2019年4月

 

 

山の人、町の人。先祖代々住む人、都会から越してきた人。猟師さん、農家さん、森の人、職人さん、商店さん、公務員…。

人口4,000人弱の土佐町にはいろいろな人がいて、いろいろな人生があります。

土佐町のいろいろな人々はどんな本を読んでいるのでしょうか?もしくは読んできたのでしょうか?

みなさんの好きな本、大切な本、誰かにおすすめしたい本を、かわりばんこに紹介してもらいます!

(敬称略・だいたい平日毎日お昼ごろ更新)

私の一冊

藤田純子

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「夜を乗り越える」 又吉直樹 小学館

明治・大正・昭和初期の時代の文学、近代文学は人間の苦悩をとことん突き詰め、純粋さや隠された邪悪さにどんどん落ち込んでいくような内容に刺激され、自分もいっぱしの読者になって文学者の深さに共鳴できた気がして、次々と読んでいった高校生の時代がありました。

特に太宰治の本はほとんど読んだと思います。太宰にはまるのは若い頃の“はしか”のようなものらしいですね。

どんな内容だったのかほとんど覚えていないのは「恋に恋する」ように「文学に恋していた」のかなと思います。

直木賞作家でお笑い芸人の又吉直樹さんは、多感な子どもの頃、自分のことが全くわからず、
『明るい/暗い/強い/弱い…、どちらにもふりきれない、そしてそんな話ができる相手もいない、ひとりで考え、頭の中で考えがめぐるばかりで答えが出ません。変な人間に生まれてきてしまった、もうどう生きていっていいのかわからない…。
でも本に出会い、近代文学に出会い、自分と同じ悩みをもつ人間がいることを知りました。それは本当に大きなことでした。本を読むことによって、本と話すことによって、僕はようやく他人と、そして自分との付き合い方を知っていったような気がします』と書いています。

この本を紹介して読んでくださった方は全員「とても共感できた」と喜んで感想を言ってくださいました。

機会があればぜひ!おすすめの一冊です。

藤田純子

 

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笹のいえ

苗床つくり

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レンゲが満開の田んぼから、コロコロコロとアマガエルの声が聞こえはじめた。

周りの田では着々と田植えの準備が進んでいて、まだ何もはじまっていない自分の田んぼの横を歩くたびに「そろそろやらなければ」と気ばかり焦る。

ほころびはじめた八重桜の蕾を友人が摘みに来たこの日、お米つくりの第一歩である苗床をこしらえた。

苗床(地元では「のうどこ」と呼ばれる)は、お米の苗を育てる場所のこと。この地域では田んぼの一部を仕切って作るのがほとんどで、種籾を蒔いた専用の箱を並べ、発芽から田植えできる大きさになるまでここで管理する。お米にしろ野菜にしろ、「苗半作」と言われるくらい大事な時期。苗のできばえで、その後の成長や収穫を左右するからだ。一箇所でたくさんの苗を作る稲作では、それ故に病気などが発生しやすいが、いかに良好な苗を田に植えられるか、その基盤となる苗床はとても重要だ。

前の日に雨が降ったので、田の土は重く、足元がぬかるむ。

それでも、春の陽気の下、冬の間なまった身体を動かすのは気持ちがいい。一年前を思い出し、「今年はこうしてみよう」「うまくいくかな」なんて考えながら、自分のペースで進めるのはとても贅沢な時間だ。

はじめるまでは「めんどくさいなあ」とまで思っていた作業だが、時期がくればちゃんとスイッチが入る。頭と身体と季節は繋がっているのだと実感する。

毎年やり方を模索している稲作だが、今年は二反半全ての田んぼで手植えしようと思ってる。苗床に直接種を蒔き、苗を大きく育て、間隔を広くして植える。去年は機械植えと手植えをやったが、どちらの方法でも収量は変わらなかった。田植え機を使うと作業はあっという間に終わるけれど、苗の大きさや植える時期などいろいろと制限があったり、機械のスピードに振り回されたりして、どっと疲れる。機械作業と手作業、それぞれ一長一短があるから、これもまた模索を続け、自分の身体とも相談しながら、そのときにベターな方法を選びたい。

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私の一冊

石川拓也

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「全世界史」 出口治明 新潮文庫

著者の出口治明さんは、ライフネット生命保険株式会社創業者であり、現在は立命館アジア太平洋大学(APU)学長です。

この本は、その出口さんが書いた「全人類史」とも言うべきもの。壮大すぎて世界史の教科書のように感じる方もいるかもしれませんが、もちろん教科書よりもはるかに面白いです。

