田井に建つ老舗旅館「清水屋」の大女将、森ミネさん。
現在御年90歳!矍鑠としてお元気です。
清水屋旅館のことは、以前「みんなのアルバム」でも触れました。
築100年以上になるという旅館、「清水屋」という屋号はこの近くにきれいな湧き水が出ていたことに由来するという話を聞いたことがあります。
長い月日をこの旅館とともに過ごしてきたミネさん。またゆっくり昔の話を聞かせてもらいたいと思います。
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土佐町の現在の人口です。(2017年6月末時点・土佐町公式サイトによる)
注:土佐町の総人口が3,997人(2017年4月末時点)から4,001人(6月末時点)に増加したことに伴い、当プロジェクト名も「4,001プロジェクト」に変更になりました。
“4,001プロジェクト”は土佐町に住む人々を、全員もれなく、写真家の石川拓也が撮影する計画。
念のため書いておくと、「全員もれなく」…あくまで目標です。
土佐町の人口の増減によって、タイトルもたまに変わります。 (敬称略・撮れたときに不定期更新)
田井に建つ老舗旅館「清水屋」の大女将、森ミネさん。
現在御年90歳!矍鑠としてお元気です。
清水屋旅館のことは、以前「みんなのアルバム」でも触れました。
築100年以上になるという旅館、「清水屋」という屋号はこの近くにきれいな湧き水が出ていたことに由来するという話を聞いたことがあります。
長い月日をこの旅館とともに過ごしてきたミネさん。またゆっくり昔の話を聞かせてもらいたいと思います。
溜井 | 稲垣日菜美・日悠真
田植えの季節になりました。聞くところによると土佐町での田植えのピークは5月の後半。この時期の田んぼには水が入り、人が作業している姿をよく見かけます。
稲が育つ前の、鏡のような水面が山の斜面を段々に続いていく風景は、個人的に一年で最も好きな季節のものです。
斜面に作られた棚田でありながら、こうして雄大な風景でもある。溜井の農家さんたちが作ってきた風景は遠くからも人を呼ぶようで、この撮影中にも棚田を観に来られたという方々がちらほらいらっしゃいました。
この風景は地元の農家さんたちが様々に手を入れて完成しているもの。幾世代にも渡ってこの田圃を維持してきたそのお仕事には頭が下がる思いがします。
溜井の畦道を元気よく歩くのは、溜井にお住まいの稲垣日菜美ちゃんと日悠真くんの姉弟です。
「さめうらを記す」に登場していただいた濵口幸弘さん。
早明浦ダム建設当時には現在よりも下方にお家があり、現在のご自宅はその当時移ってきた場所に建っています。
幸弘さんの仕事場は「山」。
先日の記事にもあったように、その名刺には「100年の森林(もり)作りをめざす山師」と書かれています。
山のお仕事をする方々が多いのも土佐町のような町の特徴で、僕も土佐町に来て初めてお会いするような方々でした。
皆さん驚くほどなんでもできる人たちなんですよね。森林のこと、狩猟、畑、機材のメンテナンスや修理など、「そんなこと自分でできるんですか?」と思わされたことしばしばです。写真を撮影したこの日も、幸弘さんは車のタイヤ交換をされていました。
写真の奥には積まれた薪。さらに奥の作業場の中には狩猟用の罠や、林業関連の機材やらがたくさん。
その生き方・暮らし方には学ぶべきことが凝縮されているという確信があるのですが、日々の仕事に流されて実施に学ぶところまでなかなか来れていないというのが僕の実情です。
森 | 式地由衣・太功人・萌桃・彩空
森地区の青木幹勇記念館(旧森小学校)の裏手には、第2次大戦の頃の戦没者の忠霊塔が建っています。戦後間も無く建てられ、遺族会や地区の方々が草刈りなどの整備を務めてこられたそうです。
僕自身は勉強不足で知らなかったのですが、土佐町だけでもこういった忠霊塔はいくつもあって、戦時中に命を落とした方々の霊を祀っています。
大戦が終わって77年が経つ現在では、戦争を知る世代は年々少なくなっていくばかりですが、ウクライナでのことからもわかるように、戦争そのものが遠い過去のことになったわけではないと感じています。
その世代の経験を、どこまで正確に追体験できるのかはわかりませんが、想像力を働かせながら自分たちの経験として吸収していくことが大切なことなのでしょう。
少し重い話になりましたが、今回はここで春らしい写真を撮りたくて、式地さん4兄妹に菜の花の束を運んでもらいました。
「人類5000年史Ⅳ」 出口治明 ちくま新書
『「日本史」や「フランス史」などという歴史は存在しない。あるのは「人類史」というものだけだ。』これは出口治明さんの持論です。
