとモンドウの間、ゴドサラから東北の内陸に向かって2キロ地点にある「メガネ高地」をめぐり、死闘を繰り広げた。一度は制圧したメガネ高地を敵国に占領され、攻撃を再開。敵の戦車や砲撃により、兵士は次々と戦死した。
邦美さんは、中隊長から前方の集落へ侵入した敵への攻撃を命じられた。「めくらめっぽうに撃たれながら」、擲弾筒(手榴弾をより遠くに飛ばす携帯用小型火器)を打ち込んだ。
「戦友はたくさん死んだ。はじめっから負け戦で、ビルマの山の中に逃げ込んて走り回って。あるのは逃げ回った記憶ばっかりよね」
邦美さんは何度もそう言っていた。

イラワジ・デルタ駐留
1944年5月末、ハ号作戦は終了し、邦美さんは兵器係の松野賢伍長の助手になった。その後、部隊はビルマを南下し、イラワジ・デルタに駐留して海岸警備にあたることになった。ハ号作戦後の消耗し切った身体。ましてや雨季に、ドロドロにぬかるんだ山々を超えてイラワジ・デルタまでたどり着くことは、相当困難だったと想像する。
邦美さんの手記によると、1944年9月から1945年3月ごろまで駐留。ここでは割と穏やかに時間が過ぎたようだ。イラワジ・デルタ周辺はビルマの穀倉地帯。物資は豊富にあって、体力を少しずつ回復できたという。
駐留の間、邦美さんは中隊長(後の松田務大尉)と共に隊を離れ、周辺の集落や山の測量をしたり、集落に泊まったりした。象の背中に乗ったこともあった。
「遠浅の海で。網を担いで二人で引っ張ってきたら、ええ魚は網から飛び出て、雑魚がブツブツとれて。それをとって生活しよった」
別の方の手記には、海亀の卵を食べたという記述もあった。
この頃の日本の状況はというと、1944年7月、サイパン島の戦いでアメリカに敗戦。東條英機内閣はその責任を取って総辞職している。
1944年11月から、B29爆撃機による本格的な日本本土への空襲が開始。1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲では10万人を越える人が亡くなった。日本国内では敗戦の色が濃厚となっていった。
激戦地・モーチ街道
1945年3月下旬、連隊に中部ビルマのトングーへ転進の命令が届いた。ビルマ中部のトングーの治安維持と戦闘準備のための転進だった。当時、イギリス軍が戦車や航空機で来襲。日本の飛行機が飛んでくることはなかった。武器も食糧も底をつき、ビルマ中部の各地の全戦線はどこも総崩れ状態になっていた。
邦美さんは、転進の際に中隊の梱包宰領(運送荷物の管理)を命ぜられ、大隊の移送隊に加わり、中隊と離れて別行動になった。移送途中に爆撃を受け、兵器や兵服等は全て焼失、書類だけが残った。各隊1名ずつが書類を管理し、それ以外の兵は本隊を追いかけることとなった。邦美さんは本隊を追いかけ、モーチの山中で中隊の指揮班に追いついた。
邦美さんの手記によると、追いついたのは4月末か5月初め頃だという。トングーからモーチをつなぐモーチ街道で、邦美さんがいない間に、多くの兵が失われていた。邦美さんが戻ったことを、西岡准尉がとても喜んだという。
「モーチ街道が我々の一番の激戦地。敵の戦車がどんどんどんどん攻めてくる。敵が来たら慌てて逃げて、逃げて逃げて逃げ回って。山の中を這って、走って回ったわね。マラリアにやられた人、体が弱ってちゃがまった(土佐弁で「だめになる」の意)人。動きよらなかったら、そのまま置いといた。むごいものよ」
邦美さんは絞り出すように言った。
邦美さんが合流した後も、激しい戦いは続いた。
邦美さんは、この時の様子を手記に記している。
「特に私の心に残るのは5月20日、久保正彦上等兵(室戸市吉良川)が戦死した日のことだ。
その日は、日は暮れても戦闘は激しく続いていた。陣地撤退の命令がでて、指揮班前方にいる中山小隊へ、私は伝令に出された。砲弾の破片が飛び散る中を小隊の位置へ到着すると、闇の中から『おい、だれか』と声がかかった。久保上等兵だった。
取りあえず久保の壕へ入れてもらい、中山少尉のいる位置を聞き、もうこの陣地も撤退だから、お互いにいつまで生きておられるか知れんが精一杯がんばろうぜ、と話していた時、飛んで来た砲弾の破片が久保の頭へ命中した。一声うなったのが最後だった。人間一寸先は闇だと言うが、本当だ。私より元気だった久保が私の目の前で即死だった。
私も伝令の任務も果たさずに死んではまずいと思い、久保に別れを告げ壕を出て、少尉のいる方向へ向かった。中隊へ配属の重機関銃が陣地にやって来た敵戦車に向け銃身を真っ赤にして激しく撃っていた。他に火器がないので、重機がとても頼もしく思われた。」