その理由は、出口さんの視点にあります。

先ほど「全人類史」と書きましたがまさにその通りで、出口さん曰く、

「日本史」や「中国史」「ヨーロッパ史」などは実は存在しない。現在の人間が想像する以上に、太古から人類は移動を繰り返し影響を与え合っているので、一つの地域や国での歴史はそれだけで存在するわけではなく、本当の意味での歴史は「人類史」という一つなのである。

とのこと。

そのように歴史を見たことはこれまでなかったのですが、なるほど確かにその通りと思います。

例えば奈良時代に建立された東大寺の大仏開眼式典を取り仕切ったのはインド人の仏僧だったとか、モンゴル帝国が野蛮なイメージなのは後世作られたもので、実際には人とモノとお金がグローバルに循環する超インターナショナルな世界だった、とか。

あ、もう一つ。スペインが切り開いた「大航海時代」よりはるか以前に中国には「鄭和(ていわ)の大艦隊」と呼ばれる一大艦隊があり、それに比べるとスペインのものは笑っちゃうくらい小規模なものだった、とか。

明の皇帝は、鄭和の大艦隊を解体することでその経費を万里の長城の建設に充て、鄭和の大艦隊がいなくなったインド洋に、やっとヨーロッパ人の小規模船団が入れるようになった、そのことを現在では「大航海時代」と呼んでいる、とか。

もっと書きたいことはたくさんあるのですが、我慢します笑

世界の全ては目に見えないところでつながっている。なぜ現在の日本がこうなって現在の世界がこうなっているか、そういう大きな理解を掴みたい方に強くお勧めします。

 

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土佐町のものさし

【番外編】ブータン・GNHレポート No.4

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 土佐町の新しい指針を作る過程を追う「土佐町のものさし」、今回は【番外編】として、GNHの産みの親であるブータンのGNHの現状を、とさちょうものがたり編集長である石川がレポートします。

 

4.  ブータンの食事

 

ブータン料理って、日本ではなかなか馴染みのないものですよね?

チベットとインドに色濃く影響を受けながら、ブータンも独特の食文化を育んできました。

今回は、ブータンの人々が普段食べている食事を紹介したいと思います。

 モモ

上の写真は「モモ」と呼ばれる「チベット餃子」です。

たいていのお店にはミート(豚)とチーズの2種類があり、ブータンの人にとってはファーストフード的に気軽に寄って食べていくスタイルです。

皮は厚めでもちもち、美味しいです。


上の写真はブータンの典型的な食事です。

ブータンでは大抵このようにご飯とおかずがドドドン!と置かれていて、脇に置かれた食器を各自が持って自分の皿に好きな量を取っていく形です。

ブータン料理はトウガラシが大量に使われるのが特徴です。僕自身は辛いのがあまり得意でないので、トウガラシの塊はできるだけ出会わないように気をつけていました。

がさつな人が盛り付けたがさつな皿。

ブータン料理のイメージを傷つけてしまってないか心配です‥。

先に書いたように、ブータン料理は各自が皿を持ち盛り付けていくスタイル。

どうあっても繊細な盛り付けができないこの皿の主は、ご想像の通りわたしです。。。ブータンの人々すみません。

左上に見えてるのは「ダル」というスープ。インド料理でもありますが、ブータンのダルはまろやかで美味しいです。

上はブータン西部にあるシュラブッチェ大学を訪れた際に食べさせていただいたランチ。

盛り付けはさっきのよりかは、こっちのほうがマシでしょうか。ここで食べたランチは非常においしいものでした。

 

 チュルカム(乾燥チーズ)

上の写真は「チュルカム」という乾燥したチーズ。乾燥してるだけあってかなり固いです。

移動の道中、田舎の峠にあった小さな商店で店先にたくさん吊るされて売られていました。

これはブータンの伝統的なおやつ。ブータンの人はみんなチュルカムを口の中でコロコロ転がしながら1、2時間楽しむようです。

 

店頭にチュルカムが干されている、の図。ちょっと干し柿みたいですね。
味はあんまりしないです笑

ブータンに滞在中は、ほんとに大量のお茶を毎日飲みました。

空気が乾燥していることもあり、そして高度に順応するための水分補給ということもあり、食事時には何杯ものお茶を飲み、食事時でなくてもチャンスがあれば何杯ものお茶を飲み。

おそらく2019年2月前半の「ブータンお茶摂取量(個人の部)」では相当イイ線行ってるはずです。誰か集計してくれないかな。

写真はふつうの紅茶ですが、ダントツで一番よく飲んだのはミルクティー。ブータンのミルクティーはミルク多めのコク強めです。インドのチャイに近い印象です。

 

