鳥山百合子

 

 

山の人、町の人。先祖代々住む人、都会から越してきた人。猟師さん、農家さん、森の人、職人さん、商店さん、公務員…。

人口4,000人弱の土佐町にはいろいろな人がいて、いろいろな人生があります。

土佐町のいろいろな人々はどんな本を読んでいるのでしょうか?もしくは読んできたのでしょうか?

みなさんの好きな本、大切な本、誰かにおすすめしたい本を、かわりばんこに紹介してもらいます!

(敬称略・だいたい平日毎日お昼ごろ更新)

私の一冊

鳥山百合子

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「死んだかいぞく」 下田昌克 ポプラ社

2020年2月に下田さんが土佐町に来てくれた時、出版されたばかりの「死んだかいぞく」にサインをしてくれました!

目の前で描かれるクジラや魚たち。下田さんの世界です。

「死んだかいぞく」を初めて広げた時に何より驚いたのは美しい海の色でした。酔っ払って刺された海ぞくが深く沈んでいくにつれ、海は緑がかった青からあい色、むらさき、黒色へ…。

実は一年前、2019年の1月にも下田さんが土佐町に来てくれた時に「今、この絵本を作っているんだ」とスケッチを見せてくださったのですが、それがこの「死んだかいぞく」のスケッチでした。鉛筆で描かれていた白黒のスケッチが、一年後の今、鮮やかな一冊の本となって目の前に現れました。

下田さんが描き、色を重ねた海や魚たちが、下田さんがこの絵本と向き合った軌跡を伝えてくれているようで、絵本を広げてはただただ見入ってしまいます。

鳥山百合子

 

*今年2月に下田さんが来てくださった時の様子はこちら!

下田昌克さんが土佐町にやって来た!2020年(1・2日目)

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【ベンチを作ってくれた7人の職人さんたち】
写真後列左から:筒井浩司さん・澤田明久さん・森岡拓実さん
写真前列左から:池添篤さん・大石淳一さん・山中晴介さん・小笠原啓介さん

 

土佐町のあちこちに置かれたベンチに、もう座っていただいたでしょうか?
もし今度ベンチに座ったら、ベンチの縁や角を触ってみてください。全くチクチクしませんし、とても滑らかで気持ちよく座ることができます。

なぜでしょう?

それは、鉋で丁寧に面取りがしてあるからです。
ベンチの天板と脚の面取りをしてくれたのは、大工である森岡拓実さん。

面取りするのは大変な作業であったと想像しますが、「座る人にとって、その方が心地いいから」とさらりと話してくれました。

使う人にとって良いものなのか?それが一番大事。
常に作るものの向こうにいる人のことを考え、それに基づいた仕事をする。筋の通った姿に心打たれました。

森岡拓実さん

森岡さんが大工になったのは、現在88歳で現役の大工であるおじいさんの影響がとても大きかったそうです。小学生の頃から物づくりが好きで大工になりたかった拓実さんは、おじいさんの元で10年ほど修行した後に別のところでも修行し、今は左官の仕事も勉強しているとのこと。大工とは異なる仕事をすることで、今まで見えていたものが全く違うように見えるようになったそうです。

大工でも左官でも何でもやりたい。ベンチの仕事で初めて建具屋さんの道具を使ったけど、建具屋さんと大工の使う道具も技術も全然違う。木の使い方も大工の使い方も、晴介さんは全部わかっちゅう。負けたくない

森岡さんは「技術者になってものづくりができるのがよかった。自分に合っていた」とも話します。色々な技術を身に付けることで自分のできることが増え、ものの見方も仕事も広がっていく。

今回のベンチみたいに、もっとみんなで一緒の仕事したら面白いよね。なかなかないよね、こんな機会。もっとあったらいいのにね。そのそれぞれのいろんなものが出てくるもんね

町に置いてあるベンチを見たら、自分が作ったんやと思う。“自分がやった”と自分の中に残る

ものづくりは自分だけで完結するのではなく、作ったものが次の誰かとつながるものとして世の中に現れます。このベンチはこれからどんな風に繋がっていくのでしょう。

 

 

