とさちょうものがたり

くだらな土佐弁辞典

ぎっちり

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ぎっちり

【副詞】いつも、頻繁に

 

例:牧野博士は、ぎっちり草摘みしゆう

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昔と今の田井の街並み

土佐町の人なら誰でも知っている、土佐町の中心地「田井」の街並み。よく見ると、今はないお店も描かれています。

町の人たちが見せてくれた昔の写真やお話から、この場所にはかつておもちゃ屋さんがあり、ボンネットバスが走っていたことを知りました。かつての風景を残したい。その思いで、このページには今はなき風景も描かれています。

今回のご紹介する「昔と今の田井の街並み」のページは解説したいことが多いので、記事を2回に分けてお届けしています。

(「土佐町の絵本ろいろい ⑭ その1」はこちら

 

ろいろい ろいろい

かつてたんぼだったとちのまんなかを はしるこくどう439ごうせん

このみちぞいに みせやいえがたちならび おおきくかわった ひとのせいかつ

むかしとかわらぬ   やまと なかじまかんのんどう

このとちのふうけいをみまもりつづける

 

 

もちまき

絵の中央には「もちまき」の様子が描かれています。

棟上げ(新築の家の骨組みと屋根ができた時。建前ともいう)の時、家主と家を建てた大工さんが屋根に上がり、もちをまきます。昔は棟上げの時にまくことが多かったそうですが、現在は落成(家が完成した時)にまくことがほとんどとのこと。

御年90歳、大工の森岡忠賢さんがそう教えてくれました。忠賢さんご自身も大工として何度も屋根に上がり、おもちをまいたそうです。

 

↓忠賢さんの記事はこちら

忠賢さんのまな板

もちまきをする時は「四方もち」と呼ばれるおもちを一番先に投げたそうです。四方もちは大きな丸いおもち。屋根に上って「まず上へほおって、あんまり大きかったら瓦の上に落ちたら割れるけね、ちょっと上げてね、そしたら、ぽてんと落ちるばあの調子でコロコロッと落ちる」。

東西南北へ投げるおもちは、上へ投げるおもちよりも少し小さめ(10㎝位)。各方角の神様への感謝を込めて、屋根から外へ落ちるように投げたそうです。「“四方もち”いうけんど、真上と東西南北で “五方もち” やね」と忠賢さん。

昔は、おもちに直接「祝」と紅い文字で書き、袋に入れずに投げていたとか。現在は「祝」と書かれた袋に入ったおもちを投げることがほとんどです。

おもちの他にお菓子も一緒に投げたりと、近所からも遠くからも人が集まって、ワイワイ拾うもちまき。みんなで祝う楽しげな声が聞こえてきそうです。

 

↓もちまきのおもちを作る様子はこちら

おもち作り

 

 

中島観音堂

絵の上部に描かれているのは中島観音堂。中島観音堂には約1200年前に作られた高知県有形文化財「木造十一面観音像」があります。毎年7月末に行われる中島観音堂夏の大祭の日、年に一度だけ開帳。土佐町の人はもちろん県内外からも多くの人が参拝に訪れます。

夏の大祭の日には、観音堂へ向かう石段の途中にある通夜堂の戸が開かれ、揺れる赤い提灯のあかりのもと、飲み物などを振る舞いながら訪れた人を迎えます。

2019年、樹齢1200年の金木犀が倒れて通夜堂と石灯籠を直撃、石階段の手すりも大きな被害を受けました。修復するため、土佐町役場の若手職員がクラウドファンディングに挑戦。多くの人の賛同を得て、通夜堂や石灯籠などを見事修復しました。

クラウドファンディング、始まります!

 

 

早明浦ダム堰堤

絵の右上には皆さんご存知の早明浦ダムの堰堤が。大雨の際には放水される水が白い筋のように見えます。堰堤周辺ではさめうら湖畔マラソン大会が開催されたり、堰堤の地下100メートルの最深部には土佐酒造のお酒を貯蔵するなど、ダムを通じた交流も生まれています。
川村長康さんが、建設中のダムの写真を見せてくれました。

建設中のさめうらダム

 

軽トラックの柿の枝

国道を走る軽トラックにご注目。荷台に乗っているのは柿の枝。

2017年秋、土佐町の人たちの顔を描いてくれた下田さん。その展覧会の時、筒井博太郎さんが家の柿の枝を届けてくれました。「すごい!嬉しいなあ!」と喜んだ下田さん。その時の柿の枝が描かれています。わざわざ枝を切って持ってきてくれた博太郎さん。あらためて、ありがとうございました。

 

↓筒井博太郎さん・苗子さんご夫婦。「4001プロジェクト」で撮影させてもらいました。

筒井博太郎・苗子 (立割)

 

