2021年6月

笹のいえ

ごっこ

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次男六歳と次女三歳の好きな遊びのひとつは、「ごっこ」。

設定はそのときによりまちまちだが、家族設定、ヒーローもの、流行りの漫画やアニメを真似たものなどがある。この遊びがはじまるとき、たまにふたりは「父ちゃん、ごっこしよ〜」と誘いに来る。

しかし、僕はこの遊びが大の苦手だ。

まず、演じている自分を客観的に見てしまって、恥ずかしいと感じてしまう。それから、流行りのキャラクターの詳細を全然フォローしていないから話についていけなくて、ダメ出しされる。武器を使うときに発する効果音(シャキーンとかバキューンとか)を叫ぶのもちょっとアレだし、撃たれたとき大袈裟に倒れる演技も照れてしまう気持ちが大きい。本当はキャッチボールとか自転車漕ぐとか、そんな遊びの方が好きだ。

けれど、ごっこしようと言っている彼らの気持ちは、もうどうしたって100%ごっこ気分なので、変更は難しい。僕はああ憂鬱だなあ本当はやりたくないなあと思いつつも、子どもの希望を聞くのは親の役目だしと、付かず離れずこの遊びに付き合っていた。

しかし、やっぱり苦手なものは苦手。

なので、気分が乗らないときは、断ることにした。

子どもの遊びにくらい、適当に付き合ってやればいいのにと、もうひとりの僕が心の中で囁く。いやでもしかし、大人だろうが親だろうが、ときには断る勇気も必要だろうと別の僕が反論する。

思い切って断ってみると、子どもたちは最初グズっていても、そのあとは僕抜きの設定で自分たちで上手に遊ぶことが多かったりする。「親なのだから常に子どもの相手をせねばならない」「子どもの期待には応えるべきだ」と言うステレオタイプに縛られすぎていたのかなと思う。親だってできることとできないことがある、そう大きな声で宣言してもいいのではないだろうか。

 

写真:ついに補助輪なしで自転車に乗れるようになった次男。ドヤ顔でペダルを踏む彼の表情がカッコイイ。ところで、子どもたちは自転車のことを「ジテン」と呼ぶ。土佐弁なのかな?

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私の一冊

石川拓也

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「あれよ星屑」 山田参助 KADOKAWA

なんでこんなすごい漫画が描けるんだろう?

久々にそう思わせてくれた漫画です。こんなに悲しくて切なくて、エグくて輝いている漫画を描ける人間に、叶うことならなってみたいと思います。

物語は戦後の混乱期から始まり、中国戦線から復員してきた黒田門松と、「班長殿」と呼ばれる川島徳太郎を中心に進んでいきます。

男も女も子供も老人も、悲しみと敗北感を抱えながら今日を生きることに必死で、だからこそ命が輝くような、そんな物語。

冒頭に班長殿は「黒田 俺はな あのとき死んだほうが良かったと思っとる」と言って酒浸りの生活を送っているのですが、物語が進むにつれその鬱屈の正体が判明していきます。

戦後と戦中(二人の中国戦線時代)が交錯し、時には異常な極限状態の中で、人間性を失うことを強要される(もしくは人間性を失った方が楽になれる)ような現実を眼の前にして、さあお前ならどうするかとヒリヒリする問いを投げかけられているような気がします。

その闇の部分が漆黒の深い闇として描かれている分、戦後の少々コミカルでエロも入った部分が光として輝く。

大人の漫画として、なぜ今まで読んでなかったんだろうと悔しくなりました。

とさちょうものがたり編集部に全7巻置いてありますので、ご興味のある方は読んでみてください。

 

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山峡のおぼろ

奇縁・奇遇

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今は空気銃も免許制だが、私の子供の頃は皆、自由に使っていた。