7人の大工さんの中には20代と、30代になったばかりの大工さんがいました。

お父さんが大工だったという澤田明久さんは大工になって12年。大工になったのは、父親の姿を見ていたことが大きかったのではないかと言います。18歳で工務店に入り、その後大工として独立、一人で仕事を請け負い、現場に立つようになりました。澤田さんが自分の腕で食べていけると思ったのは、仕事を始めてから5年ほど経ってからだったそうです。

大工の仕事は好き。基本的に自由だけど、もちろん工期は守らないといけないし責任がある

工務店で働くことと独立して働くことの一番の違いは、責任だと言います。基本的に一人でやる現場が多いので、任された現場はいつも自分次第です。

澤田さんは「自分だけの責任」と何度も話しました。今の仕事が次の仕事につながる。逆を言えば、今の仕事次第で次の仕事がなくなるかもしれない。一人で立つことのその重圧たるやその人自身にしかわからないものでしょう。腕一本で仕事の責任をひとつずつ果たしていくことでしか、自分一人で立つ軸は作れません。

「ベンチの製作はとても楽しかった。みんなで集まって仕事するのは初めてで、やれてよかった」と澤田さんは話してくれました。

『ベンチは楽しかった』
これは澤田さんをはじめベンチを製作してくれた職人さんが皆、口を揃えて言ってくれたこの言葉は、職人の皆さんが日々一人で立っているからこその言葉だったのだと後から気付きました。

 

 

筒井浩司さん

7人の職人さんの中での一番の若手、筒井浩司さんもお父さんが大工さんだったとのこと。

高知市で修行を始めてから2年間、ずっとやめたいと思っていたそうです。建築に使う材料の名前を覚えるのもしんどく、間違えたら親方に怒られる。修行を3年半続けた後に土佐町に帰ってきて、今は土佐町地蔵寺の工務店でお父さんと共に仕事をしています。

土佐町へ帰ってきてから、現場で施主さんが休憩になったらお菓子やお茶を構えてくれたり、その日の仕事を終えて帰る時には“お疲れさま”と言ってくれることに救われるような思いがしたそうです。

“ありがとう” “お疲れ様です” と言われることは職人冥利に尽きる。そのために仕事をしているなと思う。僕ら職人は金額以上の仕事、プラスアルファのことをしたいんです

このお話を聞いたのは、ベンチの製作を終えた飲み会の席でした。

先輩たちがこうやって話してくれることがとても嬉しい、お酒を飲んでいうてくれることが本音だと思う。先輩の言うことがみんな身になる。

地に足をつけながら仕事を重ねている若い職人さんがこの町にいることが、何だかとても誇らしく思えました。

(「土佐町ベンチプロジェクト⑧職人さんの話」に続く)

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【ベンチを作ってくれた7人の職人さんたち】
写真後列左から:筒井浩司さん・澤田明久さん・森岡拓実さん
写真前列左から:池添篤さん・大石淳一さん・山中晴介さん・小笠原啓介さん

 

嶺北の木を使い土佐町の職人さんがベンチを作る「土佐町ベンチプロジェクト」。

ベンチを作ってくれたのは土佐町で暮らす20代から50代の職人さんたち。作業中、息がぴったりだった職人さんたちですが、普段は個人で仕事を請け負っていることがほとんど。チームでひとつの仕事をするのは今回のベンチの製作が初めてだったそうです。

40個のベンチが完成した後、7人の職人さんたちに話を聞きました。

 

7人の職人さんたちの中で一番の年上、襖屋さんである池添篤さんは、町の人たちに「げっちゃん」と呼ばれ慕われている兄貴のような存在。今回のベンチプロジェクトでは、土佐町建築業組合の長である池添さんが職人さんたちに声をかけ、7人のチームを作ってくれました。

 

左:池添篤さん 右:小笠原啓介さん

 

この人と一緒にやりたいなという人に声かけた。この世代に頑張ってもらわんことには土佐町、嶺北の家は保てない。みんなでやって繋がりができていく。一緒にやっていかんことには生きていけんきね。子どもの世代、孫の世代が土佐町でどうやって生きていくか考えて繋いでいかないと。その思いをみんながわかってくれちゅうのが嬉しい。

 

