2025年2月

土佐町歴史再発見

平成6年度新収資料のご紹介-その①

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone

カモメホーム洗濯機

 

パッキン部

 

形状はシンプル

 

登録商標

 

歴民館のN氏と委員会のT氏による調査

博物館・資料館で働くことの意義を問われたら、間違い無く「新しいモノとの出会い」と答えると思う。

筆者が歴民館に勤めていた26年間、実に多くの「モノ=資料」と出会ったが、時代や人物の印象をガラリと変えてしまうような出会いが幾度となくあった。

例えば、和紙を張り固めて作られた甲冑との出会いもその一つだ。とある旧家から持ち込まれたもので、最初はまがい物かと思ったが、黒漆を塗った二枚胴の裏側に、製作した職人の名前と幕末の年号が朱漆で書かれていたことから、軽量化を計るため試験的に製作された珍品であることが分かった。

幕末の土佐藩にとって、藩兵の武装の軽量化は、洋式兵術を導入するうえで必須の課題だったのだろう。こんな形でその痕跡を見ることができたのは本当に驚きだった。

この資料との出会いにより、「甲冑と言えば、鉄と皮革で作られるもの」という私の既成概念がひっくり返ることになった訳だが、これこそが資料と向き合う時の醍醐味なのだろう。

そう言えば、最近民具資料館にも面白い資料が入ってきた。

それは、教育委員会の新人・T氏が持ってきた、町民からの寄贈品リストのうち、真っ先に私の目に止まったものだった。

ピカピカに輝く球形(冒頭写真)をした謎の物体で、正直まったく用途が分からなかった。早速、歴民館の元同僚・N氏(1)に見に来てもらった結果、その物体が洗濯機であることが分かった。

この資料の正体は「カモメホーム洗濯機」という。電化する以前の「手回し洗濯機」で、昭和32年頃、群馬県の林製作所から発売されたもの。(2)

球体内部の洗濯槽に汚れた衣類などを入れ、洗剤を溶かした熱湯を注ぎ、蓋を閉めゴムパッキンで密閉度を上げたうえでハンドルを回す。そうすると内部の気圧が高まるので、衣類の汚れが落ちる。湯を入れ替えて回転させれば「すすぎ」もできる優れものだ。

見た目が、当時話題になっていたソ連の「スプートニク1号」(3)に似ていることから、「スプートニク型」と呼ばれていたというのはご愛嬌。

残念なことに、同時期に生産・販売が開始されていた大手家電メーカーによる電気洗濯機に押され、昭和38年に生産は中止された。

注目したいのは、タライに洗濯板を載せ、石鹸粉でゴシゴシ洗濯していた段階から一気に電気洗濯機に移行したのではなく、人力と非電化機械の組み合わせによる洗濯の省力化が計られていた時代があったということだ(昭和38年生まれの筆者にとってこれは盲点だった)。

そして、その時代の波はこの土佐町にも確実に届いていた。T氏の聞き取りによれば、寄贈者が小学5年生の頃から自宅で使われていたものだそうで、昭和30年代の暮らしの変化を如実に物語ってくれる資料と言えるだろう。

災害の多い我が国において、電気を使わずに洗濯ができるこの製品は、大いに見直されるべき価値のある資料。

是非、小学校の授業などで活用してほしいものだ。

(1)筆者が民具資料館でボランティア活動を始めた当初から、高知県立歴史民俗資料館の民俗部門を中心に、物心両面にわたりご支援をいただいている。

(2)「豊富郷土資料館ブログ」(山梨県中央市)春日部市教育委員会ブログ(埼玉県)参照。

(3)ソビエト連邦が昭和32年(1957)に打ち上げた世界初の人工衛星。アルミニウム製の球体をしていた。

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone

 

14号ができました!

 

とさちょうものがたり ZINE14が完成しました。土佐町在住の方々には近日中に配布される予定です。

14号目は「土佐町の人々」(鳥山百合子)。

土佐町で暮らす5組の方々にお話を聞き、その暮らし方の一端を見せていただきました。

 

1, クロを積む

土佐町の田んぼのあちこちで見かける「クロ」。真夏に刈った草を積んでできている。

クロは昔から使われてきた肥料だが、時代の流れと共にクロを積む人は減っている。

長年、土佐町地蔵寺の田で、クロを積み続けてきた西村卓士さんと 田岡袈裟幸さん。

この場所の50年の変遷を知る、お二人の思いとは。

 

