2025年10月25日、高知県土佐町に住む和田邦美さんは103歳の誕生日を迎えた。夕方、娘さん家族や孫、ひ孫が集まって誕生日会が開かれた。
お寿司などのご馳走が並び「103歳おめでとう!」というお祝いの言葉が壁に飾られていた。多分ひ孫さんが書いたのだろう。丁寧に書かれたカラフルな文字から、お祝いの気持ちが溢れ出ていた。
この日、邦美さんご家族の記念写真を撮らせていただいた。玄関先で撮影することになり、邦美さんは部屋から玄関先へ向かった。靴を履く時、邦美さんは手に持っていた缶ビールを娘さんに預けた。玄関先の壁に取り付けられた手すりを掴まずに片足を上げ、一方の靴を履くために腰をかがめ、マジックテープをしっかりととめた。続けてもう一方の靴も。両靴を履いた後、丸めていた背中をぐいっと上へ伸ばした。そして少しもよろめくことなく、しっかりした足取りで歩き始めた。
今から約83年前、太平洋戦争中、邦美さんは陸軍兵としてビルマへ向かった。激戦地だったビルマは「最悪の戦場」「地獄のビルマ」と呼ばれるほど過酷な戦場だった。
連合国の攻撃から逃げ回り、飢えやマラリアと戦いながら、仲間が次々と死んだ。何度も諦めかけながら、必死に歩き続けた。立ち止まることはすなわち死を意味した。邦美さんは歩いて歩いて、生き抜いた。
太平洋戦争中、ビルマ戦に派遣された日本兵は30万人、戦没者は19万人。今もビルマには数万の遺骨が眠っているといわれている。

103歳の誕生日会の日に。家族で記念撮影
大川村での生活
邦美さんは土佐町の隣、高知県大川村で生まれた。鮎が泳ぐ川で魚を突き、近所の人から「ぼう、ぼう(坊やの意)」と声をかけられてお菓子をもらってかわいがってもらった。
「畑を安く貸してもらって、母らが野菜を作って、ほんで生活しよった。米は全然ないけんね、普通は麦やらキビやら、トウキビ。土佐町の田井でお米を作っている人が山道を上がってきて『米はいらんかよ』と売りに来ていた。米がないなって頼むと、チンカラチンカラ、馬が運んできた」
大川村には田がほとんどなく、米を食べるのはお祭りや運動会など行事の時だけ。お米はご馳走、貴重なものだった。
邦美さんは小学校を卒業後、郵便局で仕事を始めた。
「中学校もあったけんど、貧乏じゃったから行く余裕がのうて、だから仕事に入ったんじゃ」
郵便局の配達の仕事は賃金が安かった。近くのお菓子屋でお菓子を買ったら手元にお金は残らず、家計の足しにはならない。弟は吉野川の流れを利用して木を流送する仕事をしており、邦美さんの何倍も賃金がよかった。
ある日、弟が川に落ち込み、いなくなった。皆で探し回ると、川の行き詰まりのような場所で詰まった状態で見つかった。その時、邦美さんは16歳。弟が亡くなった後、弟と同じ仕事を始めた。「人生どうなるかわからんけど、賃金のええ方へいこうと。郵政を辞めて山の仕事に入ったのよ」
山で切った木を吉野川で流送し、下流へ運んだ。
「格別しんどいこともない。川の両側は水が流れて、川の真ん中に材木がいっぱいかかっちゅう。2本の材木へ乗っかって、材木のかかっちゅうくへ乗り付けて、材木を外して、流して。丸太に乗って、トンビ(*)を持って突き流す。材木が無いなったら、また次の岩へ行かないかんけ、また材木を残しちょいて、それに乗って、かかってるとこを流送する。そういう仕事をしよった」
夏は鮎が上がって来るから、川に材木は流せない。冬の寒い時でないとできない仕事だった。この時、1938(昭和13)年。その前年から、日中戦争が始まっていた。
*トンビ(トビ):長い柄の先に鉄製のくちばしのような形の穂先がついている道具
召集令状
仕事の傍ら、毎週土曜日、邦美さんは青年学校へ通った。シベリア帰りの陸軍上等兵だった邦美さんの父親が教官で、青年を集め軍事訓練や軍隊教育を行っていた。「兵隊にいかない男子は日本人じゃない」と厳しく訓練が行われた。
太平洋戦争終了まで、日本では、満20歳に達した男性は全員徴兵検査を受けることが義務付けられていた。身長や体重、視力や聴力、病気の有無等が検査され、身長は155㎝以上、身体が強靱と認められた場合は「甲種合格」。その中から選ばれた兵士は「現役兵」になり、すぐに入営することになっていた。甲種合格の現役兵に次いで「第一乙種」、続いて「第二乙種」という区分があり、補充兵とされていた。
