南川の、とある山の奥に大木を撮影しに行った帰り道。
車で山を下っていると、そんな山奥で前から白い軽トラが現れた。車の中には石田清一郎さんと川田雅敏さん。荷台にはレオ。
車を止めて少し立ち話。お二人(と一頭)、山を上がったところで山仕事をするために来たらしい。
そういえば道脇に丸太を積んであったところがありました。ふと思えば舗装されていないこの山道も、砂利がひかれて草も刈られている。
そう多くの人が上がってくる場所ではないこういう山の中も、人の気持ちが入った仕事があるのです。
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土佐町の現在の人口です。(2017年6月末時点・土佐町公式サイトによる)
注:土佐町の総人口が3,997人(2017年4月末時点)から4,001人(6月末時点)に増加したことに伴い、当プロジェクト名も「4,001プロジェクト」に変更になりました。
“4,001プロジェクト”は土佐町に住む人々を、全員もれなく、写真家の石川拓也が撮影する計画。
念のため書いておくと、「全員もれなく」…あくまで目標です。
土佐町の人口の増減によって、タイトルもたまに変わります。 (敬称略・撮れたときに不定期更新)
前編はこちらから。
集まる食材は当日になるまで分からない。ひとつひとつ確認しつつ、頭の中で献立を組み立てる。持ち寄られるものは開催毎に違うから、同じ料理は出てこない。子嶺麻自身はじめて扱う食材もあるし、これまで作ったことのない料理も少なくない。まさに、一期一会のメニューだ。
ふたつのイベントには、いろんな参加方法がある。材料を持って来てもらう他にも、一緒に調理をしたり、食材を洗ったり切ったり、もちろん食べるだけだっていい。どんな関わり方であれ、捨てられるはずだった食べ物が美味しそうな料理として目の前に出てくると、持参したあの食べ物がこうなったのかと驚きや喜びがある。
子嶺麻と一緒に台所に立つと、その調理法に目から鱗が落ちる。
「揚げ物は鍋肌に10秒以上当てると油切れがいい」
「野菜を蒸したり煮たりした汁は捨てずに、出汁として使う」
「こうすれば、根っこも皮も食べられる」
中華風、和風、洋風、アジアン、、、料理のジャンルに捉われない品々がどんどんテーブルに並んで行く。いただきますをしてからも、彼女は調理を続け、新しい皿に盛られていく。とても食べきれないので、希望者にはタッパーに好きなだけ詰めて持って帰ってもらう。
このイベントは、周りのサポート無しには成り立たない。事前の食材集めから、下処理、洗い物や片付けなど。ありがたいことに、毎回たくさんのお手伝いがあり、たくさんの「美味しい!」の声がある。それは子嶺麻の喜びとなり、次回開催への意欲となっている。
主旨に賛同してくれた方々に呼ばれ、各地で開催する機会も増えて来た。「あるもんでキッチン」は、地域の方達が集まり自主的に行なっているところもある。はじめは個人が中心だった食材提供も、スーパーなどから出る賞味期限直前の食材や野菜の外葉などいただくこともある。そうやって、少しずつ繋がって、広がっている。
いずれは、世界中の廃棄食料が無くなって、イベント開催できません!なんていう日がくれば素敵だなと夢見てる。
旦那の僕が言うのもなんですが、うちの奥さん子嶺麻(シネマ)の作る料理は、とても美味しい。
高知引越し前に住んでいたブラウンズフィールドでは、スタッフの食事を作っていたし、敷地内にあるカフェでも不定期だがランチを作っていた。なので、「飲食業やらないの?」とよく聞かれるみたいだ。でも彼女はいつも首を横に振る。例えばカフェを営業するなら、いつ、どのくらいお客さんが来るか正確には分からない状況で仕込みをしなければいけない。途中で売り切れになってしまったら、来てもらったお客さんに申し訳ないから、多めに作る。結果、売れ残りが出る。スタッフや友人がいる場合は、まかない料理として出され無駄にはならないが、彼らが不在のときは廃棄となってしまうこともある。彼女にはこれが許せないのだ。
日本の食料自給率は、カロリーベースで四割以下と言われる。つまり、六割は海外からの輸入に頼っている。一方で、破棄される食料は年間二万トン。子嶺麻には、この状況をどうにかしたい思いがずっとあった。食材はなるべく使い切り、生ごみを減らし、無駄な買い物はしない。それでも、世界では毎日大量の食べ物が捨てられている。現状は変えられないかもしれないけれど、少しでも廃棄食材を減らせれば、と彼女がはじめたのが、「もったいないカフェ」と「あるもんでキッチン」だった。