博太郎さんが柿の枝を持ってきてくれた時の記事はこちら。

下田昌克さんのこと 7

 

ろいろい ろいろい。

昔と今の田井の街並み。今見える風景の向こうには、この場所で泣いたり笑ったりしながら生きた先人たちの姿があったのです。過去があるから今がある。そのことを忘れずにいたいと思います。

 

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土佐町の絵本「ろいろい」。コロナ禍の数年も挟んで、約5年かけた長期プロジェクトとなりました。

完成した「ろいろい」は、ジャバラ型の少し変わった形をした絵本。ながーいページを伸ばすと、そこには土佐町の実在の風景や文化、人々が描かれています。

表面には春と夏の町。裏面には秋と冬。

15回に渡る記事で、絵本「ろいろい」を1ページずつ解説していきます。

 

 

昔と今の田井の街並み

土佐町の人なら誰でも知っている、土佐町の中心地「田井」の街並み。よく見ると、今はないお店も描かれています。

町の人たちが見せてくれた昔の写真やお話から、この場所にはかつておもちゃ屋さんがあり、ボンネットバスが走っていたことを知りました。かつての風景を残したい。その思いで、このページには今はなき風景も描かれています。

今回のご紹介する「昔と今の田井の街並み」のページは解説したいことが多いので、記事を2回に分けてお届けします。

 

 

ろいろい ろいろい

かつてたんぼだったとちのまんなかを はしるこくどう439ごうせん

このみちぞいに みせやいえがたちならび おおきくかわった ひとのせいかつ

むかしとかわらぬ   やまと なかじまかんのんどう

このとちのふうけいをみまもりつづける

 

文章中にある「かつて田んぼだった土地の真ん中を はしる国道439号線」。この文章の通り、現在お店が立ち並ぶ国道439号線周辺は、かつて一面の田んぼでした。国道ができたことで、町の人の生活も大きく変わりました。

1956年の田井

これは土佐町の畳屋さんである谷登(のぼる)さんが見せてくれた、1956(昭和31)年の田井の写真です。

国道439号線ができる前、写真中央左側の道沿いが土佐町のメインストリートでした。

 

かつてのメインストリート

清水屋旅館

絵の左下に描かれているのは清水屋旅館。築100年以上という旅館を、現在91歳の森ミネさんが切り盛りしています。

旅館に面した通りは、車がやっと一台通れる程の道幅で、人が行き交い「旅館の壁すれすれにバスが通っていた」のだそう。

清水屋旅館

 

冨士見館

清水屋旅館の隣に描かれているのは冨士見館。4代目の女将、高橋信子さんによると「ひいおじいちゃん、ひいおばあちゃんが大正5年(1916年)に創業した」とのこと。信子さんが小学生だった頃は「金魚屋さん」が宿泊。袋に入れた金魚を手に、年に数回来ていたそう。肩に担ぐ竿と金魚を入れる桶は、いつも冨士見館に置いてあったそうです。

冨士見館

 

山中百貨店

その向かいの「山中百貨店」は14年前に閉店。今はお店だけが残っています。仕立て屋さんだった山中百貨店。既成の服はほとんどない時代、お客さんが店頭で選んだ生地で洋服を作っていたそうです。

山中百貨店

 

岡部百貨店

そして現在も営業中、緑の庇の「岡部百貨店」。岡部百貨店を営む岡部忠利さんと真紀さんご夫婦を撮影させてもらいました。釣具や生活用品、駄菓子などを販売。大人も子どもも「おかべ」と呼び、町の人たちにとても愛されているお店です。

岡部忠利・真紀 (田井)

 

岡本菓子店

岡部百貨店の右隣に描かれているのは「岡本菓子店」。お菓子屋さんですがおもちゃも売っていて、毎日子どもたちがおこづかいを握りしめ、群がるように来ていたそうです。現在40代の人たちには懐かしい、任天堂のゲーム機「ファミリーコンピューター」も売っていたとか。「窓際のガラスのケースにはプラモデルが並んでた。よく行ったわ〜」と話してくれた人も。(かつてあったお店の場所とは違う位置に描かれています)

田井地区の曲がり角

 

西森理髪店

橋のたもとに描かれている床屋さんの赤白青のサインポール。こちらは「西森理髪店」。西森五明さん・美喜さんご夫妻が50年以上営んでいるお店です。五明さんには田井の昔の写真を見せてもらい、当時の様子を聞かせてもらったりと大変お世話になりました。

西森五明・美喜 (田井)

 

ボンネットバス

かつて走っていたボンネットバス。バスの車掌さんだった窪内花美さんに写真を見せてもらいました。

当時は「バスの扉が閉まらないほど人が乗っていて、閉まらないのにそのまま走っていた。今やったら問題やろうねえ」と話してくれました。

ボンネットバスを描いていた下田さんから「色は何色なの?」という質問がありました。当時の写真はモノクロで色がわからないため、車掌さんだった花美さんと西森理髪店の西森さんに尋ねました。「バスのボディはクリーム色、ラインは朱色だった」。お二人の記憶を辿り、この色となっています。

ボンネットバス

 

「昔と今の田井の街並み」、まずはここまで。

次回「土佐町の絵本ろいろい⑭ その2」に続きます!

