ある衛生兵の遺品② 宮村長兵衛(みやむら・ちょうべえ)

日露戦争の時に衛生隊の備品だった「行李」

「隊醫极 三乙」とある
これは滅多にお目にかかれない収納箱だ。
昨年度、「手回し洗濯機」とともに町内の宮村さんからいただいたもの。
上蓋を開けると内部の様子がよく分かる。
竹で編まれた「行李」がカンバス帆布地の布で覆われている。かなり頑丈そうなので風雨に耐えられるし、乱雑に扱っても簡単には壊れそうもない。
外側に「隊醫极 三乙」(たいいきゅう さんおつ)と印字されている。
「三乙」は恐らく大きさを示す規格で、「隊醫极」は備品名なのだろう。
宮村隆志さんのお話によれば、この資料の持ち主は、祖父の長兵衛さんだという。長兵衛さんは、旧森村の第12代村長で、助役も長く務めた地元の名士だった。(1)
宮村家では「日露戦争の時のもの」として長く保存されてきたというから、従軍した長兵衛さんが戦地から持ち帰ったもののようだ。(2)
本格的に調べてみると、この「行李」は旧日本陸軍で使用されたものだった。そして、「赤十字」が3箇所に縫い付けられていることから、戦闘部隊ではなく「衛生隊」の備品であることも分かった。

「醫极」とは、旧陸軍の衛生隊が携行した「行李」を指す。外箱は木製か革製で、衛生勤務に用いる医療機器や消耗品を収納した。
衛生隊では、「大行李」に炊飯具と糧秣(食料)を、そして「小行李」には衛生材料(消毒液や包帯)・患者被服・毛布・蚊帳・野戦用天幕を入れたという。
この資料は、その大きさから見て「小行李」と思われるから、上記の「容れ物」として戦場を行き来したに違いない。
「隊醫极」(行李)のような衛生隊の備品を一般の兵士が所有することはあり得ないから、長兵衛さんは、高知の郷土部隊・歩兵第四十四連隊所属(3)の「衛生兵」だった可能性が高い。
第四十四連隊では、職業軍人・予備役の区別なく、兵科が衛生隊所属と決まれば、大半が「高知衛戍病院」(高知陸軍病院)に送られ基礎訓練を受けた。実際、私の祖父もそうだった。
昭和4(1929)年のジュネーブ条約で、「衛生部隊及びその施設は交戦者によって保護される」(第6条)とされ、国際的に衛生兵が「非戦闘員」として規定された。
しかし、実際にはどれだけその理念は守られたのだろう。
この資料、よく見ると「赤十字章」の部分が黒くくすんでいる。
どうやら意図的に塗りつぶしたようだ。
「博愛」の象徴でもあるこの標章を、敢えて塗り潰したのが持ち主本人だったのなら、その理由を聞いてみたいと思うのは私だけだろうか。
註
(1)『森村史』(森村役場 昭和30年)では、村長在任期間を大正8年9月5日から同12年2月18日とするが、現存する「村議会議事録」によれば、大正10年2月の段階で15番議員、7月から2番議員(議事録署名議員)として活動しているから、全期間村長であったかどうかは不明。昭和12年6月からは、名誉助役に推薦され時の村長・志和守重を支えた。また、同13年2月26日の村会では、6人の地元出身兵の遺骨が帰還するため、議会の臨時休会を提案し、送迎に出た様子も記録されている。
(2)現在、宮村長兵衛が日露戦争に従軍した記録は確認されていない。だが本人が旧森村役場に提出した履歴書によれば、「明治38年3月11日陸軍二等看護長」任官とある。
(3)第四十四連隊は有名な乃木大将の第3軍に属し、旅順のロシア軍要塞攻撃にも参加。全期間を通じ2,287名の戦死者を出した。また多くの負傷兵が野戦病院に収容されたが、脚気にかかる者が続出し、死亡率も高かったという。以後、戦争における「衛生」の在り方が議論されるようになった。