池添さんは若い頃から「世間の理想ではなく僕の理想でやりたい」と先輩と喧嘩もしながら仕事をしてきたそうです。今、先輩と呼ばれる立場になり、どんな思いで現場を見つめているのでしょう。

どんな仕事でも基礎が大事。あの人に話をしてなかったとか、その人に話ができてなかったから文句が出たということにならないように、基礎の部分を大事にしていったら最後はうまくいくし、綺麗な仕事ができる。1人ずつへの配慮が着実に仕事に現れる

 

それは職人さんの世界に限らずどんなことにおいても欠かせない土台です。その積み重ねが周りの人との信頼関係を作り、それによって自分の場所もつくられるのだと感じます。

普段の仕事でも面白くない仕事でも、一人でやりよったら面白くない。でも何人かでやったらそれも面白くなる。ごじゃ(冗談を)言いながらでも、そうやって面白くない仕事を一生懸命やる。本当に面白くない仕事もあるんで!それを共感してくれる、共有してくれる人がいると仕事も楽しくなる。笑い飛ばせる

「僕はみんながやってくれると信じて頼んじゅうき!」と言いながらガハハと笑うげっちゃん。この池添さんの元、職人さんたちが集まってベンチが作られたのです。

 

 

今回のベンチ製作では、職人さん全員が口を揃えたようにこう言っていました。
「このベンチは晴介君がおらんとできなかった」

晴介君こと山中晴介さんは土佐町で唯一の建具職人。建具職人は家の中の仕切りである戸や襖、窓などを作る、精密さと細やかな配慮が求められる仕事です。

左:山中晴介さん 右:大石淳一さん

 

建具はちゃんと開け閉めできるのが当たり前。建具が入ってから3ヶ月で暖房や温度差で木が収縮したり反り出したりする。それを見越して、ミリ単位で木がどちらに反るかを見極めて作らんといかん

今回のベンチは川田康富さんが作ってくれたモデルを元に、山中さんが木を加工し、効率の良い段取りを考えてくれました。

中さんは若い頃から左官や木工の仕事の経験を重ね、今は建具職人として、そして大工としてもさまざまな仕事を請け負っている山中さん。

自分のセンスで新しい建具をゼロから作ることができるき、自分のオリジナルを作れる喜びがある。“この現場はめっちゃ綺麗にできた、施主さんも喜んでくれちゅう!嬉しい!”って思う。でも…、作るまでめちゃくちゃ気を使う。それはすごいやちゃ!

 

山中さんは「建具はめっちゃ気を使う」「黙々と1人でやるから集中してすごい疲れる」と何度も繰り返し話していましたが、それは本音であり、職人としての誇りからくる言葉でもあるのだと思います。

自分のした仕事を評価してくれるのは施主さんの価値観だけやき。それが厳しいところ。自分でよしと思っても、イメージが違うと言われることもある。価値観の差があるきね。現場は“価値観=値段”の世界やき

 

「土佐町の建具職人は俺しかいない」
山中さんが自分に言い聞かせるように繰り返していたこの言葉。その事実への覚悟の元に生まれる仕事が、周りの職人さんからの信頼に繋がっていることが伝わってきます。

 

(「土佐町ベンチプロジェクト⑦職人さんの話」に続く)

 

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嶺北でとれた木材を使い、土佐町の職人さんにベンチを作ってもらいました。土佐町の人々が座って豊かな時を過ごすために。

2020年3月、土佐町のあちらこちらに40個のベンチの設置が終わりました。

 

2019年11月26日、ベンチ製作の現場に伺いました。

建具職人である山中晴介さんの作業場では、職人の皆さんがそれぞれの持ち場で仕事をする音が響きます。

嶺北の木を使って製作されるこのベンチ。この時すでにベンチの脚や幕板は完成され、この日は最後の工程である組み立てを行なっていました。

脚の組み立ての現場は、山中晴介さんと大工である大石淳一さんが担当していました。

ベンチの脚のほぞ穴にボンドを入れる

 

3つのベンチの脚を組み合わせていく。脚のほぞ穴と幕板のほぞをハンマーで打ち付けて組み立てる

 

ベンチの脚を支えるつなぎ貫を組み合わせる

 