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土佐町の絵本「ろいろい」。コロナ禍の数年も挟んで、約5年かけた長期プロジェクトとなりました。

完成した「ろいろい」は、ジャバラ型の少し変わった形をした絵本。ながーいページを伸ばすと、そこには土佐町の実在の風景や文化、人々が描かれています。

表面には春と夏の町。裏面には秋と冬。

15回に渡る記事で、絵本「ろいろい」を1ページずつ解説していきます。

 

 

秋は、黄金色の棚田。

ろいろい ろいろい。

次にやってきたのは高須地区の棚田。毎年、四季折々の美しい姿を見せてくれる棚田には県内外からも多くの人が訪れます。

 

ろいろい ろいろい

こがねいろにそまったたなだ みのりのあき

さらさらと  いなほをゆらすかぜがふく

このだいちをたがやしてきたひとたちの こえがきこえる

なによりのごちそう しんまいおにぎり

「ああ うまいにゃあ」

 

秋には、黄金色の稲穂の上を気持ちの良い風が通り抜けていきます。その風の道を先人たちもきっと見ていたことでしょう。棚田を見つめていると、この大地を耕してきた人たちの声が聞こえてくる気がするのです。

 

↓高須地区の棚田は「土佐町ポストカードプロジェクト」でも何度も登場しています。

2019 Sept.

2017 May

 

土佐芝刈り唄

土佐町に昔から伝わる民謡「土佐芝刈唄」。化学肥料などなかった時代、柴を刈って肥料として田んぼに入れていました。その作業は重労働で、「山のこっちでも向こうでもお互い励まし合う」ために唄っていたといいます。

そのお話が「土佐町の民話」の中に書かれています。

土佐柴刈り唄 前編(高須)

 

この唄の歌い手が池添博喜さん。2019年秋、稲刈りがひと段落した頃に、棚田で「土佐芝刈り唄」を歌っていただきました。朗々と歌い終わった池添さんの晴れ晴れとしたお顔が印象的でした。

池添博喜 (相川)

 

↓こちらは池添さんに唄っていただいた時の動画です。

【動画】土佐柴刈り歌

 

↓土佐芝刈り唄にまつわる話をもう一つ。こちらも「土佐町の民話」に掲載されています。芝刈り唄の全歌詞も記載されています。

土佐柴刈り唄 後編(高須)

 

 

田んぼの三角

田んぼに立っている三角の存在。このように藁の束を乾かして置いておき、乾いた頃にあか牛農家さんが取りにきて、あか牛の餌になります。お米どころであり、あか牛が育つ土佐町だからこその循環です。

この三角の名前は何という名前なのか?聞いてまわったところ、「わらぐろ」「わらすぼ」「すぼつき」と3つの候補が出てきました。

何だか懐かしい、土佐町の原風景のひとつです。

2021 Oct. 相川

2017 Oct.

彼岸花団子

秋、田の畦に咲く彼岸花。昔、この彼岸花の球根を団子にして食べたという話を司馬遼太郎さんの編集者だった窪内隆起さんが書いてくれました。

彼岸花の球根には毒があり、そのまま食べることはできないので、水にさらしてゆがいて、また水にさらして…を何度も繰り返す。

やっとできた団子はほぼ味がなく、砂糖醤油をつけて何とか食べられるというものだったとか。食糧の少なかった時代、飢饉の時の大事な非常食だったそうです。

赤い彼岸花の存在は、いくつもの時代を経て今があることを思い出させてくれます。

彼岸花団子

 

 

土佐あか牛を育てる

土佐町には、土佐あか牛を育てる畜産農家さんがいます。土佐あか牛は、高知県の山間部を中心に飼育されている褐色の毛色をした牛で、年間300~400頭しか出荷されていない貴重な品種です。

土佐町にはかつて100軒ほどの畜産農家があったそうですが、現在は約30軒ほどに減少しています。

近くで見ると、つぶらな瞳で優しい顔をしているあか牛。日々、農家さんに大切に育てられています。

 

↓畜産農家の沢田健次さん・智恵さん。「4001プロジェクト」で撮影させていただきました。

沢田健次・智恵(高須)

 

↓澤田清敏さんといち子

澤田清敏・いち子 (高須)

 

↓上田義和さんには、土佐あか牛の出産を見せていただきました。

土佐あかうしの出産

 

