満身創痍。
足の裏にはジンジンと痛みがはしり、腰、太もも、ふくらはぎの筋肉は悲鳴をあげる。
両腕のいたるところに青紫のアザが浮かびあがり、右肩には鈍い痛みが残る。
7月23日(日)。
土佐町の南川(みながわ)地区にある大谷寺の舞堂。
数百年の歴史を刻む南川百万遍祭が行われ、20人余りの男衆が激しく躍動した。
祭りを終えた後に身体中を駆け巡る痛みが、南川百万遍祭の激しさを物語る。
南川地区は土佐町の北部、山深い場所にある。標高は約500m。
七尾、中村、川井、川奈路の4つの集落に、30人ほどが住む。
地区長は言う。
「ここは、中山間地域らぁて、生やさしいもんじゃない。山岳地域ぞ。」
そんな山奥で、数百年もの間、南川百万遍祭は受け継がれてきた。奇跡に近い。
南川百万遍祭は町の無形民俗文化財に指定されている。
五穀豊穣、無病息災、家内安全など、さまざまな願いを込めた祈祷行事である。
南川百万遍祭の舞台となるのが、この舞堂。
土佐町の有形民俗文化財に指定されている。
舞堂を初めて見た時、佇まいの美しさと、建物に宿る静寂さに心奪われた。
舞堂の前に立てば、静けさが語りかけてくる。「ただ、ここにある」という存在感。過去と現在と未来はひとつの線でつながっている。
柱や床の材はずいぶん古い。作られた当時のままのものか。屋根は萱葺で作られている。今では萱葺の管理の困難さからトタンで覆っている状態だが、堂に入って上を見上げれば、萱が見える。
これまで、いったい何人の人々がこの舞堂の舞台の上で舞ってきたことだろう。
床は数百年分の汗や血や酒を吸っている。
いつから南川百万遍祭が始まったのか、その起源はよくわかっていない。
書物が残っておらず、伝聞で語りつがれてきたのだ。
1331年、京都で疫病が流行った。後醍醐天皇の勅により、知恩寺で善阿上人が「南無阿弥陀仏」の念仏を7日間唱え続け、疫病を治めた。その時唱えた念仏の数が百万回だったため、知恩寺は百万遍の寺号を賜った。
百万遍信仰は日本各地で盛んになり、南川にもなんらかの経緯で伝わってきたがやろう、と地区長は言う。
南川百万遍祭は、毎年夏の土用入り後の最初の日曜日に行われる。
祭りの当日深夜0時。真っ暗な中に電灯の明かりがついた舞堂に、地域の方たちが三々五々集まってくる。四方山話をしながら、酒を飲みながら、藁で縄を綯う。
綯うのは、いわゆる、しめ縄。神事の場に、不浄なものが侵入しないように、侵入を禁ずる印として張る縄。しめ縄は、七五三縄とも書く。縄の途中で、藁の先を7本、5本、3本と垂らすことに由来する。
2時をまわる頃、みなで綯ったしめ縄を舞堂の柱をぐるりと囲むように張り巡らす。
さらに、舞堂から2~3mほど離れた位置にも笹を立てて、しめ縄でぐるりと囲む。
しめ縄には、シキミの葉を挟む。これが結界となるわけだ。結界より中に女性は入れない。南川百万遍祭は女人禁制の祭りなのだ。
3時。祭りで打ち鳴らす締太鼓の準備が始まる。径1mはある。太鼓の周囲に太い紐が巻かれてあり、その紐を順番に締めていく。太鼓の皮にはかつてカモシカが使われていたが、今はヤギの皮を使う。丹念に丹念に紐を締めていく。ずっとそうしてきたのだ。
4時を過ぎたころ、「そろそろやるかね」地区長がふらりと立ち上がり、おもむろに締太鼓を打ち始める。
朝繰り(あさぐり)の始まりだ。
右手の撥はタンタンタン。そのあとに左手の撥でトン。これが百万遍祭のリズムであり、「南無阿弥陀仏」の念仏の代わりとなる。
そしてここからが南川百万遍祭のおもしろいところ。全国的によく見られるのは、人が車座で数珠を手繰りしてまわすやり方。
南川百万遍祭は、人が数珠を肩に担いで、人がまわるのだ。
非常に珍しく、おそらく他に例を見ない。
数珠は、直径5~6cm・長さ15㎝ほどに切ったタラの木(中が空洞になっている)に数珠縄を通して、いくつもつなげたもの。40メートルもの長さになる。数珠の元にあるのは古くからの数珠を巻きつけて40cmほどの球状にしたもの。
「フソ」または「ダツマ」と言って、数珠の親玉になる。フソは決して床や地面につけてはいけない。重さ10kg以上あるフソは、その重さから背に負うようにして巡るので、フソを背負う者を大黒さんというらしい。
まだ暗い境内に朝繰りの太鼓の音が響く。男衆10人ほどが、数珠を担ぎ、無言のまま、みな同じペースで舞堂をしずしずと歩いていく。
そのうち、太鼓のリズムは徐々に徐々に調子を上げていく。男衆の歩みは少しずつ乱れてくる。舞堂の外に傾く者、内に傾く者、踏みとどまろうとする者、先に先に進む者。
明け方の静けさと暗闇の中に太鼓の音が響く中、数珠を肩に担ぎ、舞堂をまわっている。太鼓の音は南無阿弥陀仏を唱えている。