組み合わせた脚をハタガネでしっかり固定し、釘穴をあける

 

*山中晴介さんが使っている銀色の物差しのような道具は「ハタガネ」。昔からある道具なのだそうです。

道具①ハタガネ

 

 

ひっくり返し、つなぎ貫にも釘穴をあける

 

平らな場所へ置いた時にガタガタしないか確認する。「今の段階でねじれを治しとかんと。このベンチは6本脚やけ、地面がよっぽどまっすぐでないとどうしてもガタガタするきね」

 

この工程を約5分で行うおふたり。迷いなくテキパキと組み立てていきます。

組み立てるベンチの脚と幕板とつなぎ貫には「ほぞ穴」と「ほぞ」があるのですが、それぞれに「ほぞ穴」と「ほぞ」を付けたのは建具職人である山中晴介さん。ほぞ穴とほぞが気持ちがいいほどピタリ合い、スムーズに組み立てられるのも「建具職人である山中晴介さんの仕事があるからこそ」と大工の皆さんが口を揃えて話していました。

木は雨が降ると膨らみ、日に当たって乾燥すると元に戻って縮む。そういった木の特性を考え、木の木目などを見て、ほぞ穴とほぞの付け方を微妙に調整しているのだそうです。

まさに職人技!

土佐町ベンチは、職人のみなさんの知恵と技術でできています。

 

(「土佐町ベンチプロジェクト ④ベンチの組み立て 」に続く)

*ベンチを作ってくれた7人の職人さんです。

7人の職人さん

 

 

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山の手しごと

シシ肉をいただく

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2月のある日、土佐町栗木地区の近藤雅伸さんから電話がありました。
「シシ肉、いるかよ?」

二つ返事で、近藤さんの家へ向かいました。

家の作業場には机がわりの大きな板があって、その上にはいくつもの赤い塊が置かれていました。捌かれたばかりのシシ肉です。

 

近藤さんは捕らえたイノシシの牙を見せてくれました。イノシシは雄で140㎏位あったそうです。牙があるのは雄だけ。写真の白いものが牙、牙の下に沿うように合わさっている茶色の部分は「砥石」。イノシシのオスは、自らの牙を「砥石」で擦り合わせ、研いでいるのだそう。牙は、いわばイノシシが生き抜くための武器。イノシシは、己の武器を日々磨き上げているというわけです。

お互い生きちゅうんやきね。できるだけ鉄砲使わず、自分の手で刺して殺す。人間はこっちが文明の利器を持っちゅうき有利で。でも、相撲を取ってでもかまんという気持ちがなかったら相手も命やき。こっちも命がけ、あっちも命がけ。その中で獲りゆうことやき。弱者をいじめたという感覚で猟はしよらんきね

むやみやたらに取ってるわけじゃない。なんでも命やきね。人間は生物の頂点におるわけやき。必要以上に命を取ることはしよらんきね。駆除のため、食べるがためには獲るよ

「何が正しくて何がダメなのか、それは全てに通じることやけ。それだけの考えを持ってせんと」

近藤さんは、そう話してくれました。

 

ナワバリ

近藤さんは20歳から猟を始め、現在50年以上経過。昔は山に“ナワバリ”があり、そこには掟があったとのこと。現在も掟があることにはあるそうですが、人や地区との繋がりが少なくなり、どこでも獲ってかまわないという感覚の猟師が多いと言います。

車社会になり山に道路ができ、何処へでも行けるようになったことで、猟の方法も人との関係も変化していったのでしょうか。

近藤さんが猟を始めた頃は車もなく、近くにイノシシがいなかったので、猟をする仲間と共に歩いて山へ入ったそうです。

ひとつの和というものがなかったら、猟のグループはできにくい。今の猟は個人個人でするものになってしもうた」。

 

 

今は無線を使って猟をしている

昔は無線がなかったため、猟を始める前に、“何時にここに集まる、お前は撃ち手、お前は追う役”と協議して、連絡は「ケース笛」と呼ばれるものを使っていたそうです。

鉄砲の弾が入っていた真鍮の空のケースを一本必ず持っちょったき、それを吹いて連絡をした。ピーっと甲高い音がして、回数によって意味を決めて連絡を取り合っていた 

ケース笛を持っていない時には、枯れた山のイタドリを取り、縁を少し薄く切って笛の代わりにしていたそう。

 

