鳥山百合子

 

 

山の人、町の人。先祖代々住む人、都会から越してきた人。猟師さん、農家さん、森の人、職人さん、商店さん、公務員…。

人口4,000人弱の土佐町にはいろいろな人がいて、いろいろな人生があります。

土佐町のいろいろな人々はどんな本を読んでいるのでしょうか?もしくは読んできたのでしょうか?

みなさんの好きな本、大切な本、誰かにおすすめしたい本を、かわりばんこに紹介してもらいます!

(敬称略・だいたい平日毎日お昼ごろ更新)

私の一冊

鳥山百合子

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone

「はるがきた」 ロイス・レンスキー作,さくまゆみこ訳 あすなろ書房

「はるがきたきた!はるがきた!さむいふゆにはさようなら」
この言葉でお話が始まります。

太陽が輝き、鳥が歌う、春。
風が吹き、洗濯物が揺れる、春。
田畑や畑に向かう、春。

 今年の春は新型コロナウィルスの影響で外出もままなりませんが、お世話になっている方が手渡してくれたワラビや筍、散歩で見つける野の花たちにしっかりと春を感じました。むしろ、こんなに春を感じた年は初めてだったかもしれません。

せみのを背負った人たちが、カゴいっぱいに山菜を収穫する、春。
れんげやスミレ、キンポウゲにイヌフグリ、野の花たちが道端を彩る、春。

どんな時でも、季節はめぐります。
土佐町はもう初夏へと向かい、山々は青く、ぐんぐん迫ってきます。

「山笑う」季節です!

 

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone

今までとさちょうものがたりでは、高知新聞に掲載された記事を「メディアとお便り」のコーナーで紹介してきました。その新聞記事は全て、高知新聞嶺北支局長の森本敦士さんが書いたものでした。

2017年4月から2020年3月まで森本さんは高知新聞嶺北支局長として土佐町・本山町・大豊町・大川村の嶺北4町村を飛び回り、それぞれの地域に根ざした取り組みを伝え続けました。森本さんは、嶺北の人たちからとても信頼されていた新聞記者でした。

森本さんが嶺北に赴任したのは2017年4月、とさちょうものがたりがスタートしたのは2017年6月。お互いのスタート地点が重なったことは、私たち編集部にとってとても幸せなことでした。とさちょうものがたりの取り組みに共感し、こまめに足を運び、取材し続けてくれた森本さんには感謝しかありません。

 

今回は、森本さんが書いてくれたとさちょうものがたりの記事を振り返りたいと思います。それは、とさちょうものがたりが始まってからの3年間を振り返ることでもありました。

森本さんとの初めて出会いは、私たちが2017年6月に佐々井秀嶺さんを土佐町にお招きした時のこと。森本さんは佐々井さんを招いた意味を深いところから感じ取り、記事に書いてくれました。

 

【佐々井秀嶺さん講演会 2017年6月21日】

高知新聞:2017年6月11日

この記事をきっかけに県内外から多くの方にお問い合わせをいただき、会場は満席、立ったまま佐々井さんのお話に耳を傾けている方も多くいらっしゃいました。

 

高知新聞:2017年6月23日

講演会後の記事です。森本さんは講演会の最初から最後まで現場にいて、佐々井さんの言葉やお客さまの声に耳を傾けていました。

 

高知新聞:2017年6月28日

講演会が終わった後、お食事をされた佐々井さんにインタビュー。森本さんが書いたこの記事は、佐々井さんの生き方を多くの方たちに届けてくれました。

講演で来高の印高僧 佐々井秀嶺さんに聞く

インドで最も影響力がある仏教指導者といわれる佐々井秀嶺さん(81)がこのほど、土佐郡土佐町田井を訪れて講演した。

一説に、1億人ともいわれる同国仏教徒に支持される佐々井さん。講演とインタビューを通して、飾らない人柄、81歳にしてなお衰えない情熱が伝わってきた。(森本敦士)

土佐町の地域おこし協力隊で写真家の石川拓也さん(42)が3年前、インドで佐々井さんを取材した縁で講演が実現。佐々井さんは初来高といい、高知市内の古書店や竹林寺、桂浜も訪ねた。

「桂浜は押し寄せてくる波がすごくて勇壮だね」「インドでも村田英雄の『竜馬がゆく』をいつも歌ってたんだよ」と笑う。

土佐町に着くと「農村の風の匂いがするなあ。わが古里(岡山県新見市)に帰ったようです」としみじみ話した。「東京は、人が満員電車に乗って『人間機械』のようになってしまって哀れだなあと思います。こちらは伸び伸びしている。年寄りは多いけど、人間が自由だなあ」

夕食の接待を受け、アユの塩焼きに目を輝かせた。「古里の高梁川って小さな川でアユをついてたんですよ。それから50~60年、アユは食べてなかったなあ。心のこもった料理がほんとに嬉しいですよ」と頭からムシャムシャと頬張った。

25歳で出家したが、新聞配達をしながら大学で仏教を学び、一方で浪曲師や易者にもなるなど奔放だった佐々井さん。1967年に渡ったインドで転機を迎えた。夢に龍樹菩薩が現れ、「速やかに南天竜宮城に行け」とお告げを受けたという。南天竺(インド)の中部の都市、ナグ(竜)プール(城)と解した。

ナグプールでは当初、布教活動をしていると石を投げられたり、衣を剥ぎ取られたりしたことも。断食行などを通して徐々に信頼を勝ち得ていったという。「使命を受けた人間は断じてやらんといかんから、インド仏教再興の道を泣きながら歩んできた」と明かす。

インドでの日常は、よろず相談が絶えないという。家のこと、親族のこと、あらゆる悩みに対し、親身になって人生の悩みに応じ、あてがうべき説法をしたり、なぐさめたりする。「何でお坊さんが(人に)合掌するんだと言われるが、『あなたの中に宿っている仏に合掌している』と言っている。私はインドの仏教徒の奴隷となりたい」と言い切る。

「同体大悲といって、みなさんと私の体は一つだ。苦しみも悲しみもみな一つだ。インドの仏教徒はみな貧しい。日本の比ではない。毎日のように虐げられ、辱められてきた人たちと共に、これが私の心の軸です」

寄り添う姿勢は、自身の体験が基になっている。終戦時は「木の根も掘って食べた。牛の食べるようなものでしのいできたんだ」という貧しい生活を送り、中学時代には原因不明の高熱に倒れた。

一方で異性への関心をはじめ、内からわき出る「渦巻き、沸騰するような」エネルギーと煩悩をいつも持て余していた。かと思えば「自分は人生の敗北者だ」と思い詰め。自殺を試みたこともあったという。若かりし頃を”世紀の苦悩児”だったと語る佐々井さん。

「悩みに悩み、もだえにもだえた放浪者だから、人間の悲しみが分かるんだ。人間の苦しみを味わってなきゃいけない」。顔に刻まれたしわが、険しさを増した。

講演後、土佐町内で宿泊した佐々井さんは翌朝、突然思い立ち、近くのみつば保育園に立ち寄った。「子どもは伸び伸びしているのがいいね」。顔をほころばせ、自然と集まってきた園児の頭を右手でなでていく。老若男女から敬愛されているという佐々井さんの、インドでの姿が目に浮かんだ。

