たれもつれる
【動】忙しくて手が回らない。思うように処理できない。
例:たれパンダが育児でたれもつれちゅう。
(たれパンダが育児で忙しくて手が回らない。)
著者名
記事タイトル
掲載開始日
「どろんこハリー」 ジーン・ジオン文 福音館書店
子供の頃、家の本棚にあった、お気に入りの1冊です。今では私の息子と娘も好きなこの絵本。
お風呂嫌いなハリーがお茶目で、なんとも可愛らしくてたまりません。
ハリーの家族も優しくて大好きです。
家出をしてどろんこになって帰ってきて嫌いなお風呂に入れられても、やっぱりお家っていいな、としみじみ感じているハリーに、本当にその通りだと共感させられます。
子供達は「もし、僕がハリーみたいにどろんこになって帰ってきたらどうするー?」「えー絶対わからんろう!」なんて事を、話しながら兄妹で楽しそうに読んでいます。
我が家が家族にとって、やっぱりお家っていいなぁ、帰りたいなぁと、ハリーのように、そう思ってもらえるような家庭でありたいものです。
早明浦に孫七と言う、ひょうげな(おもしろい)男が居って人を笑わせたのは明治の中頃じゃったそうなが、こんな話が残っちょる。
ある時のことよ、わしが鉄砲を持ってツグミを撃ちに行た。
ぼっちり滝(断崖)から出た小枝にツグミが居ったきに、そいつを狙うて撃った。
たまるか、弾丸がそれて滝の角岩に当たって、ガラガラ、ガラガラ、滝が崩れて、下の淵へ雨と散ったわよ。
その淵に鴨が十羽居って、それが落ちて来た石に当たって、十羽とも死んでしもうた。
たかあ調子のええ時はええもんで、崩れた滝を見てみるに何やら白いもんが見える。
上がってみるに、崩れた滝から出てきた山芋じゃった。
引き抜いて集めたら、なんと十貫(一貫は三、七五キログラム)あった。ツグミに弾は当たらざったが、その一発の弾丸で十羽の鴨と山芋を十貫取ったきに、わしも損したようには思わざった。
高知県まちづくり研究会発行
「高知五十三次ひざくりげ」より
相川小学校(現在は廃校)の戸棚に大切に保存されているアルバムの中の一枚。
「生業卒度年元正大」と書かれています。説明するまでもなく「大正元年度卒業生」。
当時はまだ右から左に書いていたんですね。ちなみに左から右の書き順になったのは戦後からなんだそうです。
写っている人がどなたなのか、まったくわからない写真です。当時の相川地区の子供たちなのでしょうね。
服装も雰囲気を作っているのでしょうが、子供たち一人一人の顔つきが、キリッとしてどう見てもみんな根性ありそう。当時の写真は「笑って!」とは言わなかったんでしょうね。
「これ、うちのおばあちゃんや!」なんて思った方は、ぜひ編集部までお知らせください!
土佐山村中切から東石原に越す峠に弘法石というところがありますが …
昔、弘法大師が南の土佐山村の方から北の方へ上がって来られ、山のいただきの休石に腰をかけて北方を一望なさると、それは美しい静かな内海で、あちらこちらに緑の島がいくつとなく浮かんでいる景色でございました。
大師は思いがけないところで海景色をご覧になったので心からよろこばれ、これから先がずっと海つづきなれば麓にまで下って行ってもしかたがない、とあきらめて、やがてもと来た方へ下って行かれました。
けれども、大師が内海とご覧になったのは朝霧で、その霧の下には西部嶺北地方の谷間の村々が静かな朝の支度にいそしんでいたのでございます。
昔からこの地方は春から夏にかけて霧のたちこめることで有名で「森(土佐町土居)の朝霧」の名もあるほどですから、他国の旅行者が朝早くこの山路に来て瀬戸内海と見あやまることがあると言うことでございます。
弘法大師もこの伝説の中では、やっぱりその一人であったわけです。
そこで、師が休まれてこの村々をご覧になったところを今に弘法石と言うようになったと言うのでございます。
桂井和雄「土佐の伝説」第二巻より(町史)
むかしむかし、樫山の竹馬さん言う人が年の暮れの二十七日に、馬を引いてもどって来よったと。
じきに家の上までもどった時、何やらわからんもんが、竹馬さんどこやら行こうじゃないか言うたそうな。
竹馬さんは忙しい時に行きけにならん言うたけんど、目をつぶれ言うもんじゃき目をつぶったと。
そんならすうーと足が浮いて、目をあけてみたら瀬戸川の奥の一の谷の空じゃったと言う話じゃ。
馬は先にもどって来たのに竹馬さんがもどらん言うことで大騒ぎになって、
太夫さんを七人か八人雇うて七日七晩の祈祷(おいのり)をして、やっと松の木の枝に下ろしてもろうたそうな。
一の谷は樫山から見える高い山で石鎚山に続いております。そんで暮れにはナマグサ(魚類)を弁当に入れとらにゃいかん、
ナマグサを弁当に入れて山や畑に行かにゃならん言うていました。天狗が人をさらう言うてよく言うてました。
町史
窪内隆起さんは、元サンケイ新聞記者。司馬遼太郎さんが「竜馬がゆく」「坂の上の雲」を連載していた際の担当編集者です。
その窪内さんの出身は土佐町石原。中学校にあがる十二歳までを西石原の家で過ごされたそうで、その頃の思い出をとても大切にされていることが、ご本人とお話ししているとじんわりと伝わってきます。
現在は高知市にお住まいですが、ご自宅に伺うと、少年時代に自作した金突鉄砲や草履などが、今でも(驚くほど)大切に保管されています。
「山峡のおぼろ」は窪内さんが故郷である土佐町の日々を描いた連載です。
とさちょうものがたり編集部
窪内隆起さん 高知市内のご自宅にて
窪内さんが新人記者時代に使用していたカメラ MINON。 中判レンジファインダー。
記念すべき初回は「彼岸花団子」。必見です!!