近藤さんの相棒である猟犬の一休

 

イノシシの足跡

近藤さんは罠を自分で作っています。イノシシの通る道は決まっているので、足跡を見つけ、その道上に罠を仕掛けるのだそうです。イノシシが道に印した足跡の意味を見極め、捕らえるには長い経験が必要だと言います。

イノシシが何を考えもって歩いちゅうか…。餌を探しに行きゆう足跡か、人を警戒した足跡か、今晩どこで寝ろうと考えてる足跡か…、見たらわかる。

イノシシの寝場は決まっていて、人が行きかからん場所にある。イノシシは夕方から明け方3時か4時ごろまで歩くき、だんだん眠くなってきて、眠い足跡になってくる。そんな時は千鳥足になっている。寝場から300mばあのところで先に大便をして、100メートルばあの場所でおしっこをして、木の葉を集めた寝場に入って寝る

他のイノシシが寝たところで寝たら寄生虫があったり、伝染病じゃというもんもシシは本能的にわかるき、同じ場所では寝んよね。ちょっとずれたところで寝る

メスが発情しだした時、オスが付き回るき、メスが寝ゆう所からちょっと見えるところでオスは寝る。それは危険を避けるため。犬がメスのシシを追うても、自分に害がないように距離を取っている

 

「生きるということはそういうことやき。先を見通していかないと、生き残っていけない。行きていくことが大事やいか」

近藤さんは、つぶやくようにそう話していました。

 

母性

イノシシは、メスの方が獲られる率が高いのだそうです。

メスには母性があるのでどうしても子どもをかばい、結果的に獲られることが多くなる。イノシシは寝場に入る前、硬いところを通り足跡を見せないようにして入るそうですが、小さな子を連れたメスのイノシシはそこまで考えられないから狙われる。

猟犬が子を咬えたとしたら、母親のイノシシは助けにむかい犬を咬え「ずりずりにしようとする」のだそうです。イノシシの母親は、自分の命を捨ててでも子を守ろうとするのです。

子を思う気持ちは人間もイノシシも一緒です。

山を植林にしてしもうたき、食べ物がないき、作物のあるところにイノシシは来る。イノシシには本当は罪はないんよ。イノシシは人が作っちゅうなんて知らんわけやき。

人間が山を植林にしてイノシシの生活は壊しちょいて、“被害があるのはいかん”と言いもって…。みんなが自分の都合のええような考え方をするきよ、こういう世の中になってしもうた

 

左の二本は猟刀。「猟師は皆、猟刀を持っている。これはイノシシの血抜きのため、それから護身のため。シシが向かって来たら、せないかん」

帰り際、近藤さんが話してくれました。

ひとつの命をみんなで分けて、“ありがとう”とみんなに食べてもらったらええんじゃないかと思って、声をかけたんよ
一つのものを大事に使うて、食べて、自分があとで後悔せんようなかたちにしていきたい

手渡してくれたシシ肉は瑞々しくてずしりと重く、臭みはありません。この赤い塊は、ついさっきまで山を駆け回っていたイノシシの体なのです。

 

 

いただいたシシ肉は、近藤さんに教えてもらったように、水から煮て、シシ汁にしていただきました。

シシ汁

①シシ肉を繊維に対して直角に、一口大に切る

②①と水を鍋に入れ、一回フ〜と沸かす。上へあくが浮くので、それは捨てる。

③水をさし、決して塩気は入れないようにしながらまた水煮をする。

「シシが大きいと硬いきね、夕方にでも煮てちょっと冷ましちゃった方が熱が通るき。ずっと煮ていって、水が少なくなったら水をさしたらいいき」

④端っこをかじってみて、食べられる柔らかさになった時に火を止める

⑤好みの具材を入れて味付けする

 

イノシシを獲り、その肉をいただくこと。それが人間の日々の糧となっていること。
大昔から繰り返されてきた生きるための営みが切り離されることなく、日常として存在していることは、今の日本の中でとても貴重なことだと感じています。

 