2, 南川のカジ蒸し

一年で最も寒い2月、土佐町の南川地区で行われているカジ蒸し。

木の甑(こしき)から立ち上る湯気のそばでカジの皮を剥ぐ風景は、土佐町の冬の風物詩。

北風が吹く中、カジを蒸し、カジの皮を剥ぐ。それが山の貴重な収入源だった。

担う人は高齢化、いつまで続けられるか分からない。南川のカジ蒸しの風景を、ここにちゃんと残しておきたい。

 

3, シシ肉をいただく

冬、猟犬と共に山に入り、見つけたイノシシの足跡を見極め、しとめたイノシシを自ら捌いて肉にする。山を駆け回っていたイノシシの肉は鮮やかな紅色で、瑞々しい。「命をいただく」とは?

土佐町栗木地区の猟師である近藤雅伸さんに、イノシシ猟について話を聞いた。

4, ハチミツを採る

ミツバチを飼い、ハチミツを採る。土佐町で昔から行われてきた営みだ。

土佐町上津川地区に住む高橋通世さん。お父さんもミツバチを飼っていたという。

ミツバチの声に耳を澄まし、必要なお世話をし、自然の営みを得る。

通世さんが教えてくれたミツバチの世界、自然との暮らしの意味とは。

 

5, お山のお母さん

標高500mの場所にある、土佐町溜井地区の和田農園。トマトを中心に野菜やお米を作っている。

訪ねれば食卓に並ぶ手作りの山の幸、旬のもの、山の恵みを活かし、作れるものは何でも作るお山のお母さん、和田計美さん。温暖化や急激な環境の変化が続く中、計美さんは今日も畑に立ち続ける。

 

とさちょうものがたりZINEは、いつも通り高知県や首都圏の施設や店舗などで配布されます。土佐町外には少し時間差で届きますので、ご希望の方はご確認の上、入手してください。

 

配布施設はこちら

 

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
4001プロジェクト

中町禮子(田井)

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone

 

中町禮子さんは土佐山村育ち。現在88歳。土佐山村のお百姓さんの家で育ち、子供の頃はお米はほとんど食べたことなかったと笑っていました。

土佐山村からだと高知市の空襲の時は上から見渡せて、空が真っ赤になり怖かった、忘れることはできん、と言っていました。

 

 

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
とさちょう植物手帖

ジャノヒゲ(蛇の髭)

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone

土佐町の地蔵寺川の南岸、宮古野から南泉方面を歩いてきました。

2月のフィールドはまだまだ枯草色で、花をつけているのはオオイヌノフグリとタネツケバナぐらいです。

草刈りの整然とされた田んぼの畔と法面は、淡い黄褐色とくすんだ緑色が混在しています。

緑はヒガンバナなど背の低い常緑多年草の葉っぱです。背の高い植物が刈り払われてから後、陽光を独り占めにして目立っています。

 

中でも一番多くありそうなのがキジカクシ科の多年草ジャノヒゲです。

地際から無数の葉が生えています。

葉は長さ15~20㎝、幅2~3㎜。線形で細長く、くねくねと曲がっています。

和名のジャノヒゲは、この細長い葉を「蛇の髭」に例えたものとされていますが、実際の蛇には髭がないので、想像上の「竜」の髭と仮定して別名リュウノヒゲとも呼ばれます。

また別に、ジャノヒゲの由来は「尉(じょう)の髭」からきていると云う説があります。「尉(じょう)」は老人を意味し、伝統芸能の能の「尉面(じょうめん)」の顎鬚(あごひげ)に葉の形を見立てたというものです。

 

緑色の葉をかき分けると宝石のように深い青い色をした実が出てきます。直径7~8㎜の球形です。驚くほどたくさん、あちらこちらにあります。

子どものころには誰もがこの実をジュウダマ(銃弾)と呼んでいました。竹で拵えた「突き鉄砲」の弾にして遊んだものです。

ジャノヒゲには果実と種子の関係についても驚かされることがあります。

めしべの子房が大きくなったものが果実、子房の中にある胚珠が熟したものが種子なのですが、種子を保護する役目のある果皮が早く落ちてしまい、ジャノヒゲの種子はむきだしになってそのまま成熟するそうです。

すなはち、青い実は果実ではなく種子なのです。

 

1株掘ってみました。

ジャノヒゲの不思議な姿がよく分かります。

根の一部がこぶ状に膨らんでいますが、この部分をとって日干しにしたものは滋養強壮、咳止め、去痰などに効く生薬になるとか…。

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
4001プロジェクト

矢田美佐子(田井)

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone

 

