歩兵第百四十四聯隊
今回、邦美さんの自宅にうかがって話を聞いた。邦美さんは座っている傍らから、一冊の本を取り出した。茶色の布張りの分厚い本で、背表紙には金色の文字で「歩兵第百四十四聯隊戦記」と書かれている。
ページはうっすら茶色に変色し、何千何万回とページをめくっただろう手垢がついている。邦美さんはページをめくりながら、いびつな黒点がいくつも透けて見えるページで手を止めた。現れたのは「歩兵第百四十四聯隊第三中隊編成表」だった。
見開き2ページ。指揮班のもと、第一小隊、第二小隊、第三小隊があり、各小隊は第一分隊、第二分隊、第三分隊に分かれている。指揮班に邦美さんの名前があった。
表に並ぶ氏名の上に黒マジックで点がつけられている。
「この黒い丸がついちゅうのは、みんな亡くなった」
おびただしい数の手描きの黒丸は異様な雰囲気を醸し出していた。

黒い丸が並ぶ「歩兵第百四十四聯隊第三中隊編成表」
「歩兵第百四十四聯隊戦記」は700ページに及び、連隊がビルマ各地をたどった過程や、生還した方の手記が掲載されている。邦美さんの手記もある。
邦美さんが語ってくださった話には「ラングーン」「イラワジデルタ」「アレサンヨー」などいくつもの地名が出てきた。もう80年前のことであるのに、しっかり記憶されていることに驚いた。
ビルマの記憶はとにかく逃げ回っていたこと。指揮班にいたから生還できたこと。お腹が空いて仕方なかったこと。マラリアを患ったこと。そのことを何度も繰り返し話してくれた。
ここからは邦美さんのお話と手記、「歩兵第百四十四聯隊戦記」や他の資料を照らし合わせながら、邦美さんが歩いただろうビルマの道のりを辿っていきたいと思う。
ビルマへ向かう
1943(昭和18)年9月、邦美さんが所属する連隊は朝倉を出発し、福岡県の門司へ向かった。船団の都合で1週間ほど門司に滞在。9月30日、部隊は日本を発ち、ビルマ(現在のミャンマー)へ向かって出発した。乗船後に空襲や台風に遭い、約1ヶ月後、タイ・バンコクに上陸。12月初旬、タイ国から国境を越え、鉄道でビルマのラングーン(現在のヤンゴン)に入った。
内地を発ってから、邦美さんは西岡准尉の当番として輸送隊の指揮班に入っていた。ラングーンに到着すると、隊は新しく編成され、再び西岡准尉と共に第三中隊へ編入された。部隊はインドとビルマ国境のマユ半島へ向かうことになったが、西岡准尉がマラリアを患ったため、一緒に残り、お世話をした。
アラカン山脈を超えて
1944(昭和19)年の正月は、ラングーンで迎えた。西岡准尉が回復したため、邦美さんは本隊を追いかけた。
ラングーンからベンガル湾に面したマユ半島へ向かう。マユ半島へ向かうには、ビルマとインドの境界を南北に連なるアラカン山脈を超える必要があった。アラカン山脈は世界屈指の豪雨地帯。雨季には月間1,000㎜以上の雨が降る。日本の年間降水量が平均1,700㎜といわれているので、その雨量の多さが分かるだろう。
ビルマは雨季と乾季の二季に分かれており、雨季は5月から10月、乾季は11月から4月まで。アラカン山脈は2,000m級の山々が連なり、長さ3,000kmの大山脈が続く。他の方の手記には「虎の襲撃を避けるため、空き缶をガラガラ引きずって踏破した」という記述もあった。やっとの思いでアラカン山脈を超え、アレサンヨー付近で「ハ号作戦」下の第三中隊指揮班に入り、警備にあたったという。

初年兵のとき。中央左から二人目が邦美さん
「ハ号作戦」とは?
一旦、当時の日本軍の状況を整理したい。1941(昭和16)年12月8日、日本軍はアメリカに宣戦布告し、アメリカ・ハワイの真珠湾を攻撃。太平洋戦争が始まった。この時、日本はイギリスにも宣戦布告をしていた。
1937(昭和12)年から日本軍は日中戦争を行っていたが、アメリカとイギリスは中国の味方をし、兵器や食糧等を支援。そのため、日本軍はかなりの苦戦を強いられていた。この中国への支援を断ち切るため、この時、アメリカとイギリスに宣戦布告したのだった。
当時、イギリスはビルマを経由し、中国重慶まで続く「援蒋ルート」を使い、鉄道やトラックなどで物資を運び込んでいた。日本軍はこの援蒋ルートを断ち切るため、ビルマに進軍。1942(昭和17)年5月にほぼ全域を占領した。けれども陸のルートは断ち切っても、イギリス軍は航空機を使い、空のルートから中国へ物資を送り続けた。
日中戦争や太平洋戦争。戦争続きの日本は常に物資不足の状態だった。そのため、石油やゴムなど資源が豊富な東南アジア諸国に目を付けた。当時、アメリカが植民地としてフィリピンを支配、イギリスはマレー半島を、フランスやオランダが他の東南アジア諸国を支配していた。日本軍はイギリス領だった香港やシンガポール、マレーシアなどに攻め込み、快進撃を続けた。しかし、1942年のミッドウェー海戦やガダルカナル島での戦いで敗北。転がるように劣勢に陥っていった。その間には中国との戦いも続いている。
この負け続きをなんとか挽回したい。その思いで、日本軍はインド侵攻を決めた。当時、インドはイギリスの植民地となっていた。日本軍はイギリス軍には負けたことがなかったため、イギリス領インドを攻め、勝利して負の雰囲気を一新したいと考えた。そのため、インドとビルマの国境付近の都市、イギリス領インドの軍事拠点だったインパールを攻めようと考案を始めた。これが、後に史上最悪の作戦といわれる「インパール作戦」だ。
インパール作戦は、食料や武器を補給できないと司令部が分かっていたにも関わらず、1944年3月に実行された。日本軍の牟田口蓮也中将による無謀な作戦。そしてその作戦開始を反対できなかった日本軍の組織の闇があった。結果的にイギリス軍の反攻により完全に敗北、7月に中止された。その後の退却途中でも甚大な犠牲を生んだ。
インパール作戦で命を落とした日本兵は、3万人以上といわれている。食糧も武器も尽きた兵士たちは、飢餓やマラリアなどで次々に死んだ。手榴弾で自決した兵士も多かった。遺体はそのまま置かれ、日本兵が敗走した山道は遺体が折り重なり白骨化。のちに「白骨街道」と呼ばれることになる。
そのインパール作戦を陽動するために立てられた作戦が、歩兵第百四十四聯隊も関係した「ハ号作戦」だ。1944年2月から5月末まで行われた作戦で、目的は二つ。大きな港町であるアキャブ(現在のシットウェ)を進軍してくるイギリス軍から守るため。そして、マユ半島にイギリス軍を寄せ付け、インパール作戦のおとりとして、陽動することだった。
(追憶のビルマ その3 に続く)