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私の一冊

鳥山百合子

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「かえりみち」 あまんきみこ作, 西巻茅子絵 童心社

この絵本「かえりみち」は、以前紹介した「とんとんとめてくださいな」と共に、お友達や大切な人に赤ちゃんが生まれた時に贈りたいなあと思う本の中の一冊です。

女の子が道で迷子になってしまい、こぎつねが一緒に家を見つけてくれます。ところが今度はこぎつねが迷子に…。そのこぎつねを今度はこぐまが助け、そのあと迷子になったこぐまの家をこうさぎが見つけてくれます。その日の夜、それぞれの人の顔を思い浮かべて眠るというお話。

土佐町には何人も「お話ボランティアさん」がいて、保育園や小学校へ行って子どもたちに絵本を読む取り組みをしています。私もその内の一人として保育園の子どもたちにこの本を何度か読んだことがあります。

次々と迷子になる動物たちや女の子が自分の家を見つけるたびに「ああ、よかった…」とホッとした顔をし、そして「ほんとうによかったねえ」と心底そう思っている表情の子どもたちを見て、目頭が熱くなったことは一度や二度ではありません。

ふとした親切が誰かの心を灯すことがあります。きっと、その灯りは次の誰かに手渡され、また次の誰かに届けられていく。人は大切な何かを交換しながら、贈り合いながら生きている。その小さな循環の存在を、今、確かにこの場所で感じています。

毎日の出来事、ゆく道々で出会う人やものごとのひとつずつを大事にしようと、あらためて気付かせてくれる一冊です。

鳥山百合子

 

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私の一冊

鳥山百合子

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「もりのひなまつり」 こいでやすこ 福音館書店

のねずみたちに「森のひな祭りをしたいからおひなさまを連れてきてほしい」と頼まれたねずみばあさんは、おひなさまを連れて森へ向かいます。

「はるかぜ ふけふけ ヤーポンポン
めをだせ はなさけ ヨーポンポン
きょうはもりのひなまつり
ピーヒャラ ピーヒャラ ピーヒャラ ポン」

こどもたちとこの絵本を読む時、森のひなまつりで歌われるこの歌を、私はなかなか良い感じに歌えます(笑)

そして、絵本のお話とはまた違ったところで、一冊の中のあちこちに散りばめられているこいでさんの“遊びごごろ”を探すのがいつも楽しみです。

ねずみがしているどんぐりの首飾りを、いつのまにかおひなさまが首に下げていたことに気付いた時の驚きといったら!

その首飾り、最後は誰が手にするでしょう? ぜひ探してみてください。

こういったところからもこいでさんという人のお人柄や、世の中を見つめる眼のあり方が感じられて、何だかとても親しみを覚えます。

鳥山百合子

 

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(「南川のカジ蒸し( 前編)」はこちら)

4時間ほど蒸し続けていたカジが、蒸しあがる時間になりました。

 

甑を上に持ち上げる

 

甑を引き上げている石田美智子さん

棒の反対の先には甑が繋がっています。上にいる人の声を聞きながら棒を左右に動かし、甑をちょうどいいところへ動かします。息がぴったり!

 

甑が持ち上がってきました!

 

蒸しあがったカジの束の上に置かれているものは、何でしょう?

 

おいも!ホカホカに蒸しあがっています。

昔からこれが楽しみの一つだったそうです。カジの皮をむいている時、甘いお芋のような匂いがすると思っていたのですが、その源はこのお芋だったのか?それともカジ自身の匂いだったのか?一体どちらなのでしょう。

 

 

蒸しあがったカジの束に水をかけ、冷ます

 

近くの湧き水を貯めた場所から水をどんどん汲んで来ては、カジにかけていく

 

蒸しあがったカジを横に倒して置き、釜鍋の中に水を加え、藁で編んだ“釜帽子”に棒を渡す。これがカジを置く台になる

 

次に蒸すカジが釜帽子の中に収まるよう、立てて置く

 

再び石田美智子さんが下へ降り、甑に繋がる棒を動かしてちょうどいいところを調節しながら、甑をカジへかぶせます。
「ええろ!こんなもんじゃ!」

 

甑と釜帽子の隙間を布でふさぐ

 

そして、また皮を剥ぎます。

冬の間にこの仕事を何度か繰り返し、乾かした皮を出荷することで収入にする。山にあるものを使い、工夫し、協力して生きてきた山の人たち。今、カジ蒸しの仕事がここにあるのも、この仕事を引き継いできた人たちが確かにここにいたからです。あと5年後、10年後、山のこの文化はどうなっていくのでしょうか。

 

 

作業中、軽トラックが何度か通り、カジ蒸しの仕事をしている人たちと話しては山へ向かって行きました。

しばらくして山から帰ってきたトラックの荷台に乗っていたのは、イノシシの子ども!