 

柚子の収穫

秋、土佐町では柚子の収穫時期を迎えます。澄んだ黄色のコロンとした柚子の香りは爽やかで、全国に送られています。

その柚子畑で撮影させていただきました。写っているのは、柚子を育てている田岡さん一家の子どもたちです。

2020 Nov.

 

ろいろい ろいろい。

今年収穫した新米のおにぎりをいただいて、おなかいっぱい。

さあ、さあ、元気に歩いていきましょう。

 

 

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土佐町の絵本「ろいろい」。コロナ禍の数年も挟んで、約5年かけた長期プロジェクトとなりました。

完成した「ろいろい」は、ジャバラ型の少し変わった形をした絵本。ながーいページを伸ばすと、そこには土佐町の実在の風景や文化、人々が描かれています。

表面には春と夏の町。裏面には秋と冬。

15回に渡る記事で、絵本「ろいろい」を1ページずつ解説していきます。

 

 

四国の水がめ、早明浦ダム

やまでたくわえられた ゆたかなみず

ひとしずく ひとしずく

ちいさなながれとなって たどりつく

しこくのみずがめ さめうらダム

「むかし つりぶねでかわをわたって がっこうへいきよったがよ」

かつてのむらは ダムにしずんだ

そのダムにいま ひとがあつまる

 

土佐町と隣町の本山町にまたがるように位置する「早明浦ダム」。ダム湖面は朝に夕に澄んだ空を映し、カヌーや釣り、サイクリングなどを楽しむ人たちが訪れます。

赤い吉野川橋の右下、カヌーに乗っているのは、ハンガリーからやってきたカヌーの元ワールドチャンピオン、ラヨシュ・ジョコシュさん。子どもたちにカヌーの楽しさを教えています。

Lajos Gyokos, Nikolett, Zorka, Levente

橋の下に描かれている緑色のジャケットを着た若者たちは、NPO法人さめうらプロジェクトのメンバー。高校生のワカサギ釣り大会「さめうらワカサギ甲子園」を開催したり、ダムは若い人たちが活躍する場となっています。

 

↓ダムは「土佐町ポストカードプロジェクト」にもたびたび登場しています。

2020 Jan. さめうら湖

 

ダムに沈んだ土地

早明浦ダムが完成したのは1973(昭和48)年。ダム建設のため、土佐町や隣接する大川村の多くの家々や土地がダムの底に沈みました。その時、この土地で暮らしていた人たちは一体どんな風景を見ていたのでしょう。

時代とともに当時のことを知る人は高齢化、語ることのできる人は少なくなっています。編集部は、当時の様子を知る人の元を訪ね、お話を伺いました。
記事を書いてくれたのは石原透さん。知りえぬ歴史と事実に耳を傾け、かつてこの地にあった暮らしを記してくれました。

 

川村友信さんのお話

ダムの横、古味地区に住む川村友信さんのお話を聞きました。

ダム建設により古味地区はダムの底へ沈むことに。立ち退きに伴う補償の交渉を重ね、多くの住民は本山町や高知市内、土佐町の中心地である田井地区へ引越しましたが、友信さんのお父さんは古味地区に残るという決断をしました。そして移動した先が、造成された今の土地。友信さんは今もこの場所で暮らしています。

川村友信さんの場合

 

川村雅史さんのお話

ダムの底に沈んだ柿ノ木地区。柿ノ木地区に住んでいた川村雅史さんにもお話を聞きました。

「柿ノ木」という地名がついたのは、地区内に樹齢300年と言われる大きな柿の木があったから。とても美味しい柿が実ったそうですが、ダム建設が決まったら枯れてしまったそうです。

川村雅史さんの場合

 

川村長康さんのお話

同じく柿ノ木地区出身の川村長康さん。

早明浦ダム建設により全戸が立ち退きした柿ノ木集落。12戸の中で最も高い位置にあった「新宅」という屋号を持つ家が長康さんの家でした。家屋は失われましたが土地は残りました。今も、長康さんは生まれ故郷である「新宅」へ通い、畑や沿道に立ち並ぶ木々の管理をしています。

川村長康さんの場合

 

吊り船で川を渡る

絵には、ロープで吊り下げられた「吊り船」に乗っている人が描かれています。これは、古味地区に住んでいた濵口幸弘さんのお話から。

濵口幸弘さんの場合

昭和36年(1961年)に本山町から土佐村に編入合併した古味地区。幸弘さんの母校である西部小中学校も本山町から土佐村に編入され、校名も大河内小中学校に変わりました。

本山町の時代より吉野川を挟んだ向かいの土佐村(東和田地区、柚ノ木地区)から川を渡って通っていた生徒がおり、川を渡る手段は地上高約30mの吊り舟(人力ロープウェイ)。3本のワイヤロープで吊られた舟の定員は5人程度。人数が多いと重く沈むため、ロープ中央まで下ると後半は上りに。渡るのはかなり重労働だったそうです。