佐々井秀嶺(ささい・しゅうれい)

1935年、岡山県新見市に生まれる。60年、高尾山薬王院(東京)で得度。タイで修行を経て67年インドに渡る。68年から仏教復興運動に身を投じる。

ヒンズー教カースト制度で最下層の「不可触民」を仏教に改宗させることで差別のくびきから解放する改宗式の導師を務めるほか、ヒンズー教徒が管理していた仏教の聖地ブッダガヤの奪還運動、仏教遺跡発掘も主導してきた。88年にインド国籍を取得し、2003~06年には政府少数者委員会の仏教徒代表委員(副大臣各)を務めた。

 

 

 

 

【下田昌克さん  土佐町滞在 2017年10月2日〜8日】

高知新聞:2017年9月29日

絵描きの下田昌克さんが一週間土佐町に滞在し、土佐町の人たちの絵を描いてくれました。その予告記事です。街中から山の中まで足を運びそこで出会った人たちの顔を描いた下田さん。「下田さんという人が町の人の絵を描いているそうやけど、明日はどこへ行って描くんですか?」という問い合わせが役場に寄せられたほど。

 

高知新聞:2017年10月11日

土佐町の人たちの絵は、下田さんの滞在最終日に開催した展覧会で展示され、多くの人が訪れてくださいました。

土佐町 笑顔輝く肖像画 下田さん町歩き描く

【嶺北】「絵描き」の下田昌克さん(50)=東京都=が1~9日、スケッチブックとクレヨンを手に土佐郡土佐町を訪れ、保育園や街角、棚田など町内を回って住民の絵を描いた。下田さんが人懐っこく「にっ」と笑うと向かい合った人もつられて「にこっ」。仕上がった肖像画はみなカラフルに笑っている。下田さんは「楽しかったよ。また来たいね〜」と言い残して町を後にした。描きためた絵の展覧会が、土佐町土居の青木幹勇記念館で29日まで開かれている。

下田さんは神戸市出身。26歳から中国やチベット、ヨーロッパなどを訪問し、旅先で出会った人の肖像画を帰国後、雑誌で連載。また、谷川俊太郎さんの絵本の絵を担当したほか、布で恐竜の骨格標本を作って話題を呼んだり、舞台芸術を手掛けたりと、多方面で活躍している。写真家で町地域おこし協力隊の石川拓也さん(43)と仕事をしたことがある縁で町教委が招いた。

下田さんは滞在中、町内のみつば保育園と土佐町小学校に出向き、子どもたちと共に高さ2.7メートル、幅5.5メートルの紙いっぱいにクジラや怪獣など、思い思いの絵を描いた。保育士の山下志保さん(48)は「下田さんの色使いをまねて、子どもの絵が変わった」と話す。

下田さんが肖像画を描く姿は圧巻。対面するとすぐにクレヨンを取り、笑顔で相手をさっと見てはどんどん手を動かす。描きながら話もする。「僕、ほんとはサラリーマンになりたかったんだあ。チベット人に絵を褒められてなかったらやってなかったかもー」。黄色で輪郭をつくり、ピンクを重ねると絵の表情は一気に立体感を帯びる。緑も紫も使う。

「調子いいときは、色が粒になって見えるんだよな」。肖像画は15分ほどで出来上がり、隠された色が、表情が、下田さんの手によって浮かび上がる。

展覧会は8日に開幕し、約30人の肖像画や滞在中の様子を収めた写真や動画が並んだ。訪れた人は見知った顔を見つけては「いい表情」などと感心しきり。下田さんが描いたアケビやシイタケの絵をTシャツとバッグにプリントした町オリジナルの品も完成した。

 

 

 

高知新聞:2017年10月26日

とさちょうものがたりの日々の取り組みを「当たり前を強みや誇りに変える“再発見”の取り組み」と称してくれたことは、とてもうれしいことでした。今の町の姿があるのは、こつこつと大地を耕し、周りの人とのつながりを大切にしながらこの地を引き継いできた先人たちがいたからです。そのことをいつも心に置いて仕事をしていきたいと私たちは考えています。

魅力再発見

なぜ笑顔の絵ばかりなのか。

先日、土佐町で町民の肖像画を描いた画家の下田昌克さん(50)=東京都=に問うた。
すると、「みんな笑顔なんだもん」。

自分も描いてもらって理由が分かった。それは下田さんの無邪気な笑顔が目の前にあったから。恐らく誰もが頰を緩めてしまうのだろう。出来上がった自分は自分でも気付かない新鮮な表情だった。

下田さんが製作した肖像画は町内で29日まで展示されている。初対面で描くのは得意ではないそうだが、今回「(人との距離が)壁がなくて近い。超楽しかった」とモデルの魅力を存分に引き出していた。

下田さんを招いたのは、町の魅力を発信するプロジェクト「とさちょうものがたり」を立ち上げた地域おこし協力隊の石川拓也さん(43)。写真家として世界を旅し、レディー・ガガさんらを撮影した華やかな経歴もあるが、「生きていくための全てが土佐町にある」と昨夏移住した。

石川さんは町民性や文化もブランド化できると信じる。下田さんらプロの感性を通じ、住民が町の魅力を再確認するきっかけにしてほしいと願う。当たり前を誇りや強みに変える“再発見”の取り組み。必ず発信できるものが見つかるはずだ。

 

 

【ミュージシャン西村ユウキさん 土佐町平石地区の旧平石小学校でライブ 2017年10月21日】

高知新聞:2017年10月18日

北海道出身で東京都在住のミュージシャン・西村ユウキさんライブの告知記事です。実行委員会から土佐町の歌を作ってほしいと依頼し、西村さんは滞在中に街中から山の中まで回りました。果たしてどんな「土佐町のうた」ができるのか…?この時は全く想像もできませんでした。

 

高知新聞:2017年10月24日

ライブ直前に完成した「土佐町のうた」。西村さんが生みの苦しみを味わっていた姿を思い出します。多くのお客さまが涙を流しながら西村さんの歌声に耳を傾けていました。土佐町の皆さんに愛される歌となっていきますようにと願っています。

土佐町の歌できた ミュージシャン西村ユウキさん 

人、町のぬくもり表現

【嶺北】♪ここで暮らす 君やあなたが嶺北の山となり、川となる 土佐町の物語
ミュージシャンの西村ユウキさん(32)=横浜市=がこのほどライブで訪れた土佐郡土佐町の歌を滞在中につくり上げた。豊かな自然や温かい人情を表現した 曲は「家族に会いたくなるような歌」と町民に好評だ。