現代の僕たちが想像するよりも遥かに、古代から世界は密に繋がっていて、お互いがお互いを影響しあって一つの歴史を織りなしている。「日本」や「フランス」などと区切って理解できるものではない。というのがその理由であり、その通りだと思います。
そのひとつしかない「人類史」を、ひとつの大きな流れとして理解するための著作です。数百年ごとに区切って一冊ずつ出してきたシリーズも4冊目。僕にとっては”発売されたら即買う”シリーズになっています。
ところで、学生時代は「歴史」というものは、暗記の教科だと思っていたんですが、違うんですね。
歴史は、語学と一緒で「積み上げていくもの」。語学というのは、地味な積み上げの果てに、ある時突然「喋れるようになる」「聞き取れるようになる」という限界突破ラインを迎えるものであると経験上言えるのですが、実は歴史も同様です。
専門的に勉強してきたわけではないですが、年を経て様々な知識が積み重なったその先に、何かしらの限界突破ラインを迎え、知識の断片の積み上げでしかなかったものが、そのあとは全てが繋がって見えるようになる。そんな感じなんだと思います。
そして歴史の様々な要素が繋がって見えるようになると、歴史というものが「過去を学ぶもの」であると同時に、「より良い未来を作るための道具」でもあるということがよくわかるようになる。
少し話が逸れましたが、こうして人類史を蓄積させていくと、人類が如何に血みどろの歴史を編んできたのかがよくわかる。なんせこの直近80年間以前は、「力による現状変更」が当たり前の世界。「強いもんの勝ち、腕力の弱い奴は奴隷」という世界であり価値観。
その価値観の行き着く先には2度の世界的規模の戦争があり、その経験がもたらした苦い反省とともに、「もう不毛な争いは繰り返さない」とコツコツ世の中を作ってきたのがこの80年くらいだった、大雑把に言えばそんなふうに理解していました。
ですが、実はその価値観はあまりにも脆かった。プーチンのような指導者ひとりの判断によって1週間ほどで壊れてしまうようなものでした。積み上げてきた80年間を一気に逆行するような、積み上げてきた積み木のお城を一気に崩してしまうような、そんな行為がロシアという大国によって行われている。
この価値観の逆行が、「やったもん勝ち」という強引な手腕で成立されてしまうのか?
それとも「逆行させようとしたら総スカンで痛い目を見た」という結果に終わるのか?
おそらく今後の人類史100年200年という単位の方向性が決まるような、非常に大きなターニングポイントになるのは間違いなく、そのために小さないち個人としても何ができるのだろうと自問することの多い日々を過ごしています。
藤原千恵・蒼・帆乃加・和田結衣・真央・瑛太・秀華 (伊勢川)
先月のポストカードの写真を撮影した際に、みんなで記念撮影した一枚です。
ポストカードの写真は、帆乃加ちゃんと結衣ちゃんの年長組ふたりの姿が写っていますが、撮影現場にはこの人数で行っていました。
ここで撮ろう、と決めたときにはもう夕暮れの最後の輝きの瞬間。車からすかさず飛び出して駆け回り始めたお姉ちゃんたちふたりをそのまま撮影している、そのほんのちょっとの間、年少組が合流する前に夕陽は山の向こうに沈んでいきました。
沈む前のひと輝きが先月のポストカードの写真になり、そしてその後みんなで集まって撮影したものがこの一枚です。
「歴史を作る人々」 文:石川拓也
歴史にも残らねえで死んでったりっぱな人 間がゴマンといるんだ!!!そんな人間を土台にした歴史に残る奴など許せねえ 「陽だまりの樹」 手塚治虫
「自分がやりたくてやっている。」
今回、鳥山百合子が描いた5 組の「土佐町の人々」は、言葉は違えど、こういった意味のことを揃って口にした。 「私が楽しくてやっているの」「わしがそうしたいから」「まずは自分がそうしたいと思っている」などなど。 まずは自分がそうしたい。そこがスタートで あり同時にゴールなのかもしれない。
しかし ここに登場する5組の先達は、それぞれがしている活動を、どれほど周りの人々が喜んで いるか、必要としているかということも同時に知っている。 むしろ「周りの人々の喜ぶ顔が見たくてやっ ている」と言い換えてもいいかもしれない。多くの人の喜びが即ち自分の喜びでもあって、 その二つは対立することも矛盾することもなく、一人の人間の中で仲良く同居しているように見える。
硬い言葉でわかったようなことを言わせてもらえるなら、そこには「個」と「公」 が混じり合って≒(ニアリーイコール)で結ば れているような心の形があるようにも思える。