買い物へ行くために利用する人もいて、吊り船は川の上を行ったり来たり。風が吹くと、吊り船が揺れて怖かったとか。

1963年に橋が完成したため吊り船は廃止。周辺一帯はダム水没地となり、大河内小中学校は1969年に閉校し、ダムの底に沈みました。

その吊り船の下には「サッシー」が。早明浦ダムには「サッシー」がいたとか、いないとか。かつてそんなお話もあったそうです。

 

編入合併

ダムができる前、周辺の「大渕・古味・井尻・下川・上津川」の5地区で熱い闘いが起こりました。そのお話はこちら。

そして、編入合併へ・・・

 

早明浦という地名について

なぜ「早明浦」というのでしょう?その言い伝えはこちら。

早明浦と言う地名について(早明浦)

早明浦ダムの底には、この場所で生きていた人々の暮らしが沈んでいます。

かつての風景を知る人は年々少なくなっています。その人たちから話を聞き、過去を少しでも知ることで、目の前の風景が違って見えます。

ろいろい ろいろい。

早明浦ダムを見つめる時、この地に沈んだかつての生活を少しでも想像してもらえたらうれしいです。

 

 

 

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くだらな土佐弁辞典

まけまけいっぱい

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まけまけいっぱい

【動詞】(こぼれ落ちそうなほど)飲み物を注ぐ

 

例:桂月を まけまけいっぱい 注いでや

 

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土佐町の絵本「ろいろい」。コロナ禍の数年も挟んで、約5年かけた長期プロジェクトとなりました。

完成した「ろいろい」は、ジャバラ型の少し変わった形をした絵本。ながーいページを伸ばすと、そこには土佐町の実在の風景や文化、人々が描かれています。

表面には春と夏の町。裏面には秋と冬。

15回に渡る記事で、絵本「ろいろい」を1ページずつ解説していきます。

 

絵:下田昌克

秋冬3ページ目は、山で生きる人

ろいろい ろいろい

きをうえるひと そだてるひと

きをきるひと ざいにするひと

やまでいきるひとたちがいる

「はいでるものは はいでえ とびでるものは とびでえ これから ひをいれるぞう」

むしやとりによびかけ  のをもやす

だいちをこやす やまのいとなみ

 

はいでるものは はいでえ

文章中にある「はいでるものは はいでえ とびでるものは とびでえ これから ひをいれるぞう」。

これは、山師である筒井順一郎さんが教えてくれた言葉です。

昔、田がない場所で暮らす人は粟や稗を育て、それを食べて生きてきました。野を焼き、その灰を肥料として作物を作っていた順一郎さんのお父さんが大地に火を入れる前に言っていたのだそう。

「這い出るものは はい出え 飛び出るものは 飛び出え これから 火を入れるぞう」

そう動物や虫たちに呼びかける。

「自分は焼き畑農業をしているわけじゃないけんど、この言葉は身体に染み付いてるんよ」

順一郎さんはそう話してくれました。

山があり、山で生きる。山で生きるため、山で働く。山で生きるものたちに呼びかけ、そのものたちと明日も生きる。

自然と共に生きるとはどういうことなのか?この言葉はその答えの一つを教えてくれる気がします。

 

↓「4001プロジェクト」でも筒井順一郎さんを撮影させていただきました。

筒井順一郎

 

絵を描いてくれた下田昌克さんも、順一郎さんからお話を聞きました。

2019年1月、まだ霜柱が立つ山道を登り、順一郎さんは普段仕事をしている山を案内してくれました。

「生活のために植えた木が、切ってくれ、と言いゆう。木を見ちょったらわかる。木を切ると、残った切り株の栄養が周りの木に行き渡り、木が育つ。切り株はスポンジ状になって雨水をゆっくりと吸い込み、山の保水力を高める」

下田さんは「順一郎さんの話だけでも、一冊の本が作れそう」と話していました。

 

↓その時の記事はこちら

下田昌克さんが(再び)土佐町にやって来た! 2日目

 

培われてきた循環

土佐町は四国のほぼ中央に位置し、町の面積の87%が森林という緑ゆたかな町です。森林組合をはじめ企業や自伐型林業を営む人など、山を生業とする人たちは多く、林業は町の重要な産業の一つとなっています。

山の樹木を伐採し、木材を生産することはもちろん、この町には木を植えて育てる人、製材する人、さらにはその材で家を建てる大工さんもいます。

林業は50年、100年先を見据える仕事だと聞いたことがあります。子供、孫の世代、それより先の未だ見えない未来を見つめ、一本ずつ木を植える。そしてその木を育て上げ、切って、使う。何十年何百年という壮大な時間のなかで、その時のそれぞれの現場に人が立ち、仕事をする。その一連の営みが成立してきたのは、磨き上げた技術と知恵を持つ人たちがこの地にいて、綿々と自らの仕事を積み重ねてきたからです。