邦美さんは中山少尉への伝令の役割を果たし、闇の中を引き返して指揮班の陣地へ戻った。中隊当番の中嶋義男上等兵(高岡郡窪川町)が一人で邦美さんの帰りを待っていてくれて、二人で指揮班の移動した方向へ追いかけた。(のちに中嶋上等兵も生還)
6月中旬頃まで激しい戦いが続いた。やがて一線を交替の部隊に申し送り、ビルマ南部のモールメン(現在のモーラミャイン)への転進が始まった。
ラングーン陥落
時を少し遡る。上記の久保上等兵が戦死する前、1945年4月末、日本軍司令部はビルマの首都であるラングーンを撤退していた。「援蒋ルート」を断ち切るというビルマ侵攻の目的は果たせず、事実上、日本軍はビルマでの戦いに敗れたのだった。なんと、ビルマ各地に残る兵士はそのままに司令部は逃げ、ラングーンを脱出。タイ国境近くのモールメンへ後退していた。
5月3日、イギリス軍はラングーンを占領し、日本軍のビルマ戦敗北が決定した。
邦美さんが何度も話していたことがあった。
「日本の飛行機はビルマの空に来ることはなかった」と。「哀れなものよ。敵に見つからないように山の中に逃げ回りよったわけよね。ビルマに着いた時からずっと逃げていた。戦うためには行ったんじゃろうけど、負け戦でとにかくビルマで逃げ回った。敵と戦う馬力なんてなかったのよね」
終戦までビルマ各地で戦いは続き、飢えやマラリアで多くの兵士が亡くなった。手榴弾で自死する者もいた。ビルマ戦では、戦闘で亡くなった人よりも餓死や病気で亡くなった人の方が多いといわれ、それが「地獄のビルマ」と呼ばれる所以でもある。
ビルマ各地に残された日本兵は、司令部がラングーンを脱出していたことを知っていたのだろうか。それを知るのは生き残った人だけ、それも戦後何十年も経ってからだったのではないだろうか。命令を下す司令部はいつも戦場から遠いところにいる。命を落とすのはいつも、地獄の戦場を自らの足で歩かざるをえない人たちだ。
マラリア
1945年6月、邦美さんはマラリアと脚気を患った。栄養失調にもなっていた。邦美さんは、その時のことをとうとうと話した。
「マラリアというのは熱が高いわけよね、42度くらいの熱が出るき、しんどうてしんどうて動けんのじゃけんど。
そうかというて途中でちゃがまったら、行方不明になって、落伍したら終わりになるけんね。歩かにゃ、和田は名誉の戦死をしたということになるけ。死にとうはないけに。部隊の動く所へはどうやってでもついていかないかん。ついていくのに苦労したわね」
「足が脚気になって、 足がむくんで膨れてしんどいけに、それこそ部隊について歩くのがうるそうてしんどうて。途中でちゃがまった兵隊は『おい、和田。休んで行こうぜや』言うて。わしは『まあ、俺はもうちっといくけに』と。途中で座り込んだ兵隊は、結局帰ってくることはなかったけんね」
「あくる日も熱が出てるんじゃきに、人より先に出て動き始めるけんど、途中でしんどうて部隊が先に追い越していくのを後からトコトコとついて歩いて。どうにか部隊が動く先へ、後ろからついて歩いた。それで生きて戻れたのよ。部隊はどこ行くやらわからん。ついて行かないといかん。とにかく生きて戻るためには、動かにゃダメだったがね」
その間もイギリス軍の航空機が毎日飛んできて、爆撃と機銃掃射が続いた。兵士は次々と戦死、行き倒れていく。7月初旬、邦美さんの体調は少し良くなってはいたが、指揮班よりかなり遅れて歩いていた。それが分れ道だった。敵機の爆弾が指揮班を直撃。松田務大尉、西岡准尉、松野賢伍長が即死。大野増恵兵長も負傷した。皆、これまで共に生き抜いてきた上官たちだった。力が抜けた。もう自分も死ぬんだと何度も諦めた。どうせ自分もビルマの土になる。しんどいけ、どうでもいいわ。もう歩けない、もう歩きたくない。
そんな時、声が聞こえた。
「おんしゃあ、ちっと気合い入れて歩かな、日本へ帰れんぞ!」
負傷した大野兵長だった。
「負傷しているのに気合いを入れてくれた。それもそうじゃ、もうちっとがんばろうかと思うて、ついて歩いた。くそー、負けたらいかん!と思うてね。 朝、一人先に出て、行きよる途中で追い越されても、後から歩いて。部隊がおるくまではついて歩かにゃ。とにかく歩け!と思って歩いた。よう、まあ、生きて戻れたものよと思う。よう頑張ったもんじゃと思うよ」
なぜ頑張れたのか、邦美さんに聞いた。
「まあ、それは、なんじゃろうねえ。一歩一歩、歌じゃないけんど『三歩進んで二歩下がる』じゃなしに、一歩でも動いて、歩いていかないかんかった」
大野兵長の気合のおかげで頑張れた。邦美さんはそう言っていた。
(追憶のビルマ その4 に続く)