「カフェ」は、子嶺麻が料理したものをお客さんに食べていただく。「キッチン」の方は、参加者と一緒に調理して、いただきましょうというイベント。
食材を買うのは「もったいない」ので、「あるもんで」で工夫する。
各家庭で、賞味期限間近な食品や買い物したりいただいたりしたけれど食べ方や調理法がわからずそのままになっている食材、旬で採れすぎた野菜などを持ち寄ってもらう。子嶺麻自身はお肉を食べないので、動物性食材はお断りしている。また、シンプルに料理したいので、添加物の入った加工品もご遠慮いただいている。
後編に続く。
「末広がりのいい会社をつくる」 塚越寛 サンクチュアリ出版
著者の塚越寛さんは、伊那食品工業という会社の社長さん。「かんてんぱぱ」の会社と言ったらピンとくる方も多いかもしれません。塚越さん、今年5月高知のかるぽーとで講演されていました。
題して「みんなが幸せになる会社のあり方」。
企業のトップとしてどのように経営を考えていくか。どうやって従業員を幸せにしていくか。売り上げとは企業にとってなんなのか。
印象に残ったのが、幹部で集まって経営について会議する際に、「売り上げ目標について話すことが全くない」ということ。
じゃあ何を話ししているか?「世の中の価値観がどう変化しているか。そればかり話ししています。」
会社は従業員や地域住民を幸せにするためにある。そして売り上げはその幸せを実現するための手段。あくまで手段であって目的ではない。
そういった言葉のひとつひとつに、気負いやはったりを全く感じず、逆に深みと説得力を大きく感じるのは、塚越さんが長年この言葉を実践してきたという「過去形」で話しているからなんだと思います。
「こうなったらいいよね」「こうなるのが理想だよね」もちろん理想を持つこともとても大切なことですが、言いっ放しは誰でも簡単にできる。
大事なのは、少しずつでも現実を理想に近づける小さな一歩。そんなことを考えさせてくれる一冊です。
とさちょうものがたり ZINE 04号を発行しました!
本日7月19日(金)に発行です。土佐町内の方々には全戸配布されますので少しお待ちくださいね。
「とさちょうものがたり ZINE」は当サイト「とさちょうものがたり」から生まれた土佐町の雑誌。04号は窪内隆起さんの連載「山峡のおぼろ」を一冊にまとめました。
窪内隆起 (くぼうち・たかおき)
元産経新聞・司馬遼太郎氏担当編集者。 昭和7年(1932)高知県土佐町(旧地蔵寺村)に生まれ、12歳まで西石原地区で育つ。 1955年産経新聞大阪本社入社。文化部在籍中に司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」「坂の上の雲」の連載を担当。 産経退職後テレビ高知報道制作局長、監査役。1988年に随想集「たて糸よこ糸」で高知県出版文化賞受賞。
司馬遼太郎さんが「竜馬がゆく」「坂の上の雲」を執筆されていたまさにその頃、産経新聞の記者であった窪内隆起さんは司馬さんの担当編集者をされていました。
その窪内さんは、12歳まで土佐町西石原で過ごしています。約70~80年前の土佐町(当時は地蔵寺村)の暮らしを描いた連載が「山峡のおぼろ」です。
ZINE04では、連載「山峡のおぼろ」から17話を厳選、未公開作3本を加えた20の物語をまとめました。
私たちは今ここにいて、
「私たち自身がどこからどうやって歩んできたのか」を知りたいと思う。
昔を懐かしむためでなく、
便利な時代になったと確認したいためでもなく、
「私たち自身がこれからどこへ向かうのか」を
考え答えを導き出すために。
現在この場所で生きている私たちにとって、
ここまで連れてきてくれた世代の人々が、
どのように暮らし、何を考え、
どんな笑顔と泣き顔があったのかを知ることは、
「私たちが次の世代をどこへ連れて行くのか」を
考えることと同じこと。
「あのころ」を知る。「これから」のために。
04号3ページより 文:石川拓也
昔を懐かしむためのものではなく、これからの未来を築くための一冊です。
とさちょうものがたりZINEは発行後の一定期間は無料配布、その後はバックナンバーとして書店などでの販売期間になります。
04号はだいたい8月初旬までを無料配布期間としています。配布は以下の場所で随時開始します。※これから発送を始めますのでしばらく時間がかかる場合があります。ご注意ください。
「土佐町の民話」 土佐町の民話編集委員 土佐町教育委員会