西村さんはアコースティックギターの弾き語りで知られるフォークロックシンガー。土佐町の魅力を発信する町プロジェクト「とさちょうものがたり」などでつくる実行委員会がライブを企画し、西村さんの感性を通して地域の良さを引き出してもらおうと、作詞作曲も依頼した。
18日に同町入りした西村さんは住民らと触れ合いながら町内を巡った。
「山の麓に人のぬくもりがぎゅっとしている」と感じ、歌の構想が固まったという。同町地蔵寺の平石コミュニティセンターで21日に行われたライブでは約10曲を熱唱。ラストの曲として土佐町の歌を柔らかなハスキーボイスで切なく歌い上げた。
♪とても小さなぬくもりが 一つの屋根で暮らしてる いつか大きくなったなら きっと君も気付くのだろう
ヨイショ ヨイショと腰をかがめ 母がまいた小さな種が 君やあなたになったのでしょう 土佐町に咲くのでしょう

棚田の風景や、同町相川地区に伝わる「土佐芝刈り唄」から「ヨイショ」のフレーズを取り入れた。曲が完成したのはライブのリハーサル10分前だったという。
歌を聴いた地元の岡本未梨さん(25)は古里を離れていた時の記憶がよみがえったといい、「両親が『ヨイショ、ヨイショ』と頑張ったき、今があるんだなと感じた。家族に会いたくなるような歌」と感激した様子。西村さんも「良い出来。アルバムに入れたい」と笑顔だった。

 

 

 

高知新聞:2018年3月7日

下田さんが滞在した一週間をちゃんと形にして残しておきたい、多くの人たちに届けたいという思いから生まれたのが「とさちょうものがたりZINE」でした。「下田昌克、土佐町を描く」と題した01号をスタートとし、現在05号まで製作しています。そして、西村ユウキさんが平石小学校で行ったライブCDを作り、販売も開始しました。この記事をきっかけに高知市内の図書館オーテピアから「とさちょうものがたりZINE」と西村ユウキさんのライブCDを図書館に置きたいと連絡をいただいたのですが、森本さんはそのことをまるで自分の事のように喜んでくれました。

土佐町の風物、笑顔凝縮

【嶺北】土佐郡土佐町の魅力を町内外に発信する町のプロジェクト「とさちょうものがたり」にちなみ、町民らの似顔絵をまとめた冊子と「土佐町のうた」を収録したCDが出来上がった。似顔絵は「絵描き」として活躍する下田昌克さん=東京都、曲はアコースティックギターの弾き語りで知られる西村ユウキさん=横浜市=が手掛けており、アーティストの手で輝きを増した人々の笑顔や町の風物に心が和む。

2人は昨年10月に相次いで来町し、数日間滞在して、人や自然と触れ合いながら作品を制作した。
下田さんの似顔絵を収めた冊子は、プロジェクトの活動報告として不定期発行する予定の第1弾で、タイトルは「とさちょうものがたりZINE」。今回はA4版46ページに37人の笑顔が並び、下田さんの滞在中の様子が伝わる写真と文章も添えた。
CDには、ミュージシャンの西村さんが町内の旧平石小学校で行ったライブ音源を収録した。西村さんが滞在中に作った「土佐町のうた」も入っている。
町地域おこし協力隊で「とさちょうものがたり」編集長を務める写真家の石川拓也さん(43)は「アーティストと町民で作ったもので、町の魅力が伝わると思う」と話している。

冊子は嶺北地域の役場や図書館などのほか、高知市の金光堂書店本店や高知龍馬空港でも配布。CDは1枚千円で、土佐町の青木幹勇記念館などで販売している。

 

 

【シルクスクリーンとくるくる市 2018年2月24日】

高知新聞:2018年2月21日

シルクスクリーンでの初イベント告知記事です。版の中から好きなものを選んで自由に印刷ができるようにし、町内外の多くの方に楽しんでいただくことができました。

 

 

【とさちょう写真展 2018年6月2日〜30日】

高知新聞:2018年5月27日

とさちょうものがたり編集長である石川の写真展の予告記事です。

 

高知新聞:2018年6月13日

写真展には「新聞を見て来ました」というお客様が本当にたくさんいらっしゃいました。布に印刷した写真が風に揺れる中、床に腹ばいになってカメラを構える森本さんの姿が今でも心に残っています。

土佐町の人、空気切り取る

【嶺北】土佐郡土佐町土居の青木幹勇記念館で、写真家で町地域おこし協力隊の石川拓也さん(43)による「土佐町写真展」が行われている。町民や景色、その場の雰囲気まで切り取ったような写真を布に印刷。つるされた48作品が風に揺れている。30日まで。

石川さんは世界各地を旅し、雑誌や広告で著名人らの撮影もしてきたが2016年に同町に移住。昨年6月からは町の魅力を発信すするプロジェクト「とさちょうものがたり」を立ち上げ、写真や記事を掲載している。

写真展には、全町民の肖像を撮る「4001プロジェクト」や、町広報誌の表紙に使われた景色などの写真を縦120センチ、横80センチの布に印刷。洗濯物のように上からつり下げ、外からの風で揺れるように展示した。

撮影された筒井政利さん(91)と重子さん(89)夫妻=地蔵寺=は「普段着のままの素顔が写っている」と笑顔。訪れた町民は「当たり前と思っていた町がこんなにすてきだと驚いた」と話していた。

ほかには四季の動画「キネマ土佐町」を上映。町内の障害者就労支援事業所と共に作るロゴ入りポロシャツなども販売している。

 

 

【とさちょうものがたり】

高知新聞:2018年5月28日

とさちょうものがたりの取り組み全体を紹介するこの記事は、四国4社の新聞に掲載されました。ウェブサイトから始まったとさちょうものがたりが、多くの人やものごとと出会うなかでシルクスクリーン事業を立ち上げ、障がい者就労支援施設どんぐりのメンバーさんが印刷することでメンバーさんの賃金となる仕組みを作ることができたのは、私たちにとってとても大きなことでした。それは、ウェブサイトと実際の暮らしが結びついた瞬間でもありました。この記事を読み返すと、シルクスクリーンを始めたばかりの頃の初心を思い出します。

【地域を創る 四国を拓く  四社連載企画】

町の魅力を再発見  とさちょうものがたり(土佐町)

「あなたの町はどんな所?」と問われたらなんと答えますかー。

豊かな自然、人のぬくもり…。土佐郡土佐町のプロジェクト「とさちょうものがたり」が伝えようとするのは、一言では言い表せない町の魅力だ。それを映像や文章、デザインなどあらゆる手法を用いて、町内外に発信している。

仕掛け人は、まちが2016年に地域おこし協力隊として雇用した写真家の石川拓也さん(43)=千葉県出身。世界を旅し、雑誌や広告の世界で活躍していたが、「自分の見たい世界がここにある」と、人口約4千人の土佐町に移住した。

石川さんは「田舎には何もないと住民は言う。だけど、東京都は違う価値観があり、これからそれが大事になってくる。まず住民に自分の町を再発見してもらいたい」とし、「とさちょうものがたり」を始めた。自身や住民が書いた様々な町の記事をウェブサイトで発信する。

