土佐町の最も高い場所にある集落が黒丸。黒丸の河内神社は、昔から黒丸の住人の氏神様として大切にされてきました。
ここには御神木と呼ぶにふさわしい立派な木が3本。前に立つのが槇で、後ろが杉です。槇の上部に開いている穴はムササビの巣穴だそうです、
数百年の間、黒丸の住民を見守ってきたであろう樹木。一緒に写っているのは近藤稜真くんと優真ちゃんの兄妹です。
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図らずもTPP。あっちのTPPではありません。
土佐町在住の写真家、石川拓也がひと月に1枚のポストカードを作るプロジェクト。
2016年11月から始まり、たまに遅れたりもしながら、いちおう、今のところ、毎月1枚発表しています。
各ポストカードは土佐町役場の玄関と道の駅さめうらにて無料で配布しています。
『墨攻』 森秀樹 酒見賢一(原作) 小学館
「墨守する」という言葉の語源にあたる「墨家」 は、古代中国に実在した思想集団です。
乱世の世にあって、儒家や法家などと並んで活躍した時代もあったようですが、歴史の中でいつしか消滅していきました。
その思想は古代にあってとても稀有で、「兼愛公利(けんあいこうり)」と「非攻(ひこう)」を軸にしていました。
「兼愛」は「広く愛する」、「公利」は「自己中心的にならずに互いの幸福を増幅する」という意味です。仏教の「利他」に近いのかもしれません。
もう一つの「非攻」は文字通りの「攻めること勿れ」。平和主義の非戦論です。
「非攻」という思想を軸にして、墨家には高度な守城技術や築城技術が伝承していたそうです。つまり、守りの技術。自分たちから敵を攻めることはしないが、攻められた時には徹底的に守り抜くという姿勢です。
このマンガは、墨家の一員である革離が、趙軍に攻められている梁城に単身乗り込み、趙の大軍を相手に梁城を守るために手を尽くすというストーリー。
日中韓合同で実写映画化もされたので、そちらをご存知の方が多いのかもしれません。
時は2020年の年末、所は大谷の鏡峰寺。
鏡峰寺では、朝晩6時にこの鐘を鳴らします。鳴らしているのは住職の吉永公明さん。
毎日休むことなく、地区の方々にゴーンゴーンと時をお知らせしています。
とさちょうものがたり編集部も近くにあるのでこの鐘の音は聞こえてきます。鏡峰寺の鐘がなっているのでもう6時、というのはいつの間にかぼくの体に染み込んでいるようです。
土佐町に来て5年足らずのぼくがそうなので、もっと長く住んでいる地区の方々にとってはさらに生活必需的な音になっているのでしょう。
こういう種類の「音」の価値をどう言葉にしたらいいのか、ボキャブラリーの足りなさを痛感しますが、「体に染み込む」音である、ということは間違いないようです。
年末のある晴れた日に、和田雫ちゃんと虎哲くんの姉弟に鐘を突いてもらって撮影しました。
「へうげもの」 山田芳裕 講談社
「へうげもの」と書いて「ひょうげもの」 と読みます。「ひょうげる」という言葉の意味は「ふざける」とか「おどける」。現在でいう「ひょうきん」(これはこれで古いですが)に近いでしょうか。
ときは戦国。織田信長、豊臣秀吉に仕えた武将・古田織部を主人公として描いた歴史マンガです。
戦国時代の漫画といえばほとんどが「戦(いくさ)」や「武」をテーマにしたものですが、「へうげもの」は茶道や茶器、美術や建築など、戦国時代に花開いた「美」や「数奇」を中心に物語が展開していきます。
「へうげもの」(=ふざける者)は主人公である古田織部を表す言葉です。作中で躍動する古田織部の肩の抜けたふざけっぷりの人柄を指していながら、同時に「美」や「数奇」の方向性を指す言葉でもあります。
つまりそこには対比として飾り気のないストイックな美を愛した千利休がいて、古田織部は利休の弟子でありながら、もう少しヘンテコで不細工なモノ(=へうげもの)を好んだというのです。後世ではそれを文字通り「織部好み」と称します。
史実と創造が交差しながら濃密な物語が編まれていくので、とてもこの項では紹介しきれないのですが、楽しく読めると同時に深く勉強にもなるマンガです。
「ハイキュー!!」 古舘春一 集英社
バレーボール漫画の金字塔(と勝手に呼んでいます)、「ハイキュー!!」。
とても読み応えのある名作でした。
漫画であれ小説であれ作るということは、何か(主題)を通して「人間を描く」という行為。
その筆の深さや語り口のオリジナリティを競っていると言い換えてもいいかもしれません。
「ハイキュー!!」は高校バレー部の人間関係を舞台に、そこでぶつかり合い成長していく高校生たちがイキイキと描かれていて、40代の大人には非常に眩しく目がくらみます。心から高校の部活に戻りたくなります。
「どういう過去があって今ここにいるか」という、登場人物ひとりひとりの内面描写や人物設定などがとても丁寧でしっかり描かれていて、改めて優れた漫画家のゼロからストーリーを創造する力には頭が下がります。
個人的にはハイテンションで突き進むキャラより、「考えること」を武器にしてローテンションで戦うキャラが好きで、それが故で2枚目のページを撮影しています。
『日本文化の核心 「ジャパン・スタイル」を読み解く』 松岡正剛 講談社
この国の”深い魅力”は本当に理解されているのだろうか?
日本人の文化や心や精神性が、なぜ今のような形になっているのか。そういうことがずっと気になっています。
なぜ古代(や中世)から長く続く行事や習俗がこのような様式になっているのか? 紐解いていくとそこには起源や理由が、もちろんですがあるわけです。
そういったことを知ることは即ち「我々はどこから来たのか」という疑問に対しての答えを求めることであり、ひいては「我々はどこへいくのか」という問いに対しての答えを考えることでもあると思うのです。
博覧強記で知られる松岡正剛氏のこの著書は、タイトル通り「日本文化の核心」に深く潜っていきながら、驚異的にわかりやすい。
例えば日本文化を語る上で重要な「わび」。これはもともとは文字通り「詫び」、謝ることから来ていると喝破しています。
客を迎える主人が、「このような粗末なもてなししかできなくてごめんなさいね」と詫びる。
その主人の客を慮る気持ちこそが美しい、そう考えた中世の日本人の精神性が結晶化した言葉であり概念なのだということです。こんなにわかりやすい「わび」の説明は初めて読みました。
そんな例が最初から最後まで続々と出てくる一冊です。
先日、土佐町の青木幹勇記念館にて「草あそび三人展」と題してリース展を開催したお三方です。
山中さんご夫妻のお宅は奇しくもとさちょうものがたり編集部の建物のお隣。準備の段階からリースのあれやこれやを拝見させていただいていました。
「草あそび三人展」の記事でもご紹介しましたが、いつもとても楽しそうなお三方。
土佐町のような自然豊かな環境での遊び方として、その姿勢は学ぶことのとても多いものだと思います。
「(田舎には)これがない、あれが足りない」と無いものを数えるよりも、「(田舎だから)こんなものもある、あんな遊びもある」と、あるものを数えたほうが楽しいですよね。お三方は達人です。