己の心がすーっと静まり、世俗的な念がおよそ入る余地がない心の状態となる。
とらわれているものからふっと解放されるような感覚。
日常では決して体験できない精神世界がそこにあった。
気づくと太鼓の音が再びゆったりとしたリズムとなり、最後は、ダーン、ダーン、ダーン、ダーンと大きく長く太鼓を打つ。
数珠を柱の貫にかけて朝繰りは終わる。
その途端、ヒグラシがいっせいに鳴き始めた。木々の向こうに白みかけた空が見える。こんな美しい景色があるのか。時計を見ると5時になろうとしていた。みな、いったん、家に帰る。
朝繰りは南川百万遍祭の前半。後半は本繰りと呼ばれ、13時から始まる。
例年、多くの方が南川百万遍祭を見にこられる。県外から来るカメラマンもおられた。遠方にいる南川出身の方も帰ってきたりして、年に1度、舞堂には賑わいが生まれる。
昼頃から、南川のおかあさん達が、焼きイカ、ちらし寿司、海苔巻き、いなり寿司や、おそうめんや、ビール、ソフトドリンク、百万遍味噌などを販売し始める。
舞堂の隣にある大谷寺の小さなお堂ではお坊さんがお経を唱える。本繰りに参加する男衆は衣装に着替える。
13時。ダーン、ダーン、ダーン、ダーン、、、 太鼓が打ち鳴らされ、本繰りは始まる。
朝繰りと同じく、男衆は数珠を肩に担ぎ、最初はゆっくりとした歩みで舞堂をまわり始める。舞手にはわからない程度に、太鼓の音は少しずつ少しずつペースを上げていく。
タンタンタン、トン、タンタンタン、トン、タンタンタン、トン、、、少しずつ、男衆の列が乱れ始める。ただ大きく乱れることはなく、約30~40分で1回目の数珠繰りを終える。
男衆は舞堂にどっかりと腰をおろすと、湯飲み茶碗に並々と酒を注ぎ合い、くいっ、くいっ、と飲み干していく。
南川百万遍祭は神事であり、酒はお神酒なのだ。
だから酔うのではなく、神様がおりてきている、つまり、「神がかり」の状態となるのだ。南川の方にそう言われた時、腑に落ちた。
20分ほど小休止のあと、2回目の数珠繰りが始まる。少し足元がふらつく。男衆は神がかった状態でふたたび舞堂をまわり始める。
このあたりから祭りは激しさを増していく。
足早に進む者、踏ん張って進もうとしない者、数珠を引っ張る者、体に巻きつける者、角の柱にもたれかかる者。
そのうち、舞堂の外に落ちる者、それを引っ張り上げる者、引っ張り上げようとする者を引きずり下そうとする者も出てくる。
中には舞堂の下に潜り込む者もいる。
舞堂の内に外に、男衆がくんずほぐれつ、重なり合い、倒れ倒され、怒号のような声が飛び交う。
数珠を手放すと御利益が薄らぐと言われているので、なんとか数珠をつかみ続けようとする。
とにかくもう、身体のあらゆる箇所に痛みが走り、汗がふき出る。3回目の数珠繰りが終わるころには、へたりこむ男衆もいた。
本繰りで数珠を繰る回数は、3回か、5回か、7回と決まっている。近年は大体5回で繰り上げとなる。
繰り上げになると、数珠の輪が解けて、1本の数珠縄となり、男衆が境内に躍り出る。太鼓も舞堂を下り、激しく叩き続ける。
男衆は砂利の上を裸足で駆けずり回り、境内にある椋の巨木に数珠縄を巻きつける。その時、男衆も一緒に椋の木に巻きつけられたり、動けなくなるほど何人もの男衆が折り重なり、もうなにがなにやらわからない状態。
ひとしきり荒れに荒れたら、数珠縄を舞堂の柱に巻きつけ、数時間にわたる南川百万遍祭は終わりを迎える。
舞堂から躍り出る時に切られたしめ縄は、家のお守りとして参拝客や祭り見学者が競うように持って帰る。
男性であれば舞手として参加してみてほしい。
祭りが進むにつれ、次第に体力は奪われ、身体のあちこちに傷を負う。それでも、タガが外れたような振り切れた精神状態の中で、血がたぎるような興奮に突き動かされる。舞堂という舞台の上で、太鼓が奏でる念仏と一本の数珠でつながれた男衆との一体感が生まれる。
終わってみれば、己の中にある、形にならないなにかを出しきったという解放感と、「やりきった」という爽快感がある。実に不思議な祭りだ。
数百年もの間、南川の地で守り続けてこられた南川百万遍祭。
舞堂の佇まいや匂い、締太鼓の音色や、神がかった男衆の躍動。ひとつひとつがこの祭りを形づくり、唯一無二の存在たらしめている。
山深い小さな集落で連綿と続く歴史の一端を目の当たりにすると、ひとつの確信を得る。
過去と現在と未来は、1本の数珠縄のようにつながっている。
そして、南川百万遍祭には、みなが安心して暮らしていけるようにと願う「おもい」がこめられているのだ。
文章:前田和貴 写真:石川拓也