町内の美しい景観を撮影し、ポストカードや動画「キネマ土佐町」として公開。全町民の写真を載せようという「4001プロジェクト」も継続中だ。

住民が寄せた記事も味がある。1950年代生まれの執筆者によるリレーコラム、母が受け継いで来た料理の作り方、古い写真にまつわる人の記憶、好きな本の紹介ーなど、読み進めると土佐町民の暮らしの息遣いが感じ取れる。

活動はウェブサイト上にとどまらない。国内外で活躍する画家や歌手を招いたイベントを開催。町の魅力が彼らを通してロゴや絵、歌などに形を変え、町に残っている。谷川俊太郎さんの絵本の挿絵などを担当した下田昌克さん(50)=東京都=の来町は、新たな事業創出につながった。

下田さんの絵をプリントした服などをイベントで販売したところ好評で事業化することに。今年4月から町内の障がい者就労支援事業所「れいほくの里どんぐり」にプリント業務を委託し、絵と町のロゴが入った衣類の受注生産を始めた。

作業する利用者の反応も上々で、事業所管理者の上田浩子さん(40)は「(利用者の)工賃アップになり、職員以外の人とも関わることができる。協力して事業を大きくしていけたら」と期待を寄せる。

石川さんは「自分たちが面白がって、町の人が喜んでもらえることをやりたい。(町の魅力のような)輪郭のないものは、小さな話を集めると見えてくる」と話す。土佐町の物語を紡いでいくプロジェクト。今後、ストーリーがどう展開していくか、まだ誰も知らない。

 

 

【窪内隆起さんの連載「山峡のおぼろ」がZINE04号に】

高知新聞:2019年8月22日

とさちょうものがたりで「山峡のおぼろ」と題し、土佐町で過ごした子ども時代の思い出を書いてくださっている窪内隆起さん。この連載が「とさちょうものがたりZINE04」として一冊になりました。そのことについて取材したいと、森本さんはとさちょうものがたり編集部の鳥山と共に窪内さんのご自宅へ伺いました。以前、産経新聞の記者をされていた窪内さんと話が弾み、取材は4時間にも及びました!

土佐町の記憶 ウェブ連載  87歳幼少期の苦楽つづる
司馬遼太郎さんの元編集者 窪内さん(高知市)

【嶺北】土佐郡土佐町出身で、産経新聞記者時代に作家の司馬遼太郎さんの担当編集者を務めた窪内隆起さん(87) = 高知市一ツ橋町=  が、ウェブサイトに古里の思い出を連載している。山川での遊び、銃後の生活…。平易で温かみのある筆致から、貧しくとも自然と人の絆で満ちた山あいの暮らしが浮かぶ。

窪内さんは1955年に産経新聞大阪本社入り。65年に文化部に配属され、同紙で「竜馬がゆく」を連載中だった司馬さんの担当となった。続けて「坂の上の雲」が始まったが、窪内さんは父親の大けがを機に69年に退職し帰郷。その後も96年に司馬さんが亡くなるまで交流は続いた。

ウェブサイトは土佐町の魅力を発信するプロジェクト「とさちょうものがたり」。同町在住の写真家、石川拓也さん(45 )ら編集部が昨秋、窪内さんに執筆を依頼した。

戦前を知る人が減っていくことを案じていた窪内さんも快諾。「山峡のおぼろ」と題して昨年11月から連載しており、編集部はこのほど、20話分をまとめたA4版、48ページの冊子「ZINE04」も発行した。

これまでの各話は、窪内さんが12歳まで過ごした土佐町西石原(旧地蔵寺村)での出来事が中心。初めてアメゴを釣った「モリタカ渕」、飢饉食の彼岸花団子を作ってくれた「おゆうばあちゃん」などは克明な記憶で、当時の情景を生き生きと伝える。出兵先で死を覚悟した父親から送られてきた爪と毛髪を見た時の思い、家族の取り乱す様子など、生々しい戦争の影もつづった。

窪内さんは執筆中、産経新聞退職の際に司馬さんから贈られた色紙の言葉「婉なる哉故山 独坐して宇宙を談ず」が頭から離れなかったそう。故山は古里、宇宙は世間の意味で、司馬さんは「美しい古里でいろんなことをゆっくり考えたらいい」と話したという。

連載について窪内さんは、「戦争による日本の大きな悲劇、苦しい時代が忘れられていく気がしていた。文字に残すことが大事だと思った」。全40話の予定で、今後も随時掲載していく。

「ZINE04」は土佐町内などで無料配布しているほか、高知市の金高堂などで1部600円(税別)で販売もしている。

 

 

【とさちょうものがたりin高知蔦屋書店 2019年11月16日・17日】

高知蔦屋書店でのイベント告知記事です。この記事が掲載されたその日から、さば寿司と布ぞうり作りのワークショップ申し込みの電話をひっきりなしにいただき、編集部はうれしい悲鳴をあげました!当日もたくさんのお客さまが足を運んでくださり、高知新聞の力を思い知りました。

 

【土佐町ベンチプロジェクト 2020年1月20日】

嶺北の木を使って、土佐町の職人さんたちにベンチを作ってもらった「土佐町ベンチプロジェクト」。ベンチを保育園へ設置し、その次の日に取材に行った森本さん。そのまた次の日には高知新聞にこのベンチの記事が掲載されました。ベンチを届けると「新聞にでちょったなあ」と声をかけてくれる町の人たち。町内40ヶ所に置かれたベンチに町の人たちが座っている風景を見ると、とてもうれしくなります。

手作りベンチで交流を
土佐町 地元職人が40台製作

【嶺北】ベンチで町を活性化?土佐郡土佐町の大工ら職人が手掛けた木のベンチが町内に増えている。2019年度内に40台を順次、各地区や人の集う場所などに置く予定。設置した町役場は「嶺北産材のベンチを置くことで、人々が交流を図りやすくなれば」と期待している。

同町が参考にしたのは、米フロリダ州セントピーターズバーグで約100年前、緑色のベンチを数千台設置した「グリーンベンチ」の考え方。ベンチがあることで人々が座り、交流が生まれ、その景観が観光名所にまでなったとされる。県の「木の香るまちづくり推進事業」の半額補助を活用し、約170万円で実施した。

町は嶺北産のスギとヒノキを使ったベンチの製作を町内の職人に依頼した。「作ったベンチが地元で喜んでもらえるのは幸せ」と、ふすま製造業の池添篤さん(52)。町内の大工や建具職人6人とともに、昨年11月、約1週間かけて製作した。

完成したベンチは長さ180センチ、高さ約40センチで、白木から優しい香りが漂う。町は昨年末から同町田井のころろ広場やみつば保育園、土佐町小中学校のほか、各地区で設置を進めている。

 

森本さんの記事の数々

思い返せば、森本さんはいつもそっと伴走するように、とさちょうものがたりの取り組みに心を寄せ、現場に足を運んでくれました。森本さんが書く記事に対する信頼は揺るぎないものでした。それは私たち編集部だけではなく、嶺北4町村の多くの人たちが感じていたことであったと思います。

編集部にとって、森本さんという人に出会えたことはかけがえのないことでした。その思いはこれからも変わりません。

森本さんは2020年4月から高知新聞本社の報道部へ異動となりました。でもきっと、どこにいようと嶺北へのまなざしは持ち続けてくれていると思います。

森本さん、本当にありがとうございました。いつでも遊びに来てくださいね。待っています!