培われてきたその循環は、この町のかけがえのない財産であると思います。

 

 

ろいろい ろいろい。

きをうえるひと そだてるひと

きをきるひと ざいにするひと

土佐町には、山で生きる人たちがいるのです。

 

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土佐町の絵本「ろいろい」。コロナ禍の数年も挟んで、約5年かけた長期プロジェクトとなりました。

完成した「ろいろい」は、ジャバラ型の少し変わった形をした絵本。ながーいページを伸ばすと、そこには土佐町の実在の風景や文化、人々が描かれています。

表面には春と夏の町。裏面には秋と冬。

15回に渡る記事で、絵本「ろいろい」を1ページずつ解説していきます。

 

絵:下田昌克

秋冬2ページ目は南川のカジ蒸し

ろいろい ろいろい

かじむしの ゆげのむこう

かわをはいで かわかして これがとさのかみとなる

いっしょにむしたさつまいも

ひえたてのひらあたためる

「あとでししじるたくき うちんく きいや」

 

毎年2月、土佐町南川地区では「カジ蒸し」が行われています。カジを蒸す木の甑から白い湯気が上がり、その元でカジの皮を剥ぐ人たち。その風景は冬の風物詩と言ってよいでしょう。

「カジ」は楮とも言われ、紙の原料になるもの。畑や山に育つカジを切り出し、蒸しあげ、皮を剥ぎ、皮を乾かして出荷します。昔から高知県各地で行われてきた仕事で、山で暮らす人たちの貴重な収入源でした。以前は土佐町の各地でもカジ蒸しをしていたそうですが、今ではめっきり少なくなりました。

絵にはカジと一緒に蒸したサツマイモも描かれています。このサツマイモの存在が楽しみの一つだったそう。寒い風が吹くなか、甑やサツマイモから上がる湯気は、働く人たちの身体をほっと暖めてくれる存在です。

カジ蒸しは、何世代にも渡って引き継がれてきた労力のかかる仕事です。そして、とても貴重な営みです。

絵本を通し、こういった営みがこの地で行われていることを多くの人に知っていただけたらと思います。

 

↓南川のカジ蒸しについての記事はこちら

南川のカジ蒸し(前編)

 

シシ肉をいただく

カジ蒸しのお手伝いをさせていただいていた時に、通りがかった軽トラック。その荷台には捕らえられたイノシシが載せられていました。

 

↓その時の様子はこちら

南川のカジ蒸し(後編)

猟師さんはこのイノシシを捌いて肉にします。

文章中の「あとでししじるたくき うちんく きいや」。これは、冬の間よく聞かれる会話です。

山にはイノシシをはじめ、鹿や猿、ハクビシンやタヌキなどもいます。田んぼや畑の作物を荒らしたり、鳥獣被害も多いため猟師さんは山へ入って猟をし、罠を仕掛けます。

なぜ、鳥獣被害が起きるのか?猟師である近藤雅伸さんがこんな話をしてくれました。

「山を植林にしてしもうたき、食べ物がないき、作物のあるところにイノシシは来る。イノシシには本当は罪はないんよ。イノシシは人が作っちゅうなんて知らんわけやき」

鳥獣被害の原因は人間自らが作り出している一面もあるのだと思います。でも、人間も生きていかなければならない。だから捕らえる。そして、捕らえた命を無駄にしてはならないとありがたくいただく。

近藤さんは、イノシシを捕らえたら、その肉を周りの人に分けて食べてもらうそうです。

「ひとつの命をみんなで分けて、“ありがとう”とみんなに食べてもらったらええんじゃないかと思って。一つのものを大事に使うて、食べて、自分があとで後悔せんようなかたちにしていきたい」

 

シシ肉は、野菜と一緒に炊いて汁にしたり、塩胡椒して焼いて食べます。つい先ほどまで山を走っていた命。口にすると、身体の奥底からふつふつと確かなエネルギーが湧いてくるのを感じます。

大昔から繰り返されてきた生きるための営みが切り離されることなく日常として存在していることは、今の日本の中でとても貴重なことだと思います。

 

↓猟師の近藤雅伸さんから聞いたお話はこちら

シシ肉をいただく

 

優良運転者の証

描かれている軽トラックをご覧ください!前右下にきらりと光る黄金色の印。これは高知県の優良運転者に授けられるもので、土佐町内では高齢の方の軽トラックに付けられているのをよく見かけます。