食事をしている最中に周りをウロウロしていたブータンの猫

 

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私の一冊

鳥山百合子

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「谷川俊太郎質問箱」 谷川俊太郎 東京糸井重里事務所

詩人の谷川俊太郎さんが寄せられた質問に答えていくこの本は、時々クスッと笑えたり、なるほど〜と思えたり。うん、肩ひじ張らなくてもいいよね、と思えます。

2枚目の写真の質問「大人になるということは、どういうことなんでしょう。谷川さんの「大人」を教えてください」。

その答えは「自分のうちにひそんでいる子どもを怖れずに自覚して、いつでもそこからエネルギーを汲み取れるようになれば大人になれるんじゃないかな。最低限の大人のルールは守らなきゃいけないけど、ときにそのルールから外れることができるのも、大人の証拠」と谷川さん。

なるほど!

これはいいなあ、と思った質問をもうひとつ。

質問:「車、飛行機、そのあとに続く乗りものって、まだないと思うんです。ぼくたちはこれからいったい何に乗ればいいんでしょうか。」

答え:「雲に乗るのもいいし、風に乗るのもいいし、音に乗るのもいいし、気持ちに乗るのもいいんじゃないかなあ。機械じゃない乗りもの、手でさわれない乗りものが未来の乗りものです」

 

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賀恒さんはお正月用の飾りを作るところを見せてくれた。

地面にゴザと座布団を敷き、母屋の隣の小屋から藁の束を出して来た。秋にお米を収穫した時に、きれいな藁を取っておいたのだという。その藁でお正月飾りを作ったり、しめ縄を綯ったりする。
藁の束を片手でひょいと持ち、ホースからちょろちょろと流れ出る山水で濡らす。そうすることで藁がしんなりし、手で綯いやすくなるのだ。ぽたぽたと山水の雫を伝う藁を揃え、座って静かに藁を綯い始めた。

夕方の橙色の光に照らされながら「高峯神社の鳥居のしめ縄もこうやって綯っちゅうのよ」と話しながら綯われた飾りは、それはそれは美しいものだった。高峯神社の手洗石や鳥居、本殿に上がる階段につけられていたいくつものしめ縄は、賀恒さんが作ったものだったのだ。

 

目の前に迫る山を指差しながら「この山の尾根伝いに行ったら高峯神社に着くよ」と教えてくれた。山道をくねくねと行ったり来たりしながらたどり着いたこの場所に立つと、方向感覚なんていうものはなくなってしまう。賀恒さんが指差した方向は、私が思っていた方向と真逆だった。

 

高峯神社には、拝殿へ向かう階段のところどころにコンクリート製のブロックが置いてある。段差がきつい箇所に置いてあるので石段を上りやすいようにしていることはわかった。でもいつも不思議で仕方なかった。きっと歴史ある特別なこの場所なのになぜ「コンクリート」を使うのだろう、他に方法はなかったのだろうかと残念にさえ思っていた。

ある日突然、その謎はとけた。賀恒さんと一緒に階段を上っている時だった。

「このブロックがあると、先輩たちが上りやすいろう。ホームセンターのブロックを買ってきて置いたんで」
賀恒さんはさらりと言った。地域の先輩に相談してホームセンターで1つ100円のブロックを買い、軽トラックで神社のそばまで載せて来て、賀恒さんが一つずつ運びあげたのだという。

まさか賀恒さんだったとは!
心底驚き、そして爽快だった。

これは、70年間この場所へ通い続けた賀恒さんがした仕事なのだ。

「ブロック」は、この地では日常的に使われているものだ。賀恒さんにとって、きっとこの場所は日常であり、生活の一部でもあるのだ。この場所に毎日のように通い、小さな変化に気づき、その時の自分にできることをしてきたのだ。ブロックを抱え、ひとり階段を上る賀恒さんの姿を思うと「なぜブロック?」と、そんな風に思ってしまった自分が恥ずかしかった。

「大変だったでしょうね」と言うと、賀恒さんは「いやいや、そんなことない。やらしてもろうて」と首を振るのだった。

 

そして、ぼそっと言った。
「高峯神社の縁の下の力持ちになれたらと思うちょります」

 

 

賀恒さんの背中を見ていて思う。

 

どうしてなのだろう。
誰に言われるでもなく、誰に褒められるわけでも認められるわけでもなく、自らひけらかすこともなく、自分のやるべきことを淡々と積み重ねる。自分のしたことが誰にも気づかれないこともあるかもしれない。