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
【ベンチを作ってくれた7人の職人さんたち】
写真後列左から:筒井浩司さん・澤田明久さん・森岡拓実さん
写真前列左から:池添篤さん・大石淳一さん・山中晴介さん・小笠原啓介さん

 

以前、自衛隊員として仕事していたという大石淳一さん。
池添さんと知り合い「30歳になって年齢的にもう転職はできん。“いい加減にちゃんとせえよ”と喝を入れられ、“よっしゃ、頑張るわ”と大工を続けてきた」と言います。

今回のベンチの製作は、 “げっちゃん(池添さん)”に誘われて、ちょうど予定が空いてたから。やっぱり助け合いよ。情が違うけ。こんまい(狭い)中でやるには 困っちょったら助け合わんと。それが田舎やけ

今回のベンチの作業は、冗談も言いながらの余裕がある仕事で、和気藹々できたとのこと。そして、その仕上がりは完璧。

やるべきことはやり、真剣にやりゆう中にここはかまん(かまわない)という時がある。現場は楽しくなかったらいかん。俺はそういう考えやけ

 

大石淳一さん

町のあちこちにベンチを届けると「これはいい木を使ってるにゃあ」「しっかりよくできちゅう」と何人もの町の方たちが声をかけてくれました。そう言ってくれたのは、木に関わる仕事をしている方や町の職人さんたち。長年プロとしてやってきた方がかけてくれたその言葉の数々に、このベンチはとてもよいものなのだとあらためて実感しました。

でもきっと、このベンチを作ってくれた職人さんたちは「よいものであるのは当たり前だ」と思っているでしょう。助け合いながら、仕事への覚悟を貫く職人さんたちの魂ある姿に、ただただ頭がさがる思いです。

 

 

嶺北高校卒業後、2年間専門学校へ通い、20歳で大工として家を継いだ小笠原啓介さん。「最近やっと、大工になってよかったと思えるようになった。ありがとうと感謝できるようになった」と話します。

左:池添篤さん 右:小笠原啓介さん

小笠原さんは現在40歳。家業である大工を継ぐかどうかの選択を自らした訳ではなく、“継ぎなさい”と言われた訳でもなく、ただ自分がどうしたいのかがわからなかった。自分の意見を言える人間ではなかったと言う小笠原さん。それでも大工を続けてきたのは、なぜでしょうか?

なんやろね?…負けたくないというところができたのだと思う。それは、カンナ。最近、やっと親方に認めてもろうた。それまでは親方がしていたところを “お前削ってみろや”と言われた。カンナで削ることは大工としては一生もの。

カンナで削ることだけは誰にも負けたくない。小笠原さんはその一心で、いつ仕事が来てもいいように常にカンナを研いでおき、誰にも負けない刃を作っていたとのこと。カンナは小笠原さんにとって、大工として生き抜くためのいわば武器だったのです。

柔らかい表面削っていて急に硬くなる時がある。それをいかに削るか。そういう時は秘密がある。それはやった人しかわからん。カンナがあって歯があって、引っ張ったら吸い付く感じ。切れてることが伝わってくる。カンナは手工具なので、伝わってくるものは自分にしかわからない。それは機械にはできないこと。手でやるしかない。

それを誰がやる?それは俺がやる。ほんと、そこだけ。カンナだけは負けたくない。ここだけは譲れない

 

お互いの良さを認め、日々「あいつには負けん」と切磋琢磨する職人の世界。ふと頭をもたげてくる自分への楽観を振り払うように、目の前の仕事にひたむきに向き合ってきた人だけが持てる眼があるのではないでしょうか。

自分がやってきたことに対して、今やっと感謝できるようになった。今回のベンチも、色々な人と仕事できたのが嬉しくてね。こんなの初めてやった。それはみんなのおかげ。前だったら、言いたいけど言えんことやった

 

目を少し赤くしながら、小笠原さんは最後に話してくれました。

人間は木がないと生きていけない。森林があるということは、二酸化炭素を酸素に変えてくれるということ。素晴らしいんで木は。それは昔からの根本的なことで、木があってこそ人間の暮らしがある。暮らしには家が必要で、家を建てる人が必要で、暮らしはそういうことかなと思う。人はいつか死ぬ

日々の感謝を言えることが一番大事やなと思うし、感謝してるからこそ言える。循環してるんやなあと思う

 

町のあちらこちらに置かれたベンチはこれからきっと町の一部になっていくことでしょう。

山があり、技術ある職人さんたちがいるこの地だからこそベンチを作ることができました。

嶺北の木を使い、土佐町の職人さんが作ってくれたベンチを土佐町の人が使う。このひとつの循環が、町の人たちを繋ぐようなかたちになればとても嬉しく思います。

 

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
私の一冊

鳥山百合子

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone

「死んだかいぞく」 下田昌克 ポプラ社

2020年2月に下田さんが土佐町に来てくれた時、出版されたばかりの「死んだかいぞく」にサインをしてくれました!

目の前で描かれるクジラや魚たち。下田さんの世界です。

「死んだかいぞく」を初めて広げた時に何より驚いたのは美しい海の色でした。酔っ払って刺された海ぞくが深く沈んでいくにつれ、海は緑がかった青からあい色、むらさき、黒色へ…。

実は一年前、2019年の1月にも下田さんが土佐町に来てくれた時に「今、この絵本を作っているんだ」とスケッチを見せてくださったのですが、それがこの「死んだかいぞく」のスケッチでした。鉛筆で描かれていた白黒のスケッチが、一年後の今、鮮やかな一冊の本となって目の前に現れました。

下田さんが描き、色を重ねた海や魚たちが、下田さんがこの絵本と向き合った軌跡を伝えてくれているようで、絵本を広げてはただただ見入ってしまいます。

鳥山百合子

 

*今年2月に下田さんが来てくださった時の様子はこちら!

下田昌克さんが土佐町にやって来た!2020年(1・2日目)

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
【ベンチを作ってくれた7人の職人さんたち】
写真後列左から:筒井浩司さん・澤田明久さん・森岡拓実さん
写真前列左から:池添篤さん・大石淳一さん・山中晴介さん・小笠原啓介さん

 

土佐町のあちこちに置かれたベンチに、もう座っていただいたでしょうか?
もし今度ベンチに座ったら、ベンチの縁や角を触ってみてください。全くチクチクしませんし、とても滑らかで気持ちよく座ることができます。

なぜでしょう?