調べてみると「無事故無違反年数10年以上、人格技能ともに優れ過去に同じ表彰を受けてない方」という選考基準もあるとのこと。まさに優良運転者の証です。

軽トラックは、山の暮らしにはなくてはならない相棒のような存在。いつまでも安全に乗り、山の暮らしを送れますように。

ぜひともこの印を描いてほしい!という制作チームの強い思いがあり、下田さんに描いてもらいました。

 

ろいろい ろいろい。

南川の人たちと出会い、この土地の文化を知る。

歩くことは出会うこと。次はどんな出会いが待っているのでしょう。

 

 

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土佐町の絵本「ろいろい」。コロナ禍の数年も挟んで、約5年かけた長期プロジェクトとなりました。

完成した「ろいろい」は、ジャバラ型の少し変わった形をした絵本。ながーいページを伸ばすと、そこには土佐町の実在の風景や文化、人々が描かれています。

表面には春と夏の町。裏面には秋と冬。

15回に渡る記事で、絵本「ろいろい」を1ページずつ解説していきます。

 

絵:下田昌克

 

秋・冬のページスタート!ここは、高峯神社。

土佐町の絵本「ろいろい」。ここから、秋・冬のページのご紹介です。

秋冬編、最初のページは高峯神社からスタート。

 

こけむしたさんどう あしもとにあさつゆ

りんとしたくうき いちだんずつ いしだんをのぼる

ここは かぜわたる たかみねじんじゃ

このばしょを まもりつづけるひとがいる

「ちょっくら さんぽにいってきます」

 

土佐町 芥川に建つ高峯神社。今までとさちょうものがたりでは、高峯神社にまつわる記事をいくつも作ってきました。

 

 

↓「土佐町ポストカードプロジェクト」

2018 Feb.

 

筒井賀恒さん

地域の人たちからとても大切にされている高峯神社。長年、守り人としてこの場所で仕事を続けてきた筒井賀恒さんという人がいます。

高峯神社への道しるべの存在や言い伝え、この場所への深い思いなど、賀恒さんに教えてもらったことはかけがえのないことでした。

 

↓「4001プロジェクト」

筒井賀恒 (東石原)

 

縁の下の力持ち

絵の中の一つ目と二つ目の鳥居の間、よーく見ると、階段の途中にコンクリートのブロックが描かれています。これを設置したのは賀恒さんです。なぜコンクリートのブロックなのか?それにはちゃんと訳がありました。

石段と石段の間には高さがあるので「このブロックがあると、先輩たちが上りやすいろう」と、地域の先輩に相談してホームセンターで1つ100円のブロックを買い、軽トラックで神社のそばまで載せて来て、賀恒さんが一つずつ運びあげたといいます。

ブロックは、この地では日常的に使われているものです。賀恒さんにとって、きっとこの場所は日常であり、生活の一部。70年間、この場所に毎日のように通い、小さな変化に気づき、その時の自分にできることをしてきた賀恒さんならではの仕事のあり方だったのだと感じます。

誰に言われるでもなく、誰かに褒められるためでも認められるためでもない。自らひけらかすこともなく、やるべきことを淡々と積み重ねる。自分のしたことが気づかれないこともあるかもしれない。でも、大切なのはそんなことではないのだ、と教えてもらいました。

控えめにぼそっと「高峯神社の縁の下の力持ちになれたらと思うちょります」と話してくれた賀恒さん。その姿が、今も心に残っています。

高峯神社の守り人 その4

 

作神(さくがみ)、豊穣の神

高峯神社は作神(さくがみ)、豊穣の神を祀っています。

絵の中の三つ目の鳥居の右横には、鷹の石像が描かれています。

「相川の田んぼでスズメの被害があってよ、稲がとれんというのでここへお参りに来たんじゃろう。これは鷹じゃね。鷹がスズメを追い払ってくれた、稲がようとれたということで、相川の集落のもんがこれを奉納した」

賀恒さんはそう教えてくれました。

相川は土佐町の米どころ。鷹の姿から、相川の人たちの切なる願いが伝わってくるようです。

高峯神社への道 その8  ついに目的地へ!

 

 

手洗石

絵の右下に描かれているのは手洗石。1887(明治10)年、「土佐町の石原から平石に行く途中の、有馬林道入口のあたりの川原にあった石」を毎年少しずつ運び上げ、今の場所にあるのだそう。そのお話は、土佐町史に掲載されています。

高峯神社の手洗石 前編

高峯神社の手洗石 後編

 

高峯神社への道しるべ

賀恒さんに教えてもらった高峯神社への道しるべを辿った記録です。道しるべは高峯神社へ向かう道々にある石碑で、その地図も記しています。教えてもらうことがなかったら、ただ通り過ぎ知らなかったままだったでしょう。

