2017年9月

笹のいえ

かみとしも

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地元の方々との会話の中で、例えばある場所を説明するのに「東西南北」が登場することが多々有る。

「◯◯さんく(家)はスーパーの南側よ」とか「あこ(あそこ)の北に⬜︎⬜︎があるろ」とか。

僕は自他共に認める方向音痴で、普段どっちが北でどっちが西でなんて意識してないので、上記のように言われると、
空を見上げ、あそこに太陽があるから東はこっちで、、、と頭で考えることになる。
慣れるまでに時間が掛かるけど、そして、方向音痴は治らないけれど、ゲームのようで楽しい。

もうひとつ面白いな、と思うのは、「かみとしも」という表現。

「上と下」つまり、川の「上流と下流」という意味だ。

「今朝△△さんが国道を車で下に行っちょったけど、もう帰ってきたろうか」「上では雨がどっさり降りよった」

その度に僕は川の流れを思い出し、ああ、あの辺か、と想像する。

地元の方にこの話をすると、「へえ〜そんなこと考えたこともなかった」。
当たり前過ぎて、という感じだった。

自然と、そして川と密接に暮らすこの地域ならではの方向感覚が面白い。

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私の一冊

山首尚子

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「絵のある 自分詩 手紙詩」 小池邦夫エディポック

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私の一冊

筒井由美

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「いない いない ばあ」 松谷みよ子(著)瀬川康男(え) 童心社

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4001プロジェクト

上土井崇、恵子、亘、菜那(駒野)

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土佐町ストーリーズ

きのこ雲の記憶

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澤田千恵野さん(昭和2年生まれ。91歳)に、戦争中のお話を伺いました。

 

まあけんどね、人生というものはね、いろいろありましたぞね。わたしたちの人生は。

18歳の時から2年間、挺身隊で、長崎の川棚(かわたな)海軍工廠へ行っとったが。

大川村から6名呼び出されて、6人一緒に行った。男の人は徴用で、女は挺身隊。

 

私は、魚雷よね、後方魚雷を組み立てたりね。魚雷のいろいろな部品を組み立てる。

その工場で組み立てて仕上がったものは、試験場で試験しよりました。

大きな建物の中からその航空魚雷を飛行機に積んでいって、落とすがですよね。

試験に行ったこともあります。

敵の軍艦を目指して落とすような兵器でした。

仕上げ工場の最後のはしの方で、航空魚雷の心臓部を私は受け持ってね。それが私の仕事。

航空魚雷の心臓部の「しんどき」という、人間でいうと心臓のところ。

 

原子爆弾も見たしね、この目で。

私がいたのは長崎の市内でなかったですけどね、長崎の原爆が落ちた時は、この目ではっきり見てね。

 

「空襲警報ーー!総員退避ーー!!」と言ってね、みんな防空壕に入ったの。

私がおった工場は海岸ぶちで、離れたところに防空壕があったき、防空壕へ入ることができなくって、原子爆弾が見えた。

 

まっ黄色い、黄色い、黄色い玉が一番はじめですわね、火の玉。

そして黄色からね、赤い、赤い火の玉になる。

それからきのこ雲、もくもくもく…。
音がしました。むろんね。

一瞬。
一瞬のこと。

 

 

空襲にもおうたぞね、毎日、ほんとね。

爆弾が落ちたところをあくる日に見に行ったりしました。すごい穴になってました。

あっちもこっちも、馬がいっぱい死んでました。馬がおりましたね、あの時。

川棚はちょっと山でしたきね、兵隊さんが馬を飼ってたんじゃないでしょうかね。

馬が何頭も爆弾の破片でやられてね。

 

(地元に)帰ってくるのは帰ってきたんですけど、原爆症ではないと思うけど、みんな年がいってほとんどの人たちが亡くなってね。残っているのは私ぐらい。

 

魚雷をつくっている時、もうそれこそ18歳、19歳くらいの娘ですきね、まだほんとね、こどものように思ったけどね。

いろいろあったんです。今考えてみたらね。

 

 

澤田千恵野 (高須)

 

 

 

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私の一冊

町田健太

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「ヒマラヤの下インドの上」 下田昌克 河出書房新社

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土佐町ポストカードプロジェクト

2017 July

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稲叢山 | 川田佳宗・真靖

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