「たて糸よこ糸」 窪内隆起 短歌芸術社
著者の窪内隆起さんは、土佐町石原の育ち。12歳までを西石原のお家で過ごし、現在は高知市にお住まいです。
長年、サンケイ新聞社に在籍し、文化部で司馬遼太郎さんなど数多くの作家を担当しました。
司馬さんが「竜馬がゆく」「坂の上の雲」をサンケイ紙上で連載していた、まさにその時に司馬さんを裏から支えていたのが窪内さんなのです。
この本「たて糸よこ糸」は窪内さんが司馬さんや土佐町、新聞記者時代の思い出、釣りや狩猟について書いたエッセイをまとめたもの。
写真にある「司馬さんの情」というお話は、窪内さんがどれほど司馬さんに信頼され、かわいがられていたのかが伝わってきます。作家と担当編集者というより師弟関係のような温かいものが流れています。
今回とさちょうものがたりで始まった新連載「山峡のおぼろ」は、その窪内さんが土佐町の思い出を描いた書き下ろしエッセイ集。必見です。
石川拓也
2018年11月11日、美しい青空のもと、さめうらの郷湖畔マラソン大会が開催されました。
第34回目となるこの大会は「今までで一番いい天気に恵まれた」とのこと。
向かいの鎌滝山のふもとに広がる赤や黄色の木々が早明浦湖畔に映り、本当に美しかったです。
シルクスクリーンで制作したTシャツを着ている方がたくさんいて、思わず話しかけてしまったくらい、とてもとてもうれしく思いました。
購入してくださったみなさま、本当にありがとうございました!
「いとこ同士なんです!」とてもうれしそうにお揃いのTシャツを着てくださっていました。パワーをいただきました!
「とさちょうものがたりに掲載されるのを楽しみにしてます!」と言ってくださいました。
写真提供:澤田幾弥
審判長である“NPOさめうらプロジェクト”辻村幸生さんの挨拶。辻村さんはどんぐりさんとのシルクスクリーンの取り組みを応援したいと「このTシャツを着て挨拶するから!」と言い、メンバーで着たいとTシャツを購入してくださいました。辻村さんのお気持ちがありがたくうれしかったです。本当にありがとうございます。
写真提供:澤田幾弥
BlueLake ブレイクのみなさんがこのTシャツを着て自転車に乗り、ランナーさんの安全を守ってくれました。頼もしくかっこいい!中学生、高校生、大学生…、ブレイクの活動はとても素晴らしいなと思います。
Tシャツやトートバック、どんぐりさんのクッキーをブースで販売しました。「このTシャツがほしかったので」とわざわざ来てくれた方もいました。「娘がマラソンに出てるから応援に来た」というお父さんは以前土佐町で仕事をしていたそうで「土佐町はとてもいいところ。人の気持ちが温かい。いつ来ても懐かしいねえ。」と目を細めながら話してくれました。
Tシャツは、ランナーさんが大会への申し込みをする時に注文できるようにしていました。200人のランナーさんにご注文いただき、どんぐりのメンバーさんが一枚一枚印刷しました。
マラソン大会当日も、ブースで販売しました!
34回目を迎えたさめうらの郷湖畔マラソン大会、このTシャツが初めてのオリジナルグッズとなりました。