それは、鉋で丁寧に面取りがしてあるからです。
ベンチの天板と脚の面取りをしてくれたのは、大工である森岡拓実さん。

面取りするのは大変な作業であったと想像しますが、「座る人にとって、その方が心地いいから」とさらりと話してくれました。

使う人にとって良いものなのか?それが一番大事。
常に作るものの向こうにいる人のことを考え、それに基づいた仕事をする。筋の通った姿に心打たれました。

森岡拓実さん

森岡さんが大工になったのは、現在88歳で現役の大工であるおじいさんの影響がとても大きかったそうです。小学生の頃から物づくりが好きで大工になりたかった拓実さんは、おじいさんの元で10年ほど修行した後に別のところでも修行し、今は左官の仕事も勉強しているとのこと。大工とは異なる仕事をすることで、今まで見えていたものが全く違うように見えるようになったそうです。

大工でも左官でも何でもやりたい。ベンチの仕事で初めて建具屋さんの道具を使ったけど、建具屋さんと大工の使う道具も技術も全然違う。木の使い方も大工の使い方も、晴介さんは全部わかっちゅう。負けたくない

森岡さんは「技術者になってものづくりができるのがよかった。自分に合っていた」とも話します。色々な技術を身に付けることで自分のできることが増え、ものの見方も仕事も広がっていく。

今回のベンチみたいに、もっとみんなで一緒の仕事したら面白いよね。なかなかないよね、こんな機会。もっとあったらいいのにね。そのそれぞれのいろんなものが出てくるもんね

町に置いてあるベンチを見たら、自分が作ったんやと思う。“自分がやった”と自分の中に残る

ものづくりは自分だけで完結するのではなく、作ったものが次の誰かとつながるものとして世の中に現れます。このベンチはこれからどんな風に繋がっていくのでしょう。

 

 

7人の大工さんの中には20代と、30代になったばかりの大工さんがいました。

お父さんが大工だったという澤田明久さんは大工になって12年。大工になったのは、父親の姿を見ていたことが大きかったのではないかと言います。18歳で工務店に入り、その後大工として独立、一人で仕事を請け負い、現場に立つようになりました。澤田さんが自分の腕で食べていけると思ったのは、仕事を始めてから5年ほど経ってからだったそうです。

大工の仕事は好き。基本的に自由だけど、もちろん工期は守らないといけないし責任がある

工務店で働くことと独立して働くことの一番の違いは、責任だと言います。基本的に一人でやる現場が多いので、任された現場はいつも自分次第です。

澤田さんは「自分だけの責任」と何度も話しました。今の仕事が次の仕事につながる。逆を言えば、今の仕事次第で次の仕事がなくなるかもしれない。一人で立つことのその重圧たるやその人自身にしかわからないものでしょう。腕一本で仕事の責任をひとつずつ果たしていくことでしか、自分一人で立つ軸は作れません。

「ベンチの製作はとても楽しかった。みんなで集まって仕事するのは初めてで、やれてよかった」と澤田さんは話してくれました。

『ベンチは楽しかった』
これは澤田さんをはじめベンチを製作してくれた職人さんが皆、口を揃えて言ってくれたこの言葉は、職人の皆さんが日々一人で立っているからこその言葉だったのだと後から気付きました。

 

 

筒井浩司さん

7人の職人さんの中での一番の若手、筒井浩司さんもお父さんが大工さんだったとのこと。

高知市で修行を始めてから2年間、ずっとやめたいと思っていたそうです。建築に使う材料の名前を覚えるのもしんどく、間違えたら親方に怒られる。修行を3年半続けた後に土佐町に帰ってきて、今は土佐町地蔵寺の工務店でお父さんと共に仕事をしています。

土佐町へ帰ってきてから、現場で施主さんが休憩になったらお菓子やお茶を構えてくれたり、その日の仕事を終えて帰る時には“お疲れさま”と言ってくれることに救われるような思いがしたそうです。

“ありがとう” “お疲れ様です” と言われることは職人冥利に尽きる。そのために仕事をしているなと思う。僕ら職人は金額以上の仕事、プラスアルファのことをしたいんです

このお話を聞いたのは、ベンチの製作を終えた飲み会の席でした。

先輩たちがこうやって話してくれることがとても嬉しい、お酒を飲んでいうてくれることが本音だと思う。先輩の言うことがみんな身になる。

地に足をつけながら仕事を重ねている若い職人さんがこの町にいることが、何だかとても誇らしく思えました。

(「土佐町ベンチプロジェクト⑧職人さんの話」に続く)

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
【ベンチを作ってくれた7人の職人さんたち】
写真後列左から:筒井浩司さん・澤田明久さん・森岡拓実さん
写真前列左から:池添篤さん・大石淳一さん・山中晴介さん・小笠原啓介さん

 

嶺北の木を使い土佐町の職人さんがベンチを作る「土佐町ベンチプロジェクト」。

ベンチを作ってくれたのは土佐町で暮らす20代から50代の職人さんたち。作業中、息がぴったりだった職人さんたちですが、普段は個人で仕事を請け負っていることがほとんど。チームでひとつの仕事をするのは今回のベンチの製作が初めてだったそうです。

40個のベンチが完成した後、7人の職人さんたちに話を聞きました。

 

7人の職人さんたちの中で一番の年上、襖屋さんである池添篤さんは、町の人たちに「げっちゃん」と呼ばれ慕われている兄貴のような存在。今回のベンチプロジェクトでは、土佐町建築業組合の長である池添さんが職人さんたちに声をかけ、7人のチームを作ってくれました。

 

左:池添篤さん 右:小笠原啓介さん

 

この人と一緒にやりたいなという人に声かけた。この世代に頑張ってもらわんことには土佐町、嶺北の家は保てない。みんなでやって繋がりができていく。一緒にやっていかんことには生きていけんきね。子どもの世代、孫の世代が土佐町でどうやって生きていくか考えて繋いでいかないと。その思いをみんながわかってくれちゅうのが嬉しい。

 

池添さんは若い頃から「世間の理想ではなく僕の理想でやりたい」と先輩と喧嘩もしながら仕事をしてきたそうです。今、先輩と呼ばれる立場になり、どんな思いで現場を見つめているのでしょう。

どんな仕事でも基礎が大事。あの人に話をしてなかったとか、その人に話ができてなかったから文句が出たということにならないように、基礎の部分を大事にしていったら最後はうまくいくし、綺麗な仕事ができる。1人ずつへの配慮が着実に仕事に現れる

 

それは職人さんの世界に限らずどんなことにおいても欠かせない土台です。その積み重ねが周りの人との信頼関係を作り、それによって自分の場所もつくられるのだと感じます。

普段の仕事でも面白くない仕事でも、一人でやりよったら面白くない。でも何人かでやったらそれも面白くなる。ごじゃ(冗談を)言いながらでも、そうやって面白くない仕事を一生懸命やる。本当に面白くない仕事もあるんで!それを共感してくれる、共有してくれる人がいると仕事も楽しくなる。笑い飛ばせる

「僕はみんながやってくれると信じて頼んじゅうき!」と言いながらガハハと笑うげっちゃん。この池添さんの元、職人さんたちが集まってベンチが作られたのです。

 

