土佐町歴史再発見

土佐町歴史再発見

③ 生活用具としての火縄銃

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone

② 天下泰平の世の火縄銃」の続き

 国境警備の番所に置かれたものの他、野中兼山が平時には直属の鉄砲足軽を山林伐採に当たらせていた記録があるから、そのことと関係があるのかもしれないが、それを差し引いても多すぎる。

 一つ考えられるのは、山に暮らす人々にとって、火縄銃を手離したくない切実な事情があったのではないかということだ。戦さはなくなっても、貴重な作物を喰い荒らし、時には村人を襲う害獣との戦いである。

 村々では、害獣駆除用の火縄銃を必要としていた。戦さ経験のある者が回りの村人たちに使用法を教え、本来武器であったはずの火縄銃を生活用具に転用していったのだ。こうした山に住む人々のしたたかさ、逞しさの前に、藩も火縄銃の所有を認めざるを得なかったのではないかと思う。(庄屋や藩の下役に銃と火薬、弾丸を別々に管理させるなどの厳しい取り決めはあっただろうが

 ところで、火縄銃は、故障して使えなくなると、銃身や機関部だけが外され、新しい部品と交換したうえで使用された。それを支えたのは、領内各地にいた鉄砲鍛冶である。戸時代の土佐には、中村・久礼・窪川・須崎・佐川・本山・片地・佐古・韮生・山北・白川・北川など、各地に火縄銃を造る職人がいた。そして、森郷にも「土州森住義頭」と銘を刻む鉄砲鍛冶がいた。彼の工房には、普段は野鍛冶をする下請け職人もいたはずだ。現在資料館にある古式銃を改造したのは、こうした職人末裔ではないだろうか。

 火縄銃は、命中精度が高かったものの、雨天時にはまるで使えないという致命的な欠陥があった。しかし、幕末に欧米から洋式銃が輸入されると、その先進的な構造に刺激を受け全国各地の鉄砲鍛冶により、火縄式から管打ち式への改造が試みられた。資料館にあるのは、まさにこの時期に改造された銃だったのである。

 銃の改造箇所をよく見ると、火縄ばさみを撃鉄に付け替え、火皿を金属で埋め、雷管を付ける細工がなされている。雨天時でも点火がスムーズに行なえるよう、ち主のために銃の性能高められているのだ。

 金次第で欧米式のライフル銃が買える時代になっても、式銃を使い続けた事実は、「モノ」や「道具」に対するこの地の人々の向き合い方を示しているような気がしてならない。 たとえ記録には無くても、先人たちの知恵と工夫がたくさんつまった「モノ」が目の前にある。「モノ」から地域の歴史を見ることの醍醐味を、ここの資料館は教えてくれる。

 民具資料館は、本当におもしろい

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
土佐町歴史再発見

② 天下泰平の世の火縄銃

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone

① 民具資料館という個性」の続き

 ところで、この部屋の中で真っ先に目に止まったのは、甲冑ではなく、その脇に展示されている2挺の古式銃だった。1挺(銃身のみ)は一目で「摂津」で製造された古式銃と分ったが、もう1挺はよく分からなかった。早速、展示ケースに入らしてもらい、手にとってみた。重さ、長さともに実に扱いやすそうで、持った瞬間、これは戦さ用ではない直感した。

 学芸員をしていた時、ネタに困って「土佐の砲術史」という苦し紛れの展示会をしたことがある。今思えば経験不足の生煮え企画だったが、古銃を見る知識だけは多少付いたので、ピンときたのかもしれない。

 江戸時代の侍が「砲術稽古」で使用する銃は「士筒」(さむらいづつ)という。流派にもよるが、比較的口径が大きく、ずっしりと重く派手なのが特徴だ。それとは明らかに異なるこの素朴な銃は、城下に住む武士が扱うものではない。それによく見ると機関部のディテールも何かおかしい。

 早速、委員会の資料台帳を見せてもらった。するとこの銃は「種子島銃」(たねがしまじゅう)となっていた。「種子島銃」とは、一般的に火縄式の古式銃のことを指す。でも、この銃には火縄を装着するための「火縄ばさみ」がない。改造されているのだ。

 そもそも土佐町には火縄銃はあったのだろうか?根本的な疑問が沸いてきた。学芸員気質はこの歳になってもなかなか消えない。ムズムズしてきたのでちょっと調べてみた。

 寛保3年(1743)の『郷村帳』という藩の記録によれば、現在の土佐町を構成する村々には、多くの火縄銃があったらしい。その数、何と216挺!これには驚いた。

 土佐では、戦国末期頃より盛んに鉄砲が造られるようになった。そして、文禄(1592~1595)の頃には、領内すべての地域に標準装備されていた。長宗我部元親は「我が家中では鉄砲を撃つことは特別なことではない。家老から足軽まで誰でも撃てるからだ」と豪語したという。長宗我部氏の改易後、新国主・山内氏が入国してきたが、早々に隣の本山郷で一揆が起きた。当然嶺北地域には厳しい目が向けられ、武器もすべて没収されたはずだ。なのになぜ200挺を越える銃があったのだろう

③へ続く

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
土佐町歴史再発見

① 民具資料館という個性

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone

「ここの資料館おもしろい!」と、思わずつぶやいた。

教員として赴任してきた4年前、初任者向けの町内巡りに参加した時のことだ。

資料館の展示物はどれも控えめで、ごく普通の印象ながら、よく見ると個性的で、それぞれ奥行きの深さをもっている。そう、土佐町の子どもたちと同じだ。

 この町に来る前は、四半世紀ほど県立の資料館に勤めていた。仕事柄、全国の大規模な「資料館」や「博物館」を見てきたが、正直「おもしろい」と思ったことはなかった。豪華な美術品、最新の映像機器、精巧なレプリカを、「これでもか」と見せられても、途中で飽きてきて、「もう出よう」という気分になったものだ。

 対象的なのが町や村の小さな資料館だ。予算も人も少ないのだろう。色あせたパネルや、傾いたままの資料を見て、ハラハラすることもよくあったが、展示自体はめちゃくちゃ個性的で、「おもしろい」。

 地域の資料館は、当然地元と繋っている。「これは○○さんくのが」「○○さんはさすが職人、よう使いこんじゅうねえ」そんな声が聞こえてきそうな資料館は、まさに生きている資料館。「県立館」とは違う魅力があるのだ。

 退職後の選択肢は色々あったが、ボランティアとして、この町の資料館のお手伝いをすることにした。教育委員会の方たちと協力し、一点一点資料カード作りから始めたのたが、毎回何かしらの発見があって、実に楽しい。

 土佐町の資料館は、正式には「民具資料館」という。ただの「民具館」ではないところがミソだ。旧森少学校の2階を改造し、手前から「通史」、「衣・食・住」、「生業」などのテーマで構成される。展示品はすべて町内で使われていたものだから迫力が違う。

 なかでも心惹かれるのが、「通史」の部屋だ。手作り感満載のキャプションや、試行錯誤して拵えた展示備品の数々が、オープン時のスタッフの苦労と努力を偲ばせる。

 町立レベルで、常時甲冑を4領も出している館も珍しい。これもただの民具館ではない、「民具資料館」の面目躍如といったところか。

②へ続く

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
2 / 212