新年のご挨拶を申し上げます。
地震や事故が続き、驚きとともに明けた新年。被害に遭われた方々のことを思いながら、今年はどんな一年になるのかと心配が先に立つ。心がモヤモヤするが、それでも巡る季節とともに自分ができることをやっていこう、といつもの結論に至る。
つい先日稲刈りを終えたと思っていたのに、いつの間にか年が変わり、最初の月も三分の一が過ぎた。
高知に来て田植えをはじめたのが2014年と記録にあったから、去年で十回目の米つくりだった。
米つくり一年目は、笹の敷地内にある五畝ほどの田んぼではじまった。知識も農具もほとんど揃っていない状態だったから、ご近所さんにお知恵や道具をお借りしたり、見よう見まねで作業していた。時間と労力は掛かっていたが、新しい暮らしの中で、家族が食べる主食を自給する喜びは大きかった。失敗も多々あったが、有り難くも毎年収穫をすることができた。その田んぼの様子を認めてもらえたのか、その後地域の方々に声を掛けてもらって、いまは四枚約二反半で稲作している。家族で消費する以上の量が採れ、余剰分は物々交換したり、ポン菓子や米粉などの加工品にして活用している。
引越し前の千葉でも田んぼをやっていたが、場所が違えば、気候もやり方も違う。地域の方にアドバイスをもらいつつ、自分が理想とする農法を十年たった今でも模索している。
なるべく道具に頼らないようにと、田んぼに作った苗床に直接種を播き苗を育てた年があった。農機械が登場する前の農法で苗箱などの資材を必要としないが、作業が大変だった。手で苗を一本一本引き抜き束にしなければいけないし、いつの間にか隣に生えている稲そっくりの稗(ひえ)を選らなくてはならず時間がとても掛かった。腰は痛くなったが、意外と苦ではなかった。陽春の中、友人たちとおしゃべりしながらの作業は心地よいひとときだった。
ポット式の育苗箱(*1)約80枚に種籾を三四粒手で蒔いた年は、ひとりで作業をはじめたが、これはとても間に合わないと急遽友人たちに連絡とって手伝ってもらい、五六人で丸二日掛かった。またある年は竹で建てた「はで(*2)」が台風で倒壊し、濡れて重くなった稲藁束を掛け直したこともあった。ピンチを脱したのはいまでは良い思い出だし、翌シーズンへの改善点となった。
最近では、より長く続けられるようにと考え、ある程度の機械化をしている。
田植え機や稲刈り機は古い型ながらも利用しているし、前作ではコンバインを友人から借り、あっという間に稲刈りが終わってしまって、今更ながら機械の力に脱帽した。
ここまでの道のりを振り返ってみると、日本の稲作の歴史をこの十年で辿ってきた感がある。
いろいろ試してみて、「地域の農家さんのやり方が一番」という結論に落ち着きそうだ。彼らが長い時間を掛けて改善してきた結果がいまの農法やシステムであり、それは人の負担を大幅に減らしてきた。各作業にはそれぞれ理由がある。そんな当たり前を自分の身体で実感できたのは貴重な経験だ。
そんなこんなで、十一回目の米つくりがはじまる。
今回はどんなやり方をしようか、収量や味はどう変わるか。
いまから心配しつつ、楽しみにしてる。
写真は、2013年の稲刈りの景色。はでの竹竿に寄りかかる当時三歳の長女・ほの波は、この春で中学校二年生になる。
*1:ポット式育苗箱 地域では苗箱と呼ぶ。苗を育てる育苗箱一枚に448個の穴が空いており、そこに専用の機械で育土と種籾を入れて、田んぼの苗床に置き育苗する。田植え時に根を切ることがないので、活着しやすい。
:2:はで 刈り取った稲束を掛けて天日乾燥させる干し台。地方によって様々な形があり、「はぜ」「はざ」「稲木」などとも呼ばれる。