 

今回のベンチ製作では、職人さん全員が口を揃えたようにこう言っていました。
「このベンチは晴介君がおらんとできなかった」

晴介君こと山中晴介さんは土佐町で唯一の建具職人。建具職人は家の中の仕切りである戸や襖、窓などを作る、精密さと細やかな配慮が求められる仕事です。

左:山中晴介さん 右:大石淳一さん

 

建具はちゃんと開け閉めできるのが当たり前。建具が入ってから3ヶ月で暖房や温度差で木が収縮したり反り出したりする。それを見越して、ミリ単位で木がどちらに反るかを見極めて作らんといかん

今回のベンチは川田康富さんが作ってくれたモデルを元に、山中さんが木を加工し、効率の良い段取りを考えてくれました。

中さんは若い頃から左官や木工の仕事の経験を重ね、今は建具職人として、そして大工としてもさまざまな仕事を請け負っている山中さん。

自分のセンスで新しい建具をゼロから作ることができるき、自分のオリジナルを作れる喜びがある。“この現場はめっちゃ綺麗にできた、施主さんも喜んでくれちゅう!嬉しい!”って思う。でも…、作るまでめちゃくちゃ気を使う。それはすごいやちゃ!

 

山中さんは「建具はめっちゃ気を使う」「黙々と1人でやるから集中してすごい疲れる」と何度も繰り返し話していましたが、それは本音であり、職人としての誇りからくる言葉でもあるのだと思います。

自分のした仕事を評価してくれるのは施主さんの価値観だけやき。それが厳しいところ。自分でよしと思っても、イメージが違うと言われることもある。価値観の差があるきね。現場は“価値観=値段”の世界やき

 

「土佐町の建具職人は俺しかいない」
山中さんが自分に言い聞かせるように繰り返していたこの言葉。その事実への覚悟の元に生まれる仕事が、周りの職人さんからの信頼に繋がっていることが伝わってきます。

 

(「土佐町ベンチプロジェクト⑦職人さんの話」に続く)

 

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone

嶺北でとれた木材を使い、土佐町の職人さんにベンチを作ってもらいました。土佐町の人々が座って豊かな時を過ごすために。

2020年3月、土佐町のあちらこちらに40個のベンチの設置が終わりました。

 

2019年11月26日、ベンチ製作の現場に伺いました。

建具職人である山中晴介さんの作業場では、職人の皆さんがそれぞれの持ち場で仕事をする音が響きます。

嶺北の木を使って製作されるこのベンチ。この時すでにベンチの脚や幕板は完成され、この日は最後の工程である組み立てを行なっていました。

脚の組み立ての現場は、山中晴介さんと大工である大石淳一さんが担当していました。

ベンチの脚のほぞ穴にボンドを入れる

 

3つのベンチの脚を組み合わせていく。脚のほぞ穴と幕板のほぞをハンマーで打ち付けて組み立てる

 

ベンチの脚を支えるつなぎ貫を組み合わせる

 

組み合わせた脚をハタガネでしっかり固定し、釘穴をあける

 

*山中晴介さんが使っている銀色の物差しのような道具は「ハタガネ」。昔からある道具なのだそうです。

道具①ハタガネ

 

 

ひっくり返し、つなぎ貫にも釘穴をあける

 

平らな場所へ置いた時にガタガタしないか確認する。「今の段階でねじれを治しとかんと。このベンチは6本脚やけ、地面がよっぽどまっすぐでないとどうしてもガタガタするきね」

 

この工程を約5分で行うおふたり。迷いなくテキパキと組み立てていきます。

組み立てるベンチの脚と幕板とつなぎ貫には「ほぞ穴」と「ほぞ」があるのですが、それぞれに「ほぞ穴」と「ほぞ」を付けたのは建具職人である山中晴介さん。ほぞ穴とほぞが気持ちがいいほどピタリ合い、スムーズに組み立てられるのも「建具職人である山中晴介さんの仕事があるからこそ」と大工の皆さんが口を揃えて話していました。

木は雨が降ると膨らみ、日に当たって乾燥すると元に戻って縮む。そういった木の特性を考え、木の木目などを見て、ほぞ穴とほぞの付け方を微妙に調整しているのだそうです。

まさに職人技!

土佐町ベンチは、職人のみなさんの知恵と技術でできています。

 

(「土佐町ベンチプロジェクト ④ベンチの組み立て 」に続く)

*ベンチを作ってくれた7人の職人さんです。

7人の職人さん

 

 

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
山の手しごと

シシ肉をいただく

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone

2月のある日、土佐町栗木地区の近藤雅伸さんから電話がありました。
「シシ肉、いるかよ?」

二つ返事で、近藤さんの家へ向かいました。

家の作業場には机がわりの大きな板があって、その上にはいくつもの赤い塊が置かれていました。捌かれたばかりのシシ肉です。

 

近藤さんは捕らえたイノシシの牙を見せてくれました。イノシシは雄で140㎏位あったそうです。牙があるのは雄だけ。写真の白いものが牙、牙の下に沿うように合わさっている茶色の部分は「砥石」。イノシシのオスは、自らの牙を「砥石」で擦り合わせ、研いでいるのだそう。牙は、いわばイノシシが生き抜くための武器。イノシシは、己の武器を日々磨き上げているというわけです。

お互い生きちゅうんやきね。できるだけ鉄砲使わず、自分の手で刺して殺す。人間はこっちが文明の利器を持っちゅうき有利で。でも、相撲を取ってでもかまんという気持ちがなかったら相手も命やき。こっちも命がけ、あっちも命がけ。その中で獲りゆうことやき。弱者をいじめたという感覚で猟はしよらんきね

むやみやたらに取ってるわけじゃない。なんでも命やきね。人間は生物の頂点におるわけやき。必要以上に命を取ることはしよらんきね。駆除のため、食べるがためには獲るよ

「何が正しくて何がダメなのか、それは全てに通じることやけ。それだけの考えを持ってせんと」

近藤さんは、そう話してくれました。

 

ナワバリ

近藤さんは20歳から猟を始め、現在50年以上経過。昔は山に“ナワバリ”があり、そこには掟があったとのこと。現在も掟があることにはあるそうですが、人や地区との繋がりが少なくなり、どこでも獲ってかまわないという感覚の猟師が多いと言います。

車社会になり山に道路ができ、何処へでも行けるようになったことで、猟の方法も人との関係も変化していったのでしょうか。

近藤さんが猟を始めた頃は車もなく、近くにイノシシがいなかったので、猟をする仲間と共に歩いて山へ入ったそうです。

ひとつの和というものがなかったら、猟のグループはできにくい。今の猟は個人個人でするものになってしもうた」。

 

 

今は無線を使って猟をしている

昔は無線がなかったため、猟を始める前に、“何時にここに集まる、お前は撃ち手、お前は追う役”と協議して、連絡は「ケース笛」と呼ばれるものを使っていたそうです。

鉄砲の弾が入っていた真鍮の空のケースを一本必ず持っちょったき、それを吹いて連絡をした。ピーっと甲高い音がして、回数によって意味を決めて連絡を取り合っていた 

ケース笛を持っていない時には、枯れた山のイタドリを取り、縁を少し薄く切って笛の代わりにしていたそう。

 