でもきっと、大切なことはそんなことではないのだ。
この地で生きる人たちの一見さりげない仕事の数々が、気持ちの良い風を吹かせる。小さなひとつひとつが目の前の現実を昨日よりもよりよく、より美しくしているのだと思う。その変化は見ようとしないと見えないかもしれないし、ふとした時に初めて気付くのかもしれない。世の中を動かし支えているのは、世界中のこういった市井の人たちなのだとあらためて思う。

 

 

高峯神社に初めて一緒に行った日のことだった。賀恒さんを家まで送り、挨拶をしてふと見上げた時に目に入った。賀恒さんの家の2階の窓際に小さな机があって、机の上に土佐町史が置かれていた。
ああ、あの場所で賀恒さんは土佐町史のページを開いているのだ。
あの場所に座り、自分の生まれ故郷や暮らしている土佐町の姿を思い描いてきたのだ。
賀恒さんが自分の知っていることや学んだことをいつも熱心に話してくれるのは、会ったことのない祖先たちから受け取った何かを次の世代に手渡したいという賀恒さんの願いのあらわれなのではないだろうか。

 

重ねてきた日々の尊さを思う。

今まで通りすぎてきた道のあちらこちらに、いつのまにか手のひらからこぼれ落ちてしまったこの町の輪郭があることを賀恒さんは教えてくれた。毎日通る道の風景や頰に感じる風を、昨日とはまた少し違うものに感じるようになった。

次の世代に手渡すということは、こういうことなのかもしれない。

 

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私の一冊

西野内小代

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「日本史の新常識」 文藝春秋編 文春新書

 

現在の教科書で明記されている事柄は、私が授業の中で暗記に勤しんだ時代の「日本史」とは定義等の見直しによって若干ズレが生じているらしい…。

例えば、鎌倉幕府の成立は「いいくに作ろう」の1192年ではなく、実際に武士によって全国の統治が始まった1185年を支持する研究者が多いそうです。

遣唐使等によってもたらされたとされる中国文化も、実は貿易商人の活躍によって交流が盛んになったというのが真実で、遣唐使等は20年に一度ほどの国家プロジェクトに過ぎなかったと書かれています。

活字となった歴史と肌で感じる歴史には温度差があることを実感させられる本です。

西野内小代

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賀恒さんは土佐町の隣、いの町で生まれた。

「昔からの血縁関係で、叔母に子供がなかったから土佐町に連れて来られて。兄弟10人もおったもんじゃき、戦争が終わって食料のない時で、口減らしによ。中学校を卒業するのを待ちかねちょって、世話せいと言われて連れて来られてよ。15歳の時よ」

賀恒さんはその時からこの芥川の家で暮らし始めた。

「最初は電気もないところでよ。叔父と叔母と3人だけの生活じゃったけ、なんでこんなところに養子に来たんじゃろうと考えてみたり…。炭を焼いたり、三椏をとったり、そんな生活をしてた。1日がかりで歩いて高峯、陣ヶ森を超えて石原へ買い物に行った。石原へ行くのに高峯の参道を超えていくのが一番近道で。高峯への道は、自分が若い時の生活道よ」

「今、自分は85歳。今となって初めて考えることがあってよ、先祖は60代、70代で亡くなっちゅうけど、自分は85歳。ここまでどうして生かしてくれたろうと感謝しよります」
賀恒さんはそっと笑うのだった。

 

親戚とはいえ、自分の実親ではない人に育てられたことを賀恒さんは今まで何度も私に話した。そしていつも「叔父も叔母もとてもよくしてくれたのよ」と言い添えた。

 

「土佐町史」という深緑色をした布張りの厚い本がある。この本には土佐町の地域ごとの歴史や文化、言い伝えなどが詳しく書かれている。賀恒さんはこの町史を読み込んでいて、高峯神社のことはもちろん、神社の境内にある手洗い石のこと、高峯神社への道しるべの存在、山や峠、峰の名前…、たくさんのことを教えてくれた。

隣の家の蔵にあった昔の出生届。高峯神社の神官さんが木の札に書いていたのだそうだ。

 

出会ったばかりの頃、私は賀恒さんのことを歴史が好きな人なのだなと思っていたが、一緒に高峯神社を歩くうちにそれだけではないのでは、と感じるようになった。

これは想像だが、町史を読み、実際にその場所を訪れ、ひとつ一つの史実や事実を知っていくことは、実の親元を離れて土佐町に来たこと、この場所で生きていく現実を自分自身に納得させていくような作業だったのではないか。そんな風に思うようになった。

 

 