捕まえたイノシシを飼って大きく育て、売るのだそうです

 

こちらのトラックには大きなイノシシが乗っていました

 

山の人たちは自分たちの力で生きてきたのです。その軸足の強さは、机上や作られたコンクリートの上ではなく、土の上で培われてきたものです。土に根ざした南川の日常には、長い間この町を支え続けてきた、この町の暮らしの土台があるのではないでしょうか。その土台があるからこその「今」です。

これから私たちは何をどのように選び、暮らしをつくっていくのでしょうか。それを自らの内側に問うていきたいと思います。

 

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毎年2月上旬、土佐町南川地区では「カジ蒸し」が行われます。カジを蒸す木の甑から白い湯気が上がり、その元でカジの皮を剥ぐ人たち。その風景は土佐町の冬の風物詩と言ってよいでしょう。

「カジ」は楮とも言われ、紙の原料になるもの。畑や山に育つカジを切り出し、蒸しあげ、皮を剥ぎ、皮を乾かして出荷します。以前は土佐町のあちこちでカジ蒸しをしていたそうですが、今ではこの南川地区と石原地区の一部で行われているだけ。

2月8日、南川の皆さんが集まって作業をしていました。

 

甑のそばでおしゃべりをしながら蒸しあがったカジの皮をせっせと剥ぐ、川村豊子さんと水野和佐美さん

この日の午前中は、昨日の夜から甑で蒸し込んでいたカジの皮を剥ぐ作業をしていました。蒸しあがったカジの根元を握ってくるっと回すと、皮がつるりと剥がれるのでそのまま下へ引っ張って剥いでいきます。カジは冷たくなっていた手をじんわりと温めてくれます。

 

軽トラックにどっさり積まれているのは生のカジ。蒸す数日前に山や畑から刈り取っておく

カジは、乾燥しないよう蒸す直前に切るのだそうです。
「やっぱり1月、2月のうちやね。あれこれしよったらねえ、この時期しかできんきねえ」

今年はカジがあまり収穫できなかったとのこと。その原因はイノシシと猿。イノシシがカジをかじり、出てくる白い汁を吸ってカジが折れてしまう。猿はカジの枝の芽を食べる。
「イノシシにごちそうしたけ」
「動物と生活していかないかんけ、大変よ」
水野和佐美さんはそう言って笑うのでした。

「昔はカジ蒸しやってる人たくさんいたけ、親戚同士が集まってやってね。また親戚が蒸すときにはまた行ってね、お互いに皮を剥いでね」と豊子さん。豊子さんは土佐町の能地地区出身で、南川へお嫁に来たそうです。

昔は南川地区だけでも何軒もカジ蒸しをしている家があったそうですが、今はここだけ。

「昔は量もようけあって、3日も4日もはいだけんどね。安いというて、みんなもいでしもうた」

 

蒸しあがったカジは甑の側に積み重ね、冷めないように毛布をかけておく。甑のそばの地面はぽかぽかと温かい

 

カジの皮を剥ぐ山中順子さん。19歳の時に南川にお嫁に来たのだそう

「ここに来てからずっとやってる。舅さんらがやりよったけ。昔はどこにも甑があってね。甑は次々まわり回って順々にもろうてねえ。もうこんなのあまりないよ」
皮を剥ぎながら周りの人たちとのおしゃべりに花が咲きます。

 

子どもの頃からカジ蒸しの仕事を手伝っていたという石田勲さん

 

火の番をしながら皮を剥ぐ

焚き口近くは熱風で顔が近づけられないほど。近くの小屋から焚き物を運んでいた水野才一郎さんは、勲さんと同じく、子どもの頃から両親がしていたカジ蒸しを手伝っていたそうです。