近藤さんの相棒である猟犬の一休

 

イノシシの足跡

近藤さんは罠を自分で作っています。イノシシの通る道は決まっているので、足跡を見つけ、その道上に罠を仕掛けるのだそうです。イノシシが道に印した足跡の意味を見極め、捕らえるには長い経験が必要だと言います。

イノシシが何を考えもって歩いちゅうか…。餌を探しに行きゆう足跡か、人を警戒した足跡か、今晩どこで寝ろうと考えてる足跡か…、見たらわかる。

イノシシの寝場は決まっていて、人が行きかからん場所にある。イノシシは夕方から明け方3時か4時ごろまで歩くき、だんだん眠くなってきて、眠い足跡になってくる。そんな時は千鳥足になっている。寝場から300mばあのところで先に大便をして、100メートルばあの場所でおしっこをして、木の葉を集めた寝場に入って寝る

他のイノシシが寝たところで寝たら寄生虫があったり、伝染病じゃというもんもシシは本能的にわかるき、同じ場所では寝んよね。ちょっとずれたところで寝る

メスが発情しだした時、オスが付き回るき、メスが寝ゆう所からちょっと見えるところでオスは寝る。それは危険を避けるため。犬がメスのシシを追うても、自分に害がないように距離を取っている

 

「生きるということはそういうことやき。先を見通していかないと、生き残っていけない。行きていくことが大事やいか」

近藤さんは、つぶやくようにそう話していました。

 

母性

イノシシは、メスの方が獲られる率が高いのだそうです。

メスには母性があるのでどうしても子どもをかばい、結果的に獲られることが多くなる。イノシシは寝場に入る前、硬いところを通り足跡を見せないようにして入るそうですが、小さな子を連れたメスのイノシシはそこまで考えられないから狙われる。

猟犬が子を咬えたとしたら、母親のイノシシは助けにむかい犬を咬え「ずりずりにしようとする」のだそうです。イノシシの母親は、自分の命を捨ててでも子を守ろうとするのです。

子を思う気持ちは人間もイノシシも一緒です。

山を植林にしてしもうたき、食べ物がないき、作物のあるところにイノシシは来る。イノシシには本当は罪はないんよ。イノシシは人が作っちゅうなんて知らんわけやき。

人間が山を植林にしてイノシシの生活は壊しちょいて、“被害があるのはいかん”と言いもって…。みんなが自分の都合のええような考え方をするきよ、こういう世の中になってしもうた

 

左の二本は猟刀。「猟師は皆、猟刀を持っている。これはイノシシの血抜きのため、それから護身のため。シシが向かって来たら、せないかん」

帰り際、近藤さんが話してくれました。

ひとつの命をみんなで分けて、“ありがとう”とみんなに食べてもらったらええんじゃないかと思って、声をかけたんよ
一つのものを大事に使うて、食べて、自分があとで後悔せんようなかたちにしていきたい

手渡してくれたシシ肉は瑞々しくてずしりと重く、臭みはありません。この赤い塊は、ついさっきまで山を駆け回っていたイノシシの体なのです。

 

 

いただいたシシ肉は、近藤さんに教えてもらったように、水から煮て、シシ汁にしていただきました。

シシ汁

①シシ肉を繊維に対して直角に、一口大に切る

②①と水を鍋に入れ、一回フ〜と沸かす。上へあくが浮くので、それは捨てる。

③水をさし、決して塩気は入れないようにしながらまた水煮をする。

「シシが大きいと硬いきね、夕方にでも煮てちょっと冷ましちゃった方が熱が通るき。ずっと煮ていって、水が少なくなったら水をさしたらいいき」

④端っこをかじってみて、食べられる柔らかさになった時に火を止める

⑤好みの具材を入れて味付けする

 

イノシシを獲り、その肉をいただくこと。それが人間の日々の糧となっていること。
大昔から繰り返されてきた生きるための営みが切り離されることなく、日常として存在していることは、今の日本の中でとても貴重なことだと感じています。

 

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
私の一冊

鳥山百合子

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone

「かえりみち」 あまんきみこ作, 西巻茅子絵 童心社

この絵本「かえりみち」は、以前紹介した「とんとんとめてくださいな」と共に、お友達や大切な人に赤ちゃんが生まれた時に贈りたいなあと思う本の中の一冊です。

女の子が道で迷子になってしまい、こぎつねが一緒に家を見つけてくれます。ところが今度はこぎつねが迷子に…。そのこぎつねを今度はこぐまが助け、そのあと迷子になったこぐまの家をこうさぎが見つけてくれます。その日の夜、それぞれの人の顔を思い浮かべて眠るというお話。

土佐町には何人も「お話ボランティアさん」がいて、保育園や小学校へ行って子どもたちに絵本を読む取り組みをしています。私もその内の一人として保育園の子どもたちにこの本を何度か読んだことがあります。

次々と迷子になる動物たちや女の子が自分の家を見つけるたびに「ああ、よかった…」とホッとした顔をし、そして「ほんとうによかったねえ」と心底そう思っている表情の子どもたちを見て、目頭が熱くなったことは一度や二度ではありません。

ふとした親切が誰かの心を灯すことがあります。きっと、その灯りは次の誰かに手渡され、また次の誰かに届けられていく。人は大切な何かを交換しながら、贈り合いながら生きている。その小さな循環の存在を、今、確かにこの場所で感じています。

毎日の出来事、ゆく道々で出会う人やものごとのひとつずつを大事にしようと、あらためて気付かせてくれる一冊です。

鳥山百合子

 

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
私の一冊

鳥山百合子

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone

「もりのひなまつり」 こいでやすこ 福音館書店

のねずみたちに「森のひな祭りをしたいからおひなさまを連れてきてほしい」と頼まれたねずみばあさんは、おひなさまを連れて森へ向かいます。

「はるかぜ ふけふけ ヤーポンポン
めをだせ はなさけ ヨーポンポン
きょうはもりのひなまつり
ピーヒャラ ピーヒャラ ピーヒャラ ポン」

こどもたちとこの絵本を読む時、森のひなまつりで歌われるこの歌を、私はなかなか良い感じに歌えます(笑)

そして、絵本のお話とはまた違ったところで、一冊の中のあちこちに散りばめられているこいでさんの“遊びごごろ”を探すのがいつも楽しみです。

ねずみがしているどんぐりの首飾りを、いつのまにかおひなさまが首に下げていたことに気付いた時の驚きといったら!

その首飾り、最後は誰が手にするでしょう? ぜひ探してみてください。

こういったところからもこいでさんという人のお人柄や、世の中を見つめる眼のあり方が感じられて、何だかとても親しみを覚えます。

鳥山百合子

 

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
18 / 39« 先頭...10...1617181920...30...最後 »