「あそこにお墓があるろう?よく見てみたんじゃけんどよ、15代前の人のもあった。不思議に思うんじゃけんどよ、もし誰か一人でも欠けていたら自分はいなかったんだなと思うのよ。そう思うと今ここにいるのが不思議だなあって」

 

ひとつひとつの石に刻まれた名前。
この石が、この地で生きていた人たちがいたことを教えてくれている。

会ったことのない先祖たちがいたこと、そのうちの誰か一人でもいなかったら今の自分は存在しなかったこと…。そのことを初めて理解したのは、確か小学生の頃だったと思う。自分とつながる人たちが手をつなぐように、絡むように、深く延々と、まるで螺旋のように迫ってくるような気持ちがしたものだった。人は皆、誰でも体の内にその螺旋を持っている。人はいつも必ず誰かと繋がっているのだ。

(「高峯神社の守り人 その4」に続く)

 

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私の一冊

藤田純子

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「お菓子な文房具」 平田美咲 汐文社

ポストを開けると、ポッキーやTOPPOのお菓子の箱に切手が貼られ、それが私宛ての手紙であったなら、びっくり!!笑顔になります。絶対に!

お菓子のパッケージってカラフルでハッピーなデザイン。大人でも幸せになれるのです。それを少し工夫して楽しい文房具に変身させるという、うれしいアイディア本です。

キャラメルの箱はスライド式になっているので、中の箱に小さな取っ手をつけて引き出しに。中にメモ用紙を入れるなど、子どもたちの心にどんぴしゃなアイディアが盛りだくさん。

とても楽しい本です。

藤田純子

 

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賀恒さんは高峯神社の守り人。

70年間ずっと高峯神社のお世話をしている。高峯神社のことを知りたかったら賀恒さんに聞いたらいいと黒丸地区の仁井田亮一郎さんが教えてくれた。そのことがきっかけで賀恒さんを初めて訪ね、それから何度も一緒に高峯神社へ行った。
そのたびに賀恒さんは、芥川の家に毎日のように通って仕事をしているのだ、と話してくれた。

 

今、賀恒さんは土佐町の石原地区に住んでいる。

今から40年前、賀恒さんのお子さんが保育園に入る年になり、芥川から保育園へ通うには遠すぎるので石原の家に引越した。当時、石原地区には保育園はもちろん、学校や宿、色々なお店があり、人の行き交う賑やかな場所だった。賀恒さんは石原に「いつのまにか住み着いてしまった」のだという。

それから40年間、石原から車で30分くらいかかる芥川のこの家に賀恒さんは毎日のように通って、家の周りや畑の世話をしている。雨が降っても日が照っても、来れるときは大抵芥川の家に来ている。
「正月から大晦日まで休みなしですけ。アホのすることよ」
賀恒さんはそういうのだった。

 

賀恒さんは「まあまあ、そこに座りなさいよ」とぽかぽかと日の当たる縁側に案内してくれた。

静かに並ぶ先祖のお墓、きちんと剪定されたお茶の木やしいたけのホダ木が置いてある栗の木の周り…。とにかく視界に入るところ全て、賀恒さんの手が細やかに入っていることがわかる。

なんて美しいところなのだろう。
日向ぼっこをしながら、ぼんやりと目の前に広がる風景を眺める。

賀恒さんはポットに入ったお茶を湯飲みにそっと注いでくれた。白い湯気がゆらゆらと影になり、縁側を照らす光と重なった。それは賀恒さんが5月に摘んで炒ったお茶で、野山の味がするとても美味しいお茶だった。

 

同じ敷地内のすぐそばに、もう一軒家が建っていた。「ここにはもう誰も住んどらんよ。ゼンマイを採らせてもらってるき、草を刈らしてもらいゆう」と賀恒さんは話してくれた。

 

今まで誰かが住んでいた家に人がいなくなり空き家になると、草は伸び放題、家はあっという間に朽ちていく。そんな家を今まで何軒も見てきた。
でも時々、誰も住んでいない家なのに人の気配を感じる家に出あうことがある。そういった家は大抵、家の周りの草が刈られていたり、家に向かう道々に花が咲き、今も誰かがこの家に来ているということを教えてくれる。住んではいないけれどこの家を大切にしている人がいるということは、不思議なことにじんわりと伝わってくるものだ。
賀恒さんは、遠くに住むこの家の大家さんに、この山の栗や山菜を送っているのだという。

 

40年前、芥川には家が3軒あったそうだが、今はこの賀恒さんの家と少し離れたところにあるもう一軒だけになっている。賀恒さんは毎日通うことで、自分が育った家と芥川という地域を守っているのだ。

(「高峯神社の守り人 その3」へ続く)

 

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