車も舗装された道路もなかった時代、石碑をたどって山道をのぼり、高峯神社へ参拝した人たちがいたこと。苔むした参道に立つと、その人たちの声が聞こえてくるような気がします。

高峯神社への道 はじめに

 

ひだる、登場

そうそう、秋冬編から、主人公は女の子になっています。木の陰からこっそり見ている赤い子(?)は「ひだる」です。(ちなみに、春・夏編には「えんこう(カッパ)」が登場していました)

ひだるは「おなかがすいたときに取り付く」憑き物。妖怪みたいなものです。山道を歩いていて、急にお腹が空いたりふらっとしたり…。そんな時、昔から「ひだるに憑かれた!」と言っていたとか。

憑かれた時はとにかく、何でもいいから食べるのが一番。山で仕事をする人は、ひだるが憑いた時のために、いつも「お弁当を一口だけ残して持っていた」そうです。

ひだるの姿を見たことがある人は誰もいません。が、下田さんが想像してこの赤い子を描いてくれました。

 

 

↓下田昌克さんも、何度も高峯神社を訪れています。

下田昌克さんが(再び)土佐町にやって来た! 4日目

下田昌克さんが土佐町にやって来た!2020年(1・2日目)

2021年、下田さんは「もう一度高峯神社は見ておきたい」と急遽現地へ。長い山道を歩きながら「この位置に手洗石があって」とか「ここに鳥居がある」などと確認しながら、参道を往復しました。

神社までの道のり、長い長い参道を一枚に収め、これぞ高峯神社という絵を描いてくれた下田さんの手腕にただただ脱帽でした。

【土佐町の絵本】下田昌克さんが土佐町にやって来た!2021-②

 

ろいろい ろいろい。風渡る高峯神社をあとにして、次へ向かうのはどこでしょう?

ひだるをお供に、まだまだ旅は続きます。

 

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土佐町の絵本「ろいろい」。コロナ禍の数年も挟んで、約5年かけた長期プロジェクトとなりました。

完成した「ろいろい」は、ジャバラ型の少し変わった形をした絵本。ながーいページを伸ばすと、そこには土佐町の実在の風景や文化、人々が描かれています。

表面には春と夏の町。裏面には秋と冬。

15回に渡る記事で、絵本「ろいろい」を1ページずつ解説していきます。

 

 

ろいろい ろいろい

ちょうちんのもと おどってわらう きょうは なつまつり

どーん どーん そらをみあげる

あのひとも このひとも ここにいる

「ただいま」

「おふろ わいちゅうよ」

じんわり ぬくぬく あたたまる

ろいろい ろいろい

 

土佐町の春・夏、最後のページ

ろいろいとやって来たのは、夏のお祭り。このページは森地区の野中祭がモデルになっています。

盆踊り・花火・奉納相撲。右上斜面にあるのは鏡峰寺の鐘でしょうか。

 

↓「土佐町ポストカードプロジェクト」にも鏡峰寺の鐘は登場しています。

2020 Dec.

毎日朝7時と夕方18時、ゴーンゴーンと森地区に鳴り響き、時を告げてくれます。

 

「あのひとも このひとも ここにいる」

みんなで笑って輪になって踊る。このシーンは「キネマ土佐町」でも繰り返し出てきます。

相撲も花火も登場します。

 

キネマ土佐町・夏

 

五右衛門風呂

汗ばむような暑気の中。みんなで踊って家に帰ればそこには暖かいお風呂が沸いています。

どうやらこのお風呂はまき風呂ですが、あれ、火の番はなにか不思議なことになっていますね。

朝からずっとついて来てくれた龍と、、、一緒にお風呂に入っているエンコウ!

一日、町をろいろいした3人、きっと夜はぐっすりでしょうね。

 

↓地蔵寺ふれあいキャンプ場には五右衛門風呂が。

下田昌克さんが土佐町にやって来た!2020年(3日目)

地蔵寺地区の方たちが作った手作りのお風呂で、焚き口の横には薪が積んであります。

自宅のお風呂が薪風呂の家も多い土佐町。夕方になると、家々の煙突から煙が立ち上る風景も見られます。

 

↓お風呂を炊く係だったというお話「お風呂たき」

お風呂たき

土佐町では、薪のある生活が今も営まれています。お風呂をはじめ、山菜やタケノコ、こんにゃく芋をゆがいたりと大活躍。餅つきする時にも、かまどに火を入れ、もち米を蒸したりします。特別なことではなく、日常。その日常がどんなにゆたかなことであるか。

身近だった火の存在が、いつの間にかどこか遠くに感じられる現代。ボタン一つでお湯が沸くのも確かに便利です。が、火の灯りをじっと見つめていると、なんとも言えない安らぎを感じることも事実です。

 

春、夏の土佐町のページは、これでおしまい。次は秋、冬のページをご紹介します!

 

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