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立割 | 高橋立楓・杏月
寒波が去った後、2月の立割。
冬の終わりを感じさせるような暖かな陽射しの元、高橋立楓ちゃん・杏月ちゃんの姉妹と田んぼに繰り出しました。
まだ空気は冷たいけれど、地面からは小さな春の胎動を感じるような季節。
個人的には、まだかまだかと小春日和を待ち望みながら、繰り返し戻りくる「三寒」にがっかりする日々でもあります。
この三寒があるからこそ、もうすぐそこまで来ている春の嬉しさがひとしおでもあるのでしょうね。
分厚いコートを脱げるのももうすぐです。
著者名
記事タイトル
掲載開始日
図らずもTPP。あっちのTPPではありません。
土佐町在住の写真家、石川拓也がひと月に1枚のポストカードを作るプロジェクト。
2016年11月から始まり、たまに遅れたりもしながら、いちおう、今のところ、毎月1枚発表しています。
各ポストカードは土佐町役場の玄関と道の駅さめうらにて無料で配布しています。
ノーマン・ロックウェル カバー画集 『「サタデー・イブニング・ポスト」誌の時代』 玄光社
ドラゴンボールの祖先・ノーマン・ロックウェル
アメリカの「ふつうの人々」を、明るく躍動感のあるタッチで描き続けたノーマン・ロックウェル(Norman Rockwell、1894年2月3日 – 1978年11月8日)の画集です。
ロックウェル先生。僕の中では勝手に先生と呼んでいる画家が2人いて、そのひとりがこのロックウェル先生。もうひとりはアンリ・トゥルーズ・ロートレック先生です。2人、画風は全然違いますが、「ふつうの人々」を描き続けたという点で共通しています。
いきなり話は逸れましたが、ロックウェル先生の絵が特徴的なのはこの躍動感。人物が激しい動きをしている一瞬を、写真で撮影したかのようなピンポイントで切り取っています。これはロックウェル先生が育つ過程で写真というメディアが普及したことともちろん関係があり、当時のオールド・メディアである絵画が、台頭著しいニュー・メディアである写真を逆輸入した一例でもあります。
この画風は、(確証があるわけではないのですが)後に鳥山明に多大な影響を与え、「Dr.スランプ」「ドラゴンボール」などの作画は、元を辿ればロックウェル先生である、という説もあります。
「説もあります」という言い方にこの場は留めておきますが、鳥山明の特に一枚絵(表紙やトビラ絵など)に注目してみると、非常に納得のいく指摘であると感じています。
そういう意味でロックウェル先生は「ドラゴンボールの遠い祖先」である。らしい。かもしれない。のです。
一の谷
キンキンに冷えた12月のある夜、土佐町で最も標高の高い稲叢山のその麓に位置する一の谷。
一の谷は谷種子さんの桜(「木を植える人」)が植えられている場所でもあります。
気温はマイナス5℃、地面には凍りついて硬くなった雪、生物の気配をまったく感じることのない無音の世界。
そんな夜中にその場所を訪れる人間はほとんどいなかったし、これからもそうはいないのでしょうが、人間がいるいないに関わらず、その場所は毎日太陽が昇り、沈み、雪は降って、積もってから溶ける。
大自然の中、自分がちっぽけな存在に感じられる瞬間です。
帰り道には走るウサギを見かけました。年が変わるのももうすぐです。
「天、共に在り」 中村哲 NHK出版
「暴力と虚偽で目先の利を守る時代は自滅しようとしている。今ほど切実に、自然と人間との関係が問い直された時はなかった。決して希望なき時代ではない。大地を離れた人為の業に欺かれず、与えられた恵みを見出す努力が必要な時なのだ。」
12月17日、高知市内である映画の上映が1日限定でありました。
それは、「荒野に希望の灯をともす」(主催:ゴトゴトシネマ)。アフガニスタンで水路を作る日本人医師・中村哲さんのドキュメンタリーでした。
感想をそのまま伝えようとすると、とてもこの欄では読んでもらえないくらい冗長なものになってしまいそうなので苦渋の割愛をしますが、開始10分を過ぎたあたりから涙が止まらなくなりました。
自分は中村哲さんの持つ何に心がこれほど動かされたのか。
ひとつはその「姿」。飾り気や虚栄心や承認欲求的な力学を全く感じさせないその姿。そして机の上でそれらしいことを言っているだけの人間には身に纏うことができないであろう、身体を張った実践を根拠にした中村哲という存在の確かさ。
こうして賢しらに論評めいたことを書こうとしている自分もちょっと恥ずかしくなるくらい。なのでこれ以上わかったふうなことを書くのはやめておきます。
確かに言えるのは、その映画には、心のとても深い部分に触れてくる力があったと、僕には感じられたということ。
ネットやSNS全盛のこの世界で、責任を伴わずに賢そうに聞こえる言説が溢れるこの世界で、それでもやはり土台としてあるべきは実践であり行動であるということ。
本の紹介ではなくて映画の紹介のような文になってしまいましたが、この本はその中村哲さんが書いたもので、全編を通じて名文と言えるような文章で溢れていますが、それもまた、「文章が上手」というようなテクニック論的な意味ではなく、著者が身体を張った実践の中で獲得してきた言葉であるからこそ、実体を伴った生きた言葉と感じられることが理由なのでしょう。