土佐町に伝わる民話を集めたこの本は今から28年前に作られました。土佐町史編纂時に町内に広く呼びかけ、収集、整理されたものだそうです。
「とさちょうものがたり」の中のカテゴリーのひとつである「土佐町ストーリーズ」でも、この本の民話を紹介しています。
和田守也町長もこの本の編纂に関わっていて、本の挿絵を描いています。「この本を作った時点でも民話がどんどん町から消えていくのを感じていた」と話していました。
この本のはじめには、こう書かれています。
『民話は、昔の人の暮らしや社会の様子を知ることができます。温故知新という言葉があります。先人の生活や文化の中から新しい町づくりや産業振興についての知恵を学ぶとともに、郷土史を身近なものとして理解し、郷土愛が生まれることを願うものであります』
28年後の今、先日行われた幸福度調査アンケートでは『地域の伝説や民話をどれくらい知っているか』という質問がありましたが、「全く知らない・あまり知らない」という人たちの割合がとても高いことがわかりました。この結果をどう捉え、どうしていくのか町全体で考えていく必要があるのではないかなと思います。
この地の先人たちが積み重ねてきた暮らしの上に今の暮らしがあるということ、毎日見ている風景の向こうにある奥ゆきを忘れないでいたいと思います。
鳥山百合子
(前編はこちらから)
しかし4年目のある日、「いかんと思うてほたくっちょった」育苗箱をふと見た時、岡林さんは目を疑いました。
「芽がでゆう!」
それは貝割れ大根のような、細く小さな芽でした。
「そりゃあ、うれしかったよ!そりゃあ、うれしいで!」
岡林さんは芽が出た条件を独自に研究し、大きくなったものをポットに植え替えて畑へ移植。毎年少しずつ株を増やしながら植え続け、畑の面積を広げていったそうです。
「何十万、何百万という種があるきね、100万位は畑に落ちちゃあせんろうか…。でも、ほとんどは生えん。なんぼ落ちたち条件が揃わんとね。芽が出たらしよいでよ(育てやすい)。条件がよかったらずっと生える」
「とにかく種から苗を立てるのが難しかった。芽がでるまでが苦労した。全部1人でやらないかんかったし。今の状態になるまで20年ばあ、かかった」
「もしあの時、芽が出ていなかったら、今、全然しやせんで」
猿にしおでの先をかじられ、アナグマに根元を掘り返され、うさぎもイノシシもいる。日々、動物たちとの戦いです。
それでも岡林さんはこの場所でしおでを作り続けています。
瀬戸地区で生まれた岡林さん。
「県外に出たいと思ったこともある。でも、どこ行ったち働かないかんしね。ああでもない、こうでもないと、ある程度はあずってせないかん」
岡林さんのしおでの畑の目の前には雄大な景色が広がっていました。はるか下の谷間に見える一本の白い筋から、どうどうと地の底から駆け上がって来るような水音が響いてきます。
「あれは瀬戸川。正面の山、あれは東門(ひがしかど)山。左は岩茸山で、左向こうが黒丸の集落。右奥は大師山で、右後ろは安吉」
自分の立っている小さな一点は、連なる山々とちゃんと繋がっているのです。
岡林さんは教えてくれました。
「しおでを取り終わって1ヶ月くらいした後、土が見えんなるばあ葉が茂って、しおでの棚が真っ青になる。それは綺麗で!青白い花が何万と咲いて、ミツバチがどんどん来る。不思議なんじゃけんど、昼は来ん。夜に蜜が出るんじゃろうかね、しおでだけは夕方、仕事から帰る時分にブンブンブンブン来る。」
「その時、また見に来たらえいよ」
それは、しおでを育てている人にしかわからない自然の営みです。
「しおでを、いろんな人に、ようけ使うてもろうてよ、送ってくれと言われたらうれしい」
岡林さんはそう話してくれました。
お土産に、両手がいっぱいになるほどしおでをいただきました。
岡林さんオススメのかき揚げを作ってみました。
しおでのかき揚げ
【材料】しおで・小麦粉・塩・水
①しおでを食べやすい大きさに切る
②小麦粉に水、塩を加え、とろりとした衣を作る。(卵を加えたり、小麦粉の代わりに米粉を使っても美味しいです)
③しおでと衣をからめてからりと揚げる。
④塩をパラリとふって、熱いうちにいただく。
少しモチっとしてた食べ応えがある食感。ついついもう一つ、と手を伸ばしたくなる味です。
土佐町だけで育てられているしおでの収穫は、7月上旬まで。
「幻の山菜」と呼ばれるしおでを、ぜひ多くの方に味わっていただけたらと思います。
*岡林さんと出会うきっかけをつくってくれた土佐町の島崎直文さん、ありがとうございました!