「4時間は蒸さないかんのよ。それくらい蒸さんとね、きれいに剥げない」

 

甑の下には水の入った釜鍋が据えてあり、釜の水を“ごんごん”沸かすことで甑の中のカジを蒸します。甑の横の地面には穴が彫ってあり、それが煙突がわりになっています。

このかまどは、才一郎さんのお父さんが作ったものだそうです。
「かまどの石は、“がけ石”とわしらは呼ぶけんど、山で掘ったら出てくる石でできちゅう。火を焚いても割れんのよ」

河原の石は、火を焚いたら割れてしまうのだそうです。

 

皮を剥ぎ終わったカジは、つづらのつるで縛る

カジがらは乾燥させ、お風呂の焚付けなどに使います。とてもよく燃えるので山の暮らしでは重宝します。

「ツンツンとして(上下を揃えて)、干すがよ」と和佐美さん。

 

剥いだ皮。茶色の部分はポロポロと剥がれ落ちる。蒸したお芋のような匂いがする

 

剥いだ皮を束ねて元を縛る

 

稲をはぜ干しするように、皮を干す

下を流れる川から冷たい風が吹き上がり、皮を揺らします。乾かした皮は農協に出荷するそうですが「乾燥した皮が4貫(約16㎏)」ないと出荷ができないそうです。

「なかなかの量で。16㎏よりも入れめ(多めに)しとかないかん 」
和佐美さんはそう話していました。

 

 

お昼が近づき、もうすぐ甑の中のカジが蒸しあがるという頃、軽トラックに積んでいた生のカジを甑の近くに運んで積み上げます。

積み上げたカジを縛る。昔はつづらのつるで縛っていたそうですが、今は“電気の線”で縛っています

 

次に蒸すカジの準備ができました。午前中の作業はここまで

 

お昼ごはんを食べるため、皆さんいったん家に帰ります

 

(「南川のカジ蒸し 後編」へ続く)

 

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私の一冊

鳥山百合子

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「大家さんと僕」 矢部太郎 新潮社

この本を読んだ時、初めて一人暮らしをしたアパートの大家さんのことを思い出しました。

大家さんは昔野球をやっていたという背の高いおじいさんと、ちょうどこの漫画の大家さんのようにメガネをかけた小柄で上品なおばあさんのご夫婦でした。

アパートは大家さんの家の敷地内にあり、大家さんの家と隣同士に建っていました。出かける時も帰ってきた時も大家さんの家の前を通らなければいけないのですが、その小道に面した大家さんの家の窓辺には厳格そうな顔をしたおじいさんが大抵机に向かって座っていて、私が通るたび、にこりともしないで手を振ってくれるのです。そのたびになぜか、ああ、ちゃんとしなければ…と思ったものでした。時が経つにつれて少しずつ仲良くなり、初めて笑顔を見せてくれた時はとても嬉しかったことをよく覚えています。

家賃の支払い方法は銀行振込ではなく、毎月月末、私の名前の入った通帳のような形の「領収證」を持って大家さんの家に家賃を払いに行きました。家賃を払うたび、おばあさんがいつもおまけを用意していてくれて「ちょっと待ってね〜」と奥の部屋へ戻り、ポッキーやおせんべいといったお菓子や「いただきものなのよ」と言って果物を手渡してくれるのでした。そして玄関先でおしゃべり。毎月一回のそれを楽しみに、私は大家さんの家のチャイムを鳴らしていました。あの時は気づいていませんでしたが、何気ないこのような出来事が、繰り返される毎日にそっと色を添えてくれていたのだと思います。

「大家さんと僕」は、ずっと忘れていた大家さんのことを思い出させてくれました。その大家さんの元で過ごした3年間は楽しくもあり寂しくもあり、自分自身を見つめる時間でもありました。通り過ぎていったあの日々は、間違いなく今の私に繋がっていると実感します。

今この時も、あと何年か経った時「ああ、このことと繋がっていたのか」とわかる時が来るのでしょう。その時が来るまで、今できることをひとつずつやっていこうと思います。

鳥山百合子

 

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