20年以上もの間、稲叢山の麓に植樹を続け てきた谷種子さん。取材・撮影させていただ いたのは2021 年4月の桜が満開を迎えている 時期だった。その頃、種子さんは若干体調を崩し気味だったのだが、私は桜が咲き誇る前で立つ種子さんをどうしても撮影したくて、 無理を承知で同行をお願いした。種子さんは病院に通う予定を変更して、一緒に稲叢山まで行く時間を作ってくれた。稲叢山の樹々の間を共に歩きながら、これまでに植えた樹々への想いを話すその姿を見ながら、種子さんが山と樹々に対して注いできた愛情の大きさを、私たちは知ることになる。
私たちがその場にいて撮影をする間にも、何台もの車がやって来ては停車し、家族連れや カップルなどが桜を見物し写真を撮っていく。 おそらく町の住民だけでもない不特定多数の人々が、顔を綻ばせながら満開の桜を楽しんでいる姿も同時に知ることになった。
戦争に従軍し負傷した経験を持つ筒井政利さんは、ご自身の体験を次世代に伝えようとしている。地蔵寺のご自宅に伺ってお話を伺った際には、様々な資料やアルバムを用意していただいていた。本誌記事内にも引用している資料は、政利さんが長い時間をかけて丁寧に保存しているものだ。
ご自身が搭乗した戦艦の写真や、負傷後の療養中の写真など、その資料があって初めて感覚として伝わるものになることは間違いない。ご自身にとって辛い体験であったことは議論の余地のないところだが、それを長い時間をかけ繰り返し説き続け、テレビやゲームなどで観るものとは違う「本物の戦争」とはどういうものか、ということを若い世代に手渡そうとしている。
長野静代さんは、地蔵寺地区の地元のお店である「長野商店」を40年以上営まれている。「ながのみせ」と地元の人々から呼ばれ愛され続 ける理由は、静代さんが手作りするお惣菜の美味しさによるのはもちろんだが、静代さんの顔を見に店に寄ることが日常の中に組み込まれているのだ、とも当の地元のお客さんたちは言う。
40年ということは、「ながのみせ」 の味を食卓で味わいながら育った人々が幾世代にも渡って、特に地蔵寺周辺では存在するということで、その証拠に、地元育ちの方々の多くは、「ながのみせ」のことを話す際には、近しい親族のことを話すような親しみを表情に出す(と個人的には思っている)。
「高峯神社の守り人」である筒井賀恒さんとは、 何度か一緒に神社の参道を歩いていただいた。 登山道のように急峻な参道を歩き本堂まで辿り着くまでの会話の中で、「ここに来る人が困らないように」とか「放置しておくとみんなが残念に思うだろうから」といった言葉をいくつも耳にすることになり、賀恒さんが高峯神社の隅々にまで心を配っていること、そしてそこを訪れる人々(不特定多数というよりは、具体的な顔を思いながら話しているように思えた)に対する思いやりを知ることができた。
神社を訪れ、その広い敷地のあちこちを手入れすることは賀恒さんの日常的な行為になっているようだ。
和田佐登美さんと芙美子さんのご夫婦は、自身の山の暮らし方を伝えようとしてくれた。 不便も多い(ように見える)山の生活の中で、 自然の掌の中で生きるようなお二人の生活は、言葉には変換できない何かを私たちにたくさん教えてくれたように思う。その「言葉には 変換できない何か」を言葉に変換しようとした試みが今号においての挑戦であるという言 い方もできる。
本文中でも触れられている事柄だが、私たちが辞する際に、「町のことをよろしくお願いします」と言って深々とお辞儀した佐登美さん の姿は現在でもありありと目に浮かぶ。それは本当に心のこもった、誠心誠意の低頭だっ た。
町のことを想う佐登美さんのその行動の底にはどのような心の形があったのだろう。 佐登美さんご本人に尋ねることはもう永遠に 叶わなくなってしまったが、頭を下げる姿の、 その記憶はそれからずっと「とさちょうものがたり」の通奏低音として奏でられている。
今回ここに取り上げさせて頂いた5 組の方々。 各々は表面上は全く違った活動をされているが、目には見えない深い階層で、非常に近い共通点があるように私には感じられていた。 それは一体何なのか?という疑問が、今号を編むにあたっての裏テーマとして、私の脳裏に常に明滅していたのだが、では明確な解答 が見つかったかというといささか心許ない。
それは冒頭に挙げたような公と個のバランス の在り様という辺りに深く関係するものであることは間違いないが、「これが答えだ」というように断言できることはあまりに少ない。
しかしひとつだけ確信を持って言えることが あるとすれば、「歴史」や「町」や「世の中」 というものは、ほとんど全てがこういった小さな個人と呼ぶような人々の手によって作られているということだろう。今号に登場する5 組のような方々の、人知れず行われる日々の積み重ねの集積が、町を作り、国を作り世の中を、歴史を作ってきたのだと思う。
ニュー スにもならないし教科書にも載らないその事実を、少しでも私たち自身の手で記録し伝えたい。ほんのちょっとでも、読者の心に何かが残ったと思えればうれしいと思う。