1942年(昭和17)、邦美さんは徴兵検査を受けた。結果は「第二乙」だった。1943年(昭和18)、21歳の時、召集令状が届いた。徴兵検査で「第二乙」だったため、現役兵よりも早く、召集令状が届くとは思っていなかったので驚いたという。
召集令状が届いた時、どんな思いだったのか聞いた。
「第二乙とはねられたけん、お国の役に立たん人間だと思われて歯がゆかった。やれやれ、人並みに認められたと思った。軍国主義じゃけんね、兵隊に行かない人間は役に立たんと思われちょったんじゃけ」
当時の日本では「甲種合格以外は恥」という考えが一般的だった。「日本男児たるもの、こうあらねばならない」という圧倒的な圧力があっただろう。その圧は当時の日本人の考え方に多大な影響を及ぼしていたことは想像に難くない。
入営
1943年(昭和18) 4月。邦美さんは大川村からバスに乗り、大杉駅(大豊町)へ向かった。汽車に乗って高知市朝倉へ行き、西部三十四部隊第三中隊に入隊。歩兵第百四十四連隊に編入された。現在の高知大学朝倉キャンパスが第百四十四連隊兵営跡地にあたる。初年兵は大部屋で寝泊まりし、一度入営したら外へ出ることはない。軍事教練の日々が始まった。
「前へー、進め!右むけ右、左むけ左!回れー、右!」
鉄砲を下げ、号令と命令通りに動く。軍隊の規則を仕込まれた。相手の胸を突く銃剣術訓練も「うんとやった」。各隊から選手を出して、銃槍で突き合う試合を行い、胸をドン!とまともに突いたら勝ちになる。邦美さんも選手になり「人並みよりはまあ、技術にたけちょったのか、選手に選ばれて試合をやらされてたわね」。古兵が「今年の初年兵は銃剣術がうまいけに、もうけた」と喜んでいたという。
邦美さんは一枚の写真を見せてくれた。セピア色の写真に軍服を着た若者たちが写っている。軍服の色は「確か黄色っぽい色やったと思う。帽子の真ん中に赤い線があって」
皆、軍靴を履いている。
「編上げの両方にある爪に紐を引っ掛けていく靴で。巻き脚絆を巻いてるわね、足へぐるぐるっと巻いて。足首から軍靴の上へ被せて、向こう脛の上まで巻き上げてきて、結んで」
しっかり履いていないと上官に怒られた。
「巻くのが遅かったり周りから遅れたらいかんけね。一所懸命巻いて、くるくるって両方の足を巻き上げていかにゃあ。巻き上げた終わりが横の小口が止まるように、そんな技術がいったのよ。必ず尾錠が真正面へくるようにしないといかん」
兵士としての身だしなみはきっちりしていないといけない、と上官は常に厳しかったという。
志願
丸1年ほど訓練を真面目に行えば、陸軍の上等兵まで階級があがる。そのうち、野戦要員というものができた。野戦要員は実際に戦地に出る兵隊のことをいう。第一次野戦要員が発表され、同年兵の大半がその中に入った。野戦行きが決まったら演習も勤務もなく、毎日ぶらぶらと遊び、外泊が許可されて家に帰る者もいた。邦美さんは選ばれなかった。取り残されたような気がして、同年兵が遊んでいる姿が羨ましくて仕方なかったそうだ。
ある日、西岡好幸准尉から「お前は真面目じゃきに、下士官候補生になってここにおって、後から来る兵隊の教育係になれ」という話があった。邦美さんは「野戦行きはここで毎日遊んで暮らしゆう。こっちは毎日、訓練しなさいと仕込まれる。たまらんけ、野戦へ回してくれ」と話を断り、野戦行きを志願したそうだ。
「おんしは馬鹿じゃ。ここにおったら戦場へ出ることはないんじゃけ、後から入ってきた兵隊を訓練したら、朝倉で安定して生活ができるろう」
「わしも皆と同じように野戦に出たい。こんど二次野戦編成がある時はぜひお願いします」と准尉に頼んだ。「お前も馬鹿な男よ。仕方がない、もし俺が野戦行きになったら考えてやるけに、真面目に働け」と諭されたという。
憲兵要員の募集もあった。人事係に「中隊から誰か出さねばならん、どうだ?」と言われたが「人をくくったりするのは嫌」と断った。「お前はあれも嫌、これも嫌というが、何かやらんといかん」と叱られた。
その後、西岡准尉が野戦行きになった。「おい、和田、野戦行きになったらどうするろ?」「行くいく」「じゃあ、俺の当番兵になれ」
当番兵とは准尉のそばに張り付いて、食事等のお世話を担う。それ以来、邦美さんは西岡准尉と行動を共にすることになった。
ちなみに、邦美さんは野戦行きが決まったものの、発表から出発まで時間がなく外泊できなかったそうだ。もちろん遊ぶこともできず。面会に来た両親と少し会っただけで、思っていたのと違う、とがっかりしたそうだ。
(追憶のビルマ その2 に続く)