小学校の高学年になると、戦地へ行った父が置いていった空気銃を持って、山で小鳥を追った。

空気銃にからむ1つの思い出がある。

山で、小鳥が居ないので木に残っている熟柿を射って遊んでいると、背後から、

「空へ弾丸が抜けるようにせにゃいかんぞね」

と声がかかった。振り返ると、地下足袋、巻脚絆姿で、肩に猟銃を掛けた見知らぬ中年の人だった。そして、向うの方を指差しながら、

「向うに畑があるろう。人が居ったらおおごとになるぞね。柿を射つならもっと真下へ行って、空へ抜かにゃいかん」

穏やかな言い方であった。そして背中のリュックから取り出した“ほしか餅”を渡してくれ、にっこり笑って山の奥に行った。

その言葉は、子供心にもじわりとしみ込んだ。それからは熟柿はもちろん、小鳥を射つ時も、獲物の向うを必ず見極めるようにした。

帰って、その人の年恰好を祖父に話すと、

「時々山で見かけるが、知らん人じゃ」

と言った。

 

終戦の昭和20年(1945)に私は旧制海南中学校に入り、高知市に下宿した。

戦災が徐々に復興し、中学校野球も復活して、旧制城東中学校の前田祐吉投手が、名投手の名をとどろかせた。

前田投手の投げるのを見に、高知市営球場に行った時、山でのあの人と会った。3年ぶりぐらいだった。

その人は私が中学校に入っていることを喜んでくれ、アイスケーキを買ってくれて、山での“あの時”の思い出も話した。

 

その後私は高校、大学を経て昭和30年(1955)に産経新聞大阪本社に入社し、35年(1960)に、社会部から北陸の福井支局に転勤した。その福井支局当時のことである。

福井に於ける大きな取材源である曹洞宗大本山永平寺へ取材に行った時のこと。

小さな谷川沿いの参道を上ってくる観光客を狙って撮影した。

人の列が過ぎ去ってカメラから目を離した時、のんびりと周辺の写真を撮りながら上ってくる人が居た。

近付いて目が合った瞬間、双方とも相手の顔を見詰めて立ち止まった。相手は60歳ぐらいの人だった。

その人が先に口を切った。

「間違っていたらごめんなさい。むかし高知の山で、空気銃を持っていた子供さんじゃありませんか」

瞬間、脳裡に石原の山、高知市営球場と、15年以上も前のことが甦ってきた。

初めて会った山では“ほしか餅”を貰い、2度目に会った野球場ではアイスケーキを買ってもらった。

その時の情景を思い浮かべながら、3度目に会ったこの時は私の方から永平寺門前の店に誘い、越前料理を食べてもらった。

その人は戦時中、肺浸潤が治ったばかりで、体力回復のために、あちこちの山野を歩き回っていた、ということであった。

谷川のせせらぎが聞こえる老杉下の店で1時間ほど、思い出を遡らせながら話し合った。

そのあと、その人は東尋坊観光に行った。

思い出話に熱中して、相手の名を聞く気が回らなかったのであろうか。或いは3度会って話もしているので、相手の名を知っているような錯覚をしていたのであろうか。

その人の名は今も知らない。

 

 

撮影協力:高橋通世さん

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土佐町の人々

木を植える人 その5

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種子さんのアルバム

ここ数年、種子さんは体調を崩しがちになり、定期的に病院へ通う生活を送っている。以前は週に3回は稲叢山周辺へ行き、木々の手入れをしていたが、今は山へ足を運ぶことが少なくなっている。

私が種子さんのお話を聞きたいと連絡したのは4月の中頃だったが、そのとき、種子さんはまだ今年の桜を見ていなかった。

種子さんは車を運転することができない。一緒に車に乗って山へ行き、一緒に木を植え続けてきた友人も歳月とともに年を取り、話をしてもわからない状態になっているという。この数十年の間に亡くなった人もいる。自分の山の土を分けてくれた和田さんも亡くなった。

時とともに木は育つ。その一方で、人は歳をとり、衰えていく。

 

2011年(平成23)3月、原石山での植樹。中央左が、種子さん(写真提供 谷種子)

種子さんは、アルバムを見せてくれた。植樹した年ごとにまとめられた数十冊のアルバムには、花や木々、共に木を植えた人たちの姿が丁寧に納められていた。

「楽しかったからできた」

その言葉には、種子さんが注いできた全てが込められている。

 

 

種子さんの願い

稲村ダムへ向かう道沿いに、一つの記念碑が立っている。
それは「ふるさとの森を育む会」の設立15年目に建てられた碑で、種子さんをはじめ、会が行ってきた植樹について書かれている。

この記念碑にある一文を指差して、
「私の願いはこれなんです」と種子さんは言った。

 

 

その一文はこうだ。

「次世代への伝承を祈念し、この碑を建立します」

木を植えるということは、今日・明日という単位のものさしではなく、もっと長く、もっと深いものさしで見据えた未来を描くことなのだと思う。自分がもう生きていないだろう未来を信じ、木を植える。それは、他の人に簡単に頼めることではないし、簡単に手を挙げられる話でもない。だからこそ「跡を継ぐ人がいなくて…」と種子さんは話す。

そして、以前はボランティアで関わってくれる人も大勢いたが、「今はボランティアでお願いするのが難しい時代になった」と種子さんはいう。人口が減ったことで一人が担う仕事が増え、ボランティアで関わる余裕がなくなっている、と。
時の流れとともに、変わらずにそこにあるものと、変わっていくものとがある。

 

 

引き継ぐ人を探して

今年の5月、種子さんが植えた木々の間を歩いた。その日は朝から雨が降っていて、急に雨足が強くなってきた。雨宿りをしようとケヤキの木の下に入ると思いのほかまぶしくて、頭上を見上げた。
細く枝分かれしたところから、小さな雨の雫が枝を伝い、滑るように流れていく。そして枝先で一粒となり、順番にひとつ、またひとつと、土の上に落ちていくのだった。

ここは、ふるさとの森。
23年間、種子さんが植え続けた木々は森となり、この山に水を蓄える。

 

今、種子さんは、自分に代わってふるさとの森を引き継いでくれる人を探している。

 

今年の春、種子さんと一緒に原石山に咲く桜を見に行った。

「春は桜が咲いてきれいでしょう?秋もきれいですよ。山は真っ赤に紅葉しますから。夏も来てみてください。緑がいっぱいです」

2021年、今年は植樹が始まってから24年目になる。
谷種子さん、88歳。
種子さんは、今年も木を植える。

 

 

現在の「ふるさとの森を育む会」の皆さんと嶺北森林管理署の職員さんと共に。種子さんは前列、左から4番目。(写真提供 谷種子)

 

 

 

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私の一冊

鳥山百合子

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「どうぶつサーカスはじまるよ」 西村敏雄作 福音館書店

「母さん、このプツプツ、なんだろう?」

長女が4歳だった時、手のひらを広げて、私に見せに来ました。手のひらには赤い発疹がいくつか。「あれ?なんだろうね?」そう言っている間に発疹はどんどん増え、顔やお腹、足に広がっていきました。次第にその点同士が繋がって、全身は紅色のまだらの斑点で覆われました。熱もどんどん高くなる。呼吸も乱れ、ぐったりとしている娘。

その症状を見て、思いました。まさかと思うが、間違いない。多分、麻疹だ…。

熱の塊になっていた娘をおんぶして病院へ。お医者さんは「あれ?はしかかな?でも背中に発疹がないのがおかしいね…」と言います。多分予防接種をしていたから、背中は斑点が出なかったのではとのこと。結局、血液検査で麻疹だとわかりました。

麻疹は感染力が強いため、治るまで外に出られません。治るまでどうやって過ごそう…。

先が見えず途方に暮れていた時、本屋を営む知人の顔が浮かびました。

「思いっきり元気になれる、楽しい気持ちになれる本を送って!」

その注文に応えて、送ってくれたのがこの本でした。

パンパカパーン、パンパンパン、パンパカパーン!で始まるどうぶつサーカス。馬のダンスやワニの組体操。ライオンの火の輪くぐりでは、ライオンの毛が燃えていました(笑)。空中ブランコでは、怪我をして出られなくなった猿の代わりにお客さんのぶたが宙を舞う。いい意味でのんきで楽しい動物たちに、どんなに励まされたか!

一緒に笑うことで不安やしんどさを吹き飛ばし、麻疹の日々を何とかやりくりしていました。今となっては、たまらなく懐かしい思い出です。

 

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