本山町山﨑生まれ。89歳の矢田美佐子さん。木能津小学校から本山町立中学校で学びました。当時、同級生は13人だったそうです。

9歳の時に終戦。一度だけ校庭にジープに乗ったアメリカ兵が来たことがある、何か話しかけられたんだけど、その時は怖くて屋内に飛び込んだと言っていました。

 

 

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
本の森から

言の葉の森に棲む

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone

休みの日、何気なくラジオをつけると、国語辞典の解説文を読み比べるという番組をしていた。これは面白いぞ、とボリュームをあげて聞き入り「明解さんは例文がユニークと評判だったな」とか「広辞苑はさすがの手堅さだ」と楽しく拝聴した。

そういえば勤めている図書館の利用者から「国語辞典が複数あるのが良いですね」と褒めていただいたことがある。図書館としては当然のことなのだが、嬉しい感想だった。

言葉の意味を調べるとき、どの辞書で調べるかは重要だ。できれば数冊読み比べて、一番自分にフィットする解説文を見つけてほしい。

例えば「あ」。どの国語辞典でも最初に出てくる言葉だがⅯ国語辞典では「驚いたり感動したりした時などに発する語。あっ。」とちょっと楽しいが、N大辞典では「五十音図あ行第一の仮名」とそっけない。

漢字の「石」だって「いし」と読めばそのものずばり stone の石だが「こく」と読めば尺貫法で体積を表し、あるいは大名や武家の知行高を現す単位ともなる。

国語辞典を題材にした書籍には、三浦しをんの小説『舟を編む』(光文社)や「言海」を編纂した大槻文彦の伝記『言葉の海へ』(洋泉社)、『日本国語大辞典』初版と第二版編集委員会を支えた松井栄一の著作に第二版編集長・佐藤宏の解説を加えた『50万語を編む』(小学館)などがある。

摩訶不思議で一筋縄ではとらえきれない言葉の世界に棲む彼ら姿はとても魅力的で、憧れずにはいられない。願わくば私も言の葉の森に棲みたいのだが、まだまだその資格は得られそうにない。

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
4001プロジェクト

西村民子

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone

 

西村民子さん、昭和5年生まれ(1930年)。現在は大谷に住われている民子さんは、元々は南川生まれ。

同じく南川のご親戚に子供がいなかったため、子どもの頃に養女になったそうです。

南川の方と結婚し、お子さんも4人育てられたそうです。北泉で田んぼを持っていたのでそちらに引っ越し、その時代はさめうらダムがちょうど着工の年だったと言います。

 

 

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone

 

土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。
(2024年5月27日追記:潔さんは現在98歳。この連載を開始したのが95歳の時だったので、題名はそのままとしています。)

 

筍売り

昭和21年終戦の翌年、和田ケ谷での初めてのお正月を過ぎた四月。大雪降らず、母も熱も咳も出ず、家族にとっては何よりも安心でした。四月は筍の生える季節。住んでいる所の少し上に、広いハチク竹の竹藪があって、筍が生え初めても地主が来ないので、父が千円で全部買い取り、妹と交替で、毎日中島、田井、森方面へ売りに行ったのです。

負い子一杯十貫位、大きなおいしそうなのを選んで、売れる売れる。毎日行っても、塩漬けにするとか、干しておくとか私達の事情を知ってか、疲れを忘れる位、嬉しい毎日でした。

妹は体格が良くて、十貫位は平気でしたが、私はチビ、負けず嫌いで頑張ったのでした。後から後から生える筍、思いがけない金儲でした。

中島に、チョウさんという朝鮮人が狭い軒先で魚を売っていて、毎日変わった魚を買って帰り、皆を喜ばせるのが楽しみでした。

77年昔の事です。たった一人生き残って、申し訳無く思ったり、遠い昔の思い出に涙し懐しんでいます。人の情を有難く感じ始めた若い頃の思い出です。

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
4001プロジェクト

伊藤千代野  (中島)

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone

 

大川村で生まれ育った伊藤千代野さん。15歳まで大川村の学校に通い、卒業後は岡山の織物工場で働いたそうです。時代は1960年頃。

6,7年岡山での暮らしをした後に、一度大川村に戻り、その後22歳で土佐町の方の元に嫁いできたそうです。

当初のお住まいは柚木。バスで中島の縫製工場に通い、縫い子としての仕事を17年続けました。

松島被服、タカラ繊維といった大きな工場が中島にあったそうで、70人もいる社員とともにスキー服の縫製などをされていました